taboo 8

 ゾロがジムで体を動かし部屋に戻ると、暫くして来客があった。モニタ付きのインタフォンで確認すると、そこには見知らぬ男が立っていた。
「どちら様?」
「あの…、僕ティムといいます。ティム・ロビンです。サンジさんに頼まれて、持ってきたんですけど…」
 男はカメラに手に持っていた封筒を見せた。
 封筒を渡すとすぐに帰るのだろうと思っていた男は「少し君と話したいんだけど」と言った。仕方なく、相手を部屋の中へ入れた。
 始めまして、と男は右手を出してきた。ゾロはその手を握り返す。歳はゾロより少し上で、どことなく卑屈そうな目をした男だった。
「君はここで暮らしてるんだ…。ああ、君の話は僕も知ってるよ。僕のボスはサンジさんだからね。ちょっといいかな…」
 そう言って彼はゾロの側に近寄り、少し鼻を動かした。
「なるほど…」
「なんだ?」
「いや…。確かに初めての匂いだ。でもこれを一つ一つ匂い分けて再現するのは、難しいな。いや、『伝説の鼻(ネ)』と呼ばれる彼には難しいことではないのかもしれないけどね…」
「なんだ、その『鼻(ネ)』って…」
「君は彼と一緒に住んでいるのに、彼について何も知らないんだねえ」
 その言い方はどこか粘着的で、不快であった。
「『鼻(ネ)』というのはね、調香師の中で優れた者だけが与えられる称号だよ。記憶や観念を香りによって再現する芸術家なんだ。そして彼は今現在において頂点にいる『』なんだよ。これがどんなに素晴らしいことか、君には分からないんだろうね」
 男は熱弁をふるった。よほどサンジに心酔しているのだろう。ゾロはどこか覚めた眼差しで男を見ていた。
「ああ、その封筒の中に君の初仕事について書いてある。ナミさんが忙しいので、替わりに僕が持ってきた」
「そりゃ、どうも…」
「彼はいつもそうだ。その時夢中になっている人間の匂いを再現するんだ。君は何時まで持つんだろうね。契約が切れても、彼と関係の続いた人間を僕は知らないんだけど…。なるべく長く持つことを祈っているよ」
 男は「君と会えて良かった」と言葉を残し帰った。

 男の最後の言葉がゾロの心に不安を植え付けた。別に構わない。二人の関係が契約までのものだろうと。そう思ったが、何故か落ち着かない気持ちになる。あまりにも心地よいこの生活を捨てるのが惜しいからか。それともあの優しさが仕事のためだけのものだと思ったからか。
 ただ一つ分かっているのは、感情の束の端をサンジが握っていることだけだ。あの男の言動一つで自分は笑い、悲しむ。そのことが腹立たしくもあった。
 間の悪いことに、サンジはその夜戻ってこなかった。仕事が立て込んでいるとの連絡があった。聞きそびれた言葉は、そのままゾロの胸へと仕舞いこまれ取り出す機会を逃してしまった。

 指示されたスタジオに、時間少し前に辿り着く。そこは幾つか同じ様な部屋がならんでいるフロアで、ゾロは自分がどこに行けばよいのか迷っていた。誰かに尋ねようにも人がいない。
「何してるんだ?」
 後ろを振り向くと見たことのある男が立っていた。
「あんた、この間の…」
「コーザだ。お前のスタジオはあの一番奥だろ」
 廊下の突き当たりを指差した。
「何であんたがここにいるんだ?」
「お前は仕事の概要も読んでないのか? 俺はビビのマネージャーで、この仕事は彼女の仕事なんだよ。まったく…、あの男は何を考えているんだか。こんな素人同然の男にビビと組ますとは…」
 溜息を吐くコーザを見て、憮然とした表情をする。それでも初めての仕事に、ゾロはどこか緊張しているのを否めない。
 扉を開けるとどこか埃っぽい匂いと鉄の匂いがした。目の前、部屋の中央には白い布が垂らされている。カメラマンに数人のアシスタント。それにヘアメイクを担当していると思われる人間。一枚の写真のために、十数人に及ぶ人間の手が必要だとはゾロは思いもよらず、熱気と人の多さに面食らった。
「やあ、今日は君の初仕事だね。私が君を撮る。ロッドニーだ。よろしく。緊張してるかい?」
 まるで髭の中に顔があるかのような男がにこやかに話し掛けてきた。
「ああ、少しだけな…」
「ははっ、正直者だね。素直であることは悪くないよ。そういう人物は私も撮ってて楽しいからね。ロフトの奥に部屋がある。そこで用意してきてくれ」
 暫くして階段から降りてきたゾロは上半身裸だった。ジーンズはそのまま自分の穿いて来たもので、上を脱いだだけだ。ざわついていたスタジオは一瞬水を打ったように静かになり、それまで和やかですらあった空気は引き締まった。
「カメラテストをしようか」
 ロッドニーのその声は既にプロのものだ。今までの気の良い中年男のものではない。
 中央で準備しているビビのもとにゾロは歩いた。視線が絡みつく。この男はどこまでやるのだろう、素人の男が。周囲の目はそう物語っている。品定めしている。それを感じずにはいられない。そしてゾロ自身もその点に関しては甚だ心許ない。だがそんな様子はおくびにも出さない。常に自信があるような素振りでいろ、と言ったのはサンジだった。見くびられるな、飲み込まれるな。それだけのものがお前にはある。周囲を圧倒させることが出来る。耳元であの男はそう囁いた。それだけが何の確信もないゾロの支えでもあった。
 ビビと挨拶を軽くかわし、二人はロッドニーに言われるまま動く。ただ響くのはシャッターの音だけだ。どのように撮られているかなど、ゾロには分かりようもない。だが体が自然と動く。あの男は、サンジはポージングのリズムをゾロの体に刻み込んだのだと今気がつく。シャッターを切るリズムに乗せられていることを感じながら、一瞬を切り刻もうとする音に飲み込まれそうになっていた。

「休憩にしよう」
 ゾロはその一言で我に返る。夢中で動いていたためか、その動きは静かなものであったとはいえ、体には薄っすらと汗をかいている。ビビはを直すために控え室に消えた。
 椅子に腰を降ろしたゾロの横にコーザが立つ。
「素人じゃなかったのか…」
「いや、あんたの言うとおり素人さ。カメラの前に立つなんて、子供の時以来だ」
「それにしては…。まあ、いい。…あんたの動きはあの男そっくりだな」
 最後の言葉は小さな呟きだったため、ゾロは敢えて何も返さない。
「男同士で何の話してるの?」
 戻ってきたビビが二人に声をかける。
「いや、単なる挨拶さ。それより、ビビ。この男との仕事はどうだ?」
「悪くないわ。絡みやすいし、私を押しのけて前に出てこないもの。でも存在感はある。自然に見えて、実は計算されている動きね」
 ゾロに向かって微笑んだ。
 計算されている? そんな風に見えるんだ、ということが驚きである。冷静にカメラの前に立つことなど出来なかった。計算する余地などなかった。ただサンジとのレッスンを思い出しながら、カメラの刻むリズムに身を任せただけだ。
 二人にそう告げると少し驚いていたが、すぐに合点が行った様子だった。
「女性モデルに人気がでそう。モデルって人種はね、どの人も自己顕示欲が強いのよ。まあ、こんな仕事だから当たり前だけどね。女性は自分をより美しく見せたいと思うし、男性も自分が目立ちたいと思うの。一枚の写真を撮るために、ファインダーの中で戦うのよ。でもあなたは違うのね。戦わずして勝つって感じかしら」
 そういう所もサンジさんから受け継いだのかしらね。ビビはそう言った。
「あの男が女性モデルに人気があったのはそういう部分があったからだ。もっともそれだけではないだろうがね…」
 コーザがサンジのことを苦々しく口にしながらも、仕事のことは認めていた様子が窺い知れる。
「今の仕事も楽しそうだけどな。この仕事も好きだったのかな、アイツ…」
「モデルの仕事も楽しそうではあったがな。今の仕事はなるべくしてなった、って感じだな。だがあの男が一番楽しそうな顔をするのは料理をしている時だろう」
 コーザは口の端を少しあげて皮肉そうに笑った。
「そうだったのか。料理している時のアイツは後姿しかしらねえからな…。今度顔を見てみるよ」
「そうするといい。実に真剣な顔をしている。馬鹿馬鹿しいくらいにね」
「でもなんでアンタがそんなことを知ってるんだ?」
 もっともな質問を投げた。
「サンジさんのマネージメント、彼がやってたのよ」
 その質問をビビが拾った。
「彼のモデルとしての才能に惚れてたのよね。サンジさんがモデルを辞める時の彼のうろたえぶりときたら…」
 くすくすと笑う。コーザはそんなビビを見て、溜息を吐いた。
 コーザが口を開こうとした時「休憩は終わりだ」という声が聞こえ、「ほら行ってこい」と言って二人を急かした。
 サンジがゾロを彼に引き合わせたのはビビのマネージャーだからだ。ビビをトップにまで押し上げたのは、彼の力によるところも少なくない。
「あんたは何もしなくていい。ただビビちゃんと仕事をさせてくれれば、それでいい。あとはアイツが自分でなんとかするだろう」
 サンジの言葉を思い出す。
「あの素人と仕事をして、うちに何のメリットがある?」
「ゾロと仕事をした、その事実がそのうちメリットになるだろう」
 サンジはそう嘯いた。この仕事を受けた時、正直なところメリットなど求めていなかった。それが旧知の仲であったサンジの申し出だったからだ。
 だが目の前のゾロを見ていると、サンジの言葉もあながち嘘ではないように思えた。
 やはり惜しい男を手放したもんだ。コーザはつくづくそう思った。
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