taboo 5

「なあ、着替えろよ。この間スーツ買ってやっただろ? あれ着ろよ」
 浴室からサンジが話しかける。水音にかき消されないように大きな声で、だがその声は湯が口に入るためか明瞭ではない。
 ゾロは濡れた頭をタオルで拭きながら「何のために」と尋ねた。
 腰にタオルを巻き、サンジは浴室から出てきた。前髪から滴がぽたぽたと垂れて足元のマットを濡らす。
「飯食いに行こうぜ、飯。旨いロブスター食わす店があんだよ」
 まるで名案を思いついたかのような表情で浮かれていた。
「…先に体拭けよ。まだ濡れてるじゃねえか」
「いいからさ、着替えろよ」
 今から食べに行くロブスターの味を下の上に反芻しているのか、サンジは顔を緩ませていた。ゾロは美味しい物を食べに行くのは吝かでないと思っているので、今度は素直にその言葉に従った。

「そっちじゃねえよ、右のやつだよ、右」
 ゾロがクローゼットから取り出そうとしたスーツを見て言った。
「どっちでもいいだろ。お前も俺も体格はさして変わんねえだろうが…」
「この間作ったやつがあるだろうが。そっち着ろよ」
 素直にその言葉に従い、ゾロは右側のスーツを取り出した。
 部屋にシャツとネクタイが散乱する。ゾロが手にするシャツを「それは色が駄目だ」とか「襟の形がスーツに合わない」といちいち文句を言うためだ。それでも二人は楽しそうに、クローゼットやチェストから次々と引っ張り出した。お互いの体にシャツとネクタイをあてて選んでいく。
「やっぱお前には英国型のスーツだな」
 サンジは姿見の前に立つゾロの後ろで満足そうに腕を組んでいた。
「お前が仕立てたわけでもないのに、偉そうに言うな」
「だって俺が選んだんじゃねえか、その形。お前が選べないって言うからさ、何から何まで…」
 ゾロをソファに座らせ、屈みこんで彼の靴紐を結びながら呆れ顔で見上げた。
「なんてことない普通の形じゃねえか」
「お前ねえ…。良い生地にクラシカルな形、それが男を上げるんだよ」
「そんなもんかねえ」
「そんなもんだ。おい、予約の時間に間に合わねえ、行くぞ」
 靴紐を結び終わり、二人は立ち上がった。

 ディナーは食前酒に前菜、メインのロブスターと正式なコースではなかった。ゾロには物足りなかったようで、少々がっかりした様子だ。
「足りなかったみたいだが、それ以上食うとなカロリーオーバーなんだよ。ワインも残ってるだろ。……仕方ねえなぁ」
 不服そうなゾロの顔を見て、溜息を吐く。サンジはウェイターを呼び、何かを申し付けた。暫くして生牡蠣が運ばれてきた。サンジは檸檬を絞り、一つ手に取るとゾロの口へ持っていく。
「まだ腹いっぱいになってないに食わせてやるよ。ほら、口開けろ」
「俺、生牡蠣は苦手なんだよ」
「ここのは美味いから騙されたと思って食ってみろって…」
 渋々といった感じでゾロは差し出されたものを口にする。最初はおずおずとして口に含んだが、最後はサンジの指についた汁も舐める。
「美味いな…。生臭くねえ。なあ、全部食ってもいいか?」
 子供のように喜びながらゾロは待ちきれないといった風に皿に手を伸ばした。
「食えよ、豚のようにな」
 ワインを一口啜りながらからかう。ゾロは嫌な顔をしたが、それでも食べることは止めなかった。
「サンジさん?」
 背後から呼びかけられ、サンジは振り向く。そこには黒い胸元の開いたドレスを着た女がいた。
「やあ、ビビちゃん。君もここへ?」
「ええ、今から帰るところなの。それよりも今日は珍しいわね、サンジさんが男の人と一緒にいるなんて。いつも女性と一緒にいるところしか知らないから…」
 ビビはちらりとゾロへ視線を向けた。
「ゾロ、紹介するよ。こちらビビちゃん。って、知ってるか」
「見たこと、あるような気がする」
 一度顔を上げたものの、また牡蠣へと視線を落とした。
「そりゃあ、あるだろう。彼女は今も女神様よろしくタイムズスクエアから見下ろしてるからな」
 その言葉に思い当たったようで、ゾロは短く「ああ」とだけ言った。
「あんた、モデルか」
「今更気がつくなよ。雑誌見ても彼女の顔はよく見るはずだぜ。悪いな、こいつ女性への礼儀も知らなくて」
 ビビは笑いながら「気にしないでください」と胸の前で手を振った。
「趣旨、変えたんですか?」
 ビビはこっそりとサンジへ耳打ちする。サンジが分からない、という顔をしたら彼女は言葉を続けた。
「バタール・モンラッシェ、サンジさんが女性を口説くときに頼むんだって噂だから…」
「…あのねえ。俺は別に口説く時の小道具にしてるつもりはないんだけどな」
「あら、でも私の友達も何人かそのワインで誘われたって言ってましたよ」
 くすくすと笑う。
「君にも送ろうか? シャトー・ディケムでも…」
「私、クラリス・スターリングじゃありませんから」
「俺もレクター博士じゃないよ。でも別の意味で君を食べてみたいけどね」
「ビビ、もうそろそろいいか」
 ビビの後ろから一段と低い声の男がのそりと現れた。小さいグラスの奥から鋭い眼光が除く。
「なんだ、護衛がいたんだ。残念…」
 サンジは大げさに肩を落としてみせた。
「いい加減、女性とみれば甘言を吐く癖はやめたらどうだ。相変わらずだな、あんた…」
「コーザも相変わらず、ビビちゃんのよろしくお守りしてるってわけね。これじゃあ、俺が手を出せないわけだ」
 今まで黙って見ていたゾロが「ご馳走さま」と立ち上がった。
「ゾ、ゾロ…?」
「飯も食い終わったし、女口説くなら俺は邪魔だろ? 先に帰るわ」
 それまで見たことがない満面の笑みでそう言い、サンジを置いて店を出て行った。
 呆気にとられたサンジは追いかけることも忘れ、溜息を吐きながらうな垂れた頭を掻いた。
「追いかけなくていいのか?」
 情けない姿のサンジが面白いらしく、コーザは口元を緩ませていた。
「お前に言われなくても…。悪いな、ビビちゃん。また今度ワインを奢らせてくれ」
「いつでも構いませんよ。彼と二人で待ってます」
 笑いながら彼女は横のコーザを見上げた。
 サンジは女性に等しく優しい。「女性はそれだけで美しく、そして愛すべき人たちだ」と彼は言う。だがみんな好き、ということは誰も好きではないということだ。柔らかな微笑みは女性を受け入れながらも、最後の砦でもあった。誰かのために心の余裕をなくすことは、今のサンジにとって良いことのように彼女には思えた。
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