taboo 9

 初仕事から三ヶ月。ゾロはあれ以来何の仕事もせず、日々はレッスンとジム通いに明け暮れていた。だが何かがゾロの中で芽生えている。もう一度、シャッターの音に呑まれてしまいたい。そのように思う自分に驚いてもいた。
 だがサンジの仕事も大詰めなのか、会社から戻らない日も多く、それに伴いレッスンの日も少なくなっている。
 避けられているわけではなさそうだ。純粋に仕事が忙しいのだろう。すれ違いの日が続いている。あれ以来二人は寝ていない。ゾロは寝たいと思っているわけではない。そうではないが、ここまであっさりと手放されるとあの日の事を疑ってしまいそうになる。ゾロをモデルという気の進まなかった仕事に乗せるために寝たのではないか、と。その不安を埋めるにも、相手は戻ってこない。わずかな時間に交わされる会話は相手の深いところに触れるようなものではなく、世間話となんら変わらないものだった。

 滅多に鳴ることのない部屋の電話が音をたてる。受話器を取るとコーザが「出てこれるか?」と訊ねた。特に用のないゾロに、断れるわけもない。場所を告げられると、そこはさして遠くもないチェーンのコーヒー店の名前だった。十分くらいで行く、と答えると受話器を置き、コートを着込んで部屋を出た。
 ニューヨークは既に冬で、街は白と黒の世界だ。雪が積もり、道は泥と雪が混じり灰色になっている。滑らないように気をつけながら急いだ。吐く息が白く、鼻の頭が赤い。空気の冷たさに耳朶が痛い。ゾロは毛糸の帽子を深く被りなおした。
 約束した場所にコーザはいた。彼の向かいに座ると、挨拶もなく彼は雑誌を投げ置いた。ゾロが訝しげにしていると、コーザがページを開いて示す。
「どうだ? 初仕事の感想は…」
「俺の顔、見えてねえ…」
 開かれたそのページは見開きで、ビビの顔がアップになっており、その横にゾロがいる。だが顔は後ろから斜めに撮られているためにはっきりと見えない。
「当たり前だ。これは彼女の仕事だからな。お前は添え物にすぎん」
 その声は明らかに面白がっていた。いつものように口の端を上げて、皮肉そうに笑っている。
「だがオフィスの電話は鳴りっぱなしだ。『この男は誰だ?』とね。モデルエージェントから、雑誌の編集者から…。お前のデビューはあの男の思い通りだな」
「…アイツが何考えてるかなんて、知らねえよ。最近会ってねえもん」
「忙しいんだろう。プレスには既に発表されているからな。新作の香水が出ると…」
  ゾロは胸のしこりとなっていたことを、この男なら知っているのだろうかと思い口にした。
「…なあ、アイツって仕事の度に女が変わるって本当か?」
  その声は弱々しい。まるで自分の声ではないように感じる。頭の奥の冷えた場所で、そのような事をこの男に聞くのは馬鹿げていると告げる。だが感情の部分でついていかない。
「それは以前の仕事でか? それとも現在の…?」
 後者だとゾロが答えると、「イエスでもあり、ノーでもある」と彼は言った。
「だがそれほど気に病むことはない。あの男が女性に甘い言葉を囁くのは、礼儀のようなもんだろう」
「あんたの言うこと、分かんねえよ」
「全て分かる必要もないだろう? それより、誰がそんなことを君に言った?」
「ティムって男を知ってるか? サンジの助手とかいう…。アイツだよ」
 コーザは少し考え込み、「ティムに会ったのか」と訪ねた。
「…一度会ったことがある。何か、いけすかねえ野郎だった」
「その男に気をつけろ。サンジにもそう言っておけ」
 コーザは立ち上がり、コートを着た。
「どういう意味だ? そりゃあ」
「俺の立場からはそれだけしか言えん。忠告はした。じゃあな…」
 もう用はないとばかりに、踵を返してコーザは去った。
 ゾロは目の前の冷めかけたコーヒーに口をつける。コーザの言葉を素直に信じていいものか。だが確実に自分の知らないところで何かが起ころうとしている。ただ漠然とした不安に、手の施しようがないものかどうか。ゾロはしばしの間考えたが、起こってもいないことについて考えても無駄だ、というように首を振った。

 久しぶりにサンジの顔を見た。
「生きてたのか…」
「寒い外から返ってきた俺に、その言葉はねえんじゃねえのか。『お帰りなさい、ハニー』くらい言えよ」
「…もう一度外で頭冷やしてくるか?」
 ソファに寝そべったまま雑誌を読んでいたゾロは、サンジに目もくれず返した。
 肩に積もった雪を払いながらコートを脱ぐサンジに「ティムって男、どういう男なんだ?」と尋ねた。
「俺以外の男に興味を持つなんて止めろよ」
「そういうんじゃねえよ。アホか…」
 むっとしながら半身を起こしたところに、サンジが上から体を重ねてきた。外気に晒されていたため服が、体が冷たい。
「アイツは俺の有能な助手だ。それがどうかしたか?」
「いや…。コーザがさ、『ティムに気をつけろ』って…」
 サンジは少し眉をしかめた。
「何か心当たりがあるのか?」
 二人は体を起こし、ソファに座りなおす。
「さあな…。だがあの男がそう言うなら、一応気にとめておくよ。それより、久しぶりに早く帰ってきたんだぜ? お帰りなさいのキスくらい、くれてもいいんじゃねえの?」
 臆面もなく言い放つ目の前の男に、ゾロは眩暈を覚える。あの気持ちを伝えられず、似合わない様子でおどおどしていた男はどこにいったのか。
「ずっとほったらかしにしておいて、よく言うぜ。俺にキスさせたいなら、命令しろよ。そうすれば俺は立場上逆らえない」
 立ち上がりそう言うと、サンジは少しだけ哀しそうな顔をした。言い過ぎたのだろうか、という後悔の念を抱いたがもう遅い。
「お前は俺のこと好きじゃねえの?」
 まるで捨てられた犬のような目をしてゾロを見上げた。ゾロは言葉を詰まらせる。「好きか」と問われて瞬時に答え返せるほど、単純な関係ではない。男同士ということも、金で買われた関係ということもサンジにとってはなんら障害ではないらしい。だがゾロにその二つを無視することは出来なかった。惹かれている。寝るのを拒むほど嫌いではない。それが「好き」という純粋で単純な言葉に還元されるのかどうか、分からないだけだ。
「なるほど…。お前は命令されれば誰とでも寝るんだな」
 歯の隙間から搾り出すような声だった。まるで安っぽいソープドラマの台詞のようだ。
「誰がそんなこと言った。てめぇ、喧嘩売ってんのか?」
「やんのか?」
「上等だ、コラ…」
 売り言葉に買い言葉で二人とも後悔していたが、言葉を引っ込めることができない。暫しの間睨み合っていたが先にサンジが視線を反らした。
「アホらしい。俺は寝るぞ…」
 服のままベッドにもぐりこみ、ゾロに背を向ける格好で丸まった。
 サンジの背中を見ながらゾロは溜息を吐く。嘘でもいいから「好きだ」と言えば良かったのだろうか。だが嘘は吐けない。自分の気持ちを騙し、相手を騙してその上に城を建てたとしても、それは砂のように脆く崩れるだろう。自己を犠牲にし、相手に擦り寄ったところでその先に掴むものなど何もありはしない。
 だがサンジにかける言葉も見つからない。言葉は何時だって形にならない感情を殺ぎ落とさなければならない。その落として捨てた部分にこそ、真実は含まれている。どのように言葉にすればよいのか、ゾロには皆目見当もつかなかった。
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