taboo 4

 アパートの部屋は一室しかない。部屋とキッチンを隔てるのはダイニングテーブルだけだ。だが同じ部屋数とはいえ、ゾロが今まで住んでいた部屋の何倍もの広さがあった。サンジはゾロに「荷物が少ない」と言いながらも、彼の部屋も必要最低限のものしかなかった。きちんと片付けられて北欧家具で揃えられた、それこそ雑誌にでも紹介されそうな部屋だったが住み心地とは関係ない。ただ寒々しい。今までこの部屋に一人で住んでいた男に、ゾロは初めて興味を持った。

「眠れねえのか?」
 区切られたパーティションの向こうから声がした。闇の中、ゾロは声のしたほうへと寝返りを打った。
「いや、もう寝る」
 その答えを無視するかのように、「なあ、一緒に寝ねえ?」とサンジは言った。
「…そのケがあるのか。俺はアンタがそうしろと言ったら断ることは出来ねえけどな」
「…悪かった。そういうつもりじゃなかったんだ。今の話は忘れてくれ」
 そう言ったきり、沈黙が部屋を支配する。ゾロはどうしたら良いのかわからず戸惑っていたが、暫くすると隣から静かな寝息が聞こえてきた。そこでようやくゾロも目を閉じた。

 二人で生活するようになって、ゾロは分かったことがある。今まで一人で暮らしていたのが不思議なくらい、この男は人の世話を焼くのが好きだということだ。
 朝ゾロが目を覚ますと、テーブルの上には朝食がならんでいる。どれも栄養を考えられたものだ。ナミが持ってきたメニューに沿っているかというと、必ずしもそうではないらしい。
「いいのか? メニューどおりじゃなくても」
「あのメニューだと、そうパターンはないからな。飽きるだろ。心配しなくても、カロリーは抑えてあるからいいんだ」
 二人で朝食を取った後、サンジは会社へ行く。ゾロはアパートの地下にあるジムへ行ってメニューをこなし汗を流す。だが一日中ジムにいるわけにもいかないので、案外暇だ。家のことをしようにも、サンジは部屋のきれいさから見当がついていたが几帳面な性格で、炊事洗濯掃除とゾロがやることは何もない。最も掃除は週に一度メイドが来るので、散らかっているものを片付ける程度ですむ。

「ゾロ、ゾーロ。前にも言ったろう? 脱いだジャケットはハンガーにかけてクローゼットにしまえよ」
 サンジはゾロの脱ぎ捨てたフライトジャケットを床から拾った。
「そう何度も名前呼ばなくても聞こえてる。あー、面倒くせえよ…。そんなジャケット、丁寧に扱うもんでもねえだろ?」
 ソファに寝転がって雑誌を読んでいたゾロは視線を外し、上から軽く睨んでいるサンジの顔をちらりと見た。
「あんたの部屋を見た時は、こんなに散らかってなかったのにな」
 呆れたように言った。
「あのなぁ…。俺は普通だよ。お前が几帳面すぎるだけだ。ジャケットが落ちてただけで騒ぐな」
 ゾロもやはり呆れたように返した。確かに脱いだものをその辺に落としておく癖はあるが、不精とまではいかない。何日もそこに脱ぎ捨てているわけではないのだ。精々半日かそこらだ。それを目聡く見つけ、ことある事にサンジは小言を言った。だがそれも最初の半月程で、あとは何も言わず見つければサンジが洗濯かごに放り込んでいた。

 サンジが休日の時は概ね家で過ごした。というのも社外秘のプロジェクトということで、ゾロの存在はなるべく隠しておきたいからである。その為モデルクラブに通えないゾロは、サンジにウォーキングやポージングなどを教わった。サンジの身のこなしはどこかしら優雅さを醸していたのは感じていた。
「モデルだったとは知らなかった」
 ゾロは顎を伝う汗をシャツで拭いながら言った。
「これでも結構有名だったんだけどなぁ。知らないとは傷ついた。ホントに知らねえ?四年前まで現役だったんだぜ」
 サンジの色褪せた金の髪が風に揺れる。それが午後の陽射しに透かされて僅かに光る。窓枠に軽く腰掛けて座っているその男は、まるで一枚の写真を見ているようで、改めてこの男がモデルだったことに納得がいく。ゾロは自分が写真家だったら、逃したくない光景に違いないと思った。光と影が鮮やかに男の顔を彩る。くたびれたような眼の下の皺や、柔らかく笑う口の横に刻まれた微かな皺までも浮き彫りにする。長い指に挟まれた煙草からは細長い煙が立ち昇り、男の顔を霞ませていた。
「ゾロ? どうした」
 心配そうにゾロの顔を覗き込んだ。
「見惚れてた」
 素直にそう口に出す。
「…嬉しいねえ。お世辞言ってもレッスンは短くならねえからな。さあ、休憩は終わりだ。そら立った、立った」
 サンジは嬉しさを軽い口調でごまかしながら、手で立てというふうに示した。
 素直に感想を述べた恥ずかしさからか、ゾロは少し不貞腐れた様子だった。その横顔はどこか幼い。この男の良さは類稀な素直さにある。美味しい物を食べれば「旨い」と言い、機嫌の悪い時には眉間に皺を寄せる。美しいものを見れば「きれい」だといい、誉められた時は照れながらも嬉しそうにする。育てられた祖父とは血が繋がっていないらしいが、愛情を持ってきちんと育てられた良さからくるものだろう。サンジは自分の育ってきた環境と比べ、羨ましく思った。

 二人の生活は快調そのものだった。特にトラブルもなく―――これはサンジの気遣いのおかげでもあったが―――日々が心地よく過ぎていった。ただある一点を除いては…。
 一日の終わり、シャワーを浴びる前。ゾロは体の匂いをサンジに嗅がれる。この行為だけは慣れる日などこないように思われた。この行為があるがために、ただの同居生活を異質なものへと変えていた。
「なんか、犬みてえ」
「うるせえよ、黙ってろ」
 サンジは鼻をくんくんと微かに動かしながら、ゾロの腕を持ち上げて脇の下に顔を近づける。髪が腕の裏をくすぐり、くすぐったさにゾロは身をよじった。
「動くなよ」
「くすぐってえんだよ、この変態」
 ゾロの悪態に返事もせず、脇から横腹、胸、そして背中へ顔を動かし、それにつれてサンジの掌が柔らかく移動する。
 香りを記憶の抽斗へと一つ一つ丁寧に閉じ込める。既にサンジの感覚は嗅覚のみとなり、欧米人のそれとは違いあまりにも薄いゾロの匂いを余すところなく堪能しようとしていた。わずかな湿り気はどこかしら雨の匂いを髣髴とさせる。生命力溢れる若葉の匂い、陽の当たらない森の中に充満している苔の匂い。樹皮の匂い。そして、。
 サンジは大きく息を吸い、肺の中一杯にこれらを満たす。どれも微細なものではあるが、香りをきちんと分類していく。
 不意にうなじへ唇を落とした。一瞬体を硬くしたものの、ゾロは何も言わない。

 いつも薄く笑っているサンジの目が不意にある光りを宿す。それにゾロは気付いているが、気付かない振りをする。彼の望みをはっきりと汲み取っているわけではないし、何よりも言葉として発せられない限りこちらが慮る義理もないとゾロは思っている。それでもその目は時としていたいけで、あまりにも一つのものを求めすぎていた。
 もしはっきりと言葉にされたら…。ゾロには断る術などないのだ。子供がお菓子を求めるように求められたとしたら。そうなっても構わない、とゾロは心のどこかで思っている。果たしてその諦めにも似た感情がどこからきているものか、ゾロには判断のしようがなかった。
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