taboo 3

 ゾロは手荷物一つでやって来た。サンジはその荷物の少なさに驚いたものの、次の瞬間にはそれが最も彼らしい、と思い直した。
「これ、このチェスト一つあんたのために空けておいたから。自由に使ってくれて構わない」
 サンジの言葉にゾロは答えない。彼はサンジのアパートメントに足を踏み入れてから、突っ立ったままだ。一歩も動くことなく、きょろきょろと部屋の中を見渡している。
「どうした?」
「アンタ、何者だ…?」
「言ったろう? ただの会社員だ」
 サンジは少し首を竦めた。
「ただの会社員にしちゃあ、立派なところにお住まいで…」
 ゾロの軽い皮肉を無視して彼の荷物を手から取り上げた。
「特殊技能を持っているのでね、他に比べればは良いほうなんだ」
 口を動かしながら、勝手にゾロの荷物を開けて衣類を抽斗に収めて行く。中に入っていたのは、ジーンズとシャツと下着が数枚ずつ。
「ゾロの着替えは一番上の抽斗。他にバスローブとか下着とか、買っておいたものが二番目の抽斗に入っている。持ってきたものだけでは足りないだろう。アンタの物だから勝手に使ってくれ」
 不意に名前を呼ばれ、ゾロは戸惑った。出会ってから数日とはいえ、今までお互い名前を呼ぶことを避けていたふしがあった。少なくともゾロはそうだった。それが金で買われた、という事実に対しての意地であることは認めている。そんな意地でも張らなければやってられない。
 ニューヨークで育って十九年。ゾロはこの街を上から見たことがなかった。…いや、かつて祖父に連れられてエンパイアステートビルから眺めたことがあるが、それも一度だけだ。観光客に混じって、寒風の中、祖父に急かされながら。
 サンジのアパートメントからはニューヨークの摩天楼が一望できる。それもそのはずで、この部屋はセントラルパークが目の前にあった。
「お祖父さんの様子はどう?」
「ああ、広い個室に行き届いた看病。専属の看護婦まで…。あれでよくならなけりゃ嘘だろ。何もかもアンタのおかげだな」
 口にする感謝の意とは裏腹に、最後のその言葉にはどこかしら敵意がこもっていた。サンジはそれに気がつかないふりをして、「そりゃ、良かった」と口にした。
 ゾロには育ての祖父がいる。病気自体は風邪を拗らせた程度のものらしかったが、いかんせん歳だ。体力は落ちているし、あちこちガタが来ている。その祖父の入院代を稼ぐのに、今までのウェイターの給料ではとても追いつかなかった。設備が最低の病院でも、入院ともなれば、まとまった金が必要だ。
 二人はダイニングに座り、サンジの淹れたコーヒーを啜る。
「さっきさ、ここのエントランスでに睨まれたぞ。そんなに胡散臭い格好だったかな」
「なあに、ゾロが男前だったから見惚れてたのさ」
 サンジは片目を瞑る。そういう仕草が妙に様になる。サンジと同じ歳だと先ほど聞いたが、その余裕が憎らしくもあった。
「それで、俺は何をすりゃいい?」
「そうだな、とりあえず体重を少し絞ってもらう。何かスポーツを? 筋肉がつきすぎだな。そのままでも良い身体だと個人的には思うが、モデルとしてはな。後は、ゾロの身体の匂いを嗅がせてもらおうか」
「…アンタ、そういう趣味?」
「アホか、それがメインの仕事だ。俺は調香師なの」
 呆れたようにサンジは煙草の煙を吐き出した。
「調香師…? あの香水を作る人?」
「そう、それ」
 会話は来客を告げるチャイムで遮られた。
「なんだ、随分早かったな」
「誰か来るのか?」
 サンジは短く「ああ」とだけ答え、ドアへと向かった。
 客はどうやら女性のようだ。ゾロは自分がここにいてもいいのかどうか逡巡した。女性がアパートメントへ訪ねる意味を考えながら。だが女はゾロを見るなり、大袈裟に驚いた。
「あら、写真よりも実物のほうがもっと良い男じゃない!」
「ああ、こちらナミさん。ゾロのトレーニングと食事のメニューを持って来てくれたんだ。の同僚さ」
「セクションは違うけどね。私はあなたの秘書じゃないって言ったはずだけど…。ハイ、ゾロ。会えて嬉しいわ」
 彼女は軽く嫌味を言い右手を差し出す。ゾロは掌をジーンズでこすった後、弱々しく握り返した。ナミはその手を勢い良く振る。
「ナミさん…。何時まで手を握ってんの? ゾロが困ってるよ」
「あら、ごめんなさい。こんな男前と握手する機会なんてそうないから」
 悪戯そうな笑みを浮かべていた。
「手を握るくらい、言ってくれれば何時でも握るよ、俺」
「悪いけど、自分のことを男前だって自覚してる男は趣味じゃないのよ。ごめんなさいね」
 ナミはにっこり笑いかけて「はい、これ」と茶色の素っ気無い封筒をサンジに押しつけた。
「あなた、半年後には素顔を晒してこの街を歩けなくなるわ。覚悟しておきなさい。悪い男に捕まったと思って諦めるのね。ああ、契約書も中に入ってるから。あなたが契約している間はお祖父さんのことは気にしないでいいわ」
 ナミの言葉にゾロは面食らう。
「なんで俺のじいさんのことを知ってんだ?」
 素朴な疑問を口にした。
「あなたのデータはうちの社で保管されてるもの。商品の管理は必要でしょ?」
 彼女は「お茶でも…」というサンジの誘いを断り、二人に「またね」と言葉を投げて去って行った。
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