taboo 1

 匂いはさながら記憶の付箋だ。膨大なファイルを整理する。過去は全て何がしかの匂いによって呼び起こされる。
 子供の頃、日溜りの中で嗅いだ若草の匂い。露草の水滴にすら匂いがあった。
 どこかしら埃っぽい、路地に積っている枯草の匂い。
 柔らかな女性の甘い匂い。臍の窪みに溜まった汗の匂い。
 街の匂い、雨の匂い、風の匂い、壁の匂い、男の、女の…。

 一般人は匂いを嗅ぎ分けられてもせいぜい八種。だが「」は違う。六千種近くは嗅ぎ分けられる。だからこそ匂いによって記憶を、感覚を再現することが出来る。
 だがそのどれにも当てはまらない匂いを嗅いだ。懸命に記憶の付箋を手繰るが、どこにもない。それはちょっとした衝撃だ。

「分かったわよ」
 手に資料を持ち、忙しない様子でノックもせずに女性が入って来た。
「さすが、ナミさん」
「言っておきますけどね、この仕事の報酬は別枠よ。私の仕事はあなたの秘書じゃないんですからね、サンジくん」
 ナミは明るい色の髪を鬱陶しそうに片手で払いながらサンジのもとへと近づいた。入り口からサンジのいるデスクまでは三十歩といったところか。無駄に広いことは二人とも承知している。世の中利便性だけで物事を選択していくことは困難だ。こと会社ともなり、特に彼らの所属するようなイメージ性を重視する化粧品ブランドになれば。
「新しい『香』のイメージコンセプトは出来たの?」
「だからそれを今から考えるのさ」
 意気揚揚と資料に目を通すサンジを見て、ナミは溜息を吐いた。
「商品開発部主任の私を目の前にして言ってくれるわね」
「すまない、とは思ってる。俺が動かないことには、そちらも動き様がないことも理解してる」
 サンジの前にある、これまた不必要に思えるほど大きすぎる重厚な机にナミは腰かけた。
「彼を見てどう思う?」
 サンジはナミの顔を覗き込む。彼女は資料に添付されている数枚の写真を手に取った。
「…いい男ね。硬質な感じがするわ。姿勢がいいけど、どこかの事務所にでも所属してるモデルなの?」
 写真の中の男は膝の擦り切れ褪せた色のジーンズに、上はなんの変哲もないシャツを無造作に着ているだけだ。だが明らかに身にまとう空気が違う。どんなに人込みの中にいようとも、自然目が吸い寄せられてしまう。そんなタイプの男。
「いやモデルじゃないんだ。チャイナタウンの店でウェイターしているただの男」
「まさか!」
 ナミは驚きの声をあげる。確かにモデルにしては少々鍛えられすぎな体をしているかもしれない。だが隠し撮りしたらしき不明瞭な写真でもわかる端正な顔立ち。腕も足も申し分なく長い、バランスのとれた体つき。未だどこのモデルクラブも手付かずだとは信じられなかった。
「掘り出し物だと思わない?」
「…それは今回の仕事と関係ないんじゃない。私たちの仕事はモデルのエージェントじゃないもの」
「いや、関係はおおありさ。俺は彼の匂いを再現するんだからね」
「どういう意味かしら…」
 サンジは長い指で顎に生えている不精髭をしきりにさすっている。
「先週かな、俺は街で彼とすれ違ったんだ。ナミさんも知ってのとおり俺は『鼻(ネ)の称号』を持っている。 どんな匂いだって嗅ぎ別けられるし、そもそも俺の知らない匂いなんてない。ところがこの男からは俺の知らない匂いがした」
 ナミは何も言葉を挟まなかった。この男は香りの求道者だ。そもそも調香師の頂点でもある『鼻(ネ)の称号』を持つ人間は、この世に両手の数ほどもいない。その誰もが幼い頃から、そうなるべく厳しい教育を受けてきた者ばかりだ。だがこの男は違う。その判別能力は身につけたものではなく、天性のものだった。故にこの男は『伝説の鼻(ネ)』と呼ばれている。
「『伝説の鼻(ネ)』のあんたがそう言うならば、それは…。新しい香ね…」
 ナミは言葉を奮わせた。それは未知の香へ対する期待と興味。
「もちろん匂いは細分化すれば、そのどれもが判別可能だ。彼からは…そう、ベルガモット、オークモス、アンバー…、などが香っていた。他にもまだあったけどね。どうもそれがコロンやトワレではなさそうなんだ」
 夢想するように、一つずつ思い出し指を折り数えながらサンジは香料の名前を口にした。
「その男の体臭ってこと? アジア人は香料を食後に飲む習慣でもあるのかしら…」
 ナミのその真剣な口調に、サンジは口元を綻ばせる。
「楊貴妃は飲んでたらしいけどね」
「楊貴妃って…? まあ、それが誰でもいいけど、不味そうよ。それって…」
 香料を口にする想像でもしたのか、ナミは眉根を寄せて鼻に皺を作った。
「明日あたり、この男に会ってくるよ。話はそれからだな…」
「まあ、私は仕事が上手く進むならなんでもいいわ」
 それが本心である証拠に、ナミはあっさりと会話を切り上げ、部屋を出て行った。
 サンジは残された資料に目を戻す。ナミには話さなかったが、この男からは微かに血の匂いがしたような気がした。いや、違う。正確に言うと、血の匂いを体に纏わせるのがしっくりくるのだ。それはこの鋭い目がそう思わせるのか。まるで触れれば鋭利な刃物で切られるかのような、その目。傷つけられると分かっていながらも、誰もが触れずにはいられないような美しいナイフ。
「ロロノア・ゾロ…、か」
 サンジは一言その男の名を呟き、煙草を咥えた。香りを作る者にとって、煙草など匂いの染みつくものは御法度だ。嗅覚を鈍らせないために、酒や煙草を控えるのが当り前の世界。だがサンジは敢えてその禁を犯す。もちろん煙草で嗅覚が鈍ることなどない。一時的に麻痺することはあっても。彼はそれを「をリセットする」と呼んでいた。匂いが思考の邪魔をする時、煙草に手を伸ばすのは癖だ。
「『どんなに鋭い嗅覚を持っていても、たとえ機械のごとく何百種類の香料が直ちにかぎわけられたとしても、それだけではすぐれた調香師にはなれない。調香師には、匂いを幻視する、香りを構築して展開させる、独創性がなければならない。イメージの世界を持てぬ調香師はただの技術屋だ』っていうのは誰の言葉だっけな…」
 サンジは喉の奥でくくっと笑った。

 控えめなノックが聞こえた。サンジが答えると控えめな調子で男が入ってきた。
「やあ、ティム。調子はどうだい」
「ええ、悪くないですよ。あなたが企画した若い子向けの香りのレシピ、出来上がりました。一度チェックだけお願いできますか?」
「いいや、それは君に任せた仕事だ。有能な君のことだから、心配はしてないよ」
「まだあなたの助手ですけどね。一人立ちするにはまだまだです。ああ、頼まれていた香料が入りました。一時期より若干値が張りましたね」
「そうか」
 サンジは一言だけ呟くとまた手元の資料に目を落とした。
「彼ですか? あなたの探し人は…。本当にそんな素人で大丈夫なんですか」
「勿論さ。なんせ、俺が手がけるんだからね」
 ティムは肩をすくめただけで、何も言わなかった。上司の頑固さは彼が身をもって知っている。「それじゃあ、これで」と退出しようとした時、「また煙草吸いましたね。鼻が鈍っても知りませんよ」と言い残し出て行った。
 サンジはその言葉にただ苦笑いするだけだった。
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