taboo 12

 いつものように、深夜にサンジが戻ってきた。あの日以来二人の仲はどこか釦を掛け違えたようにしっくりといっていない。ゾロは出迎えることなく、毛布にくるまり寝たふりをしている。サンジの動向を気にしながら。
 パーティションの影に人の気配を感じ、ゾロは眼を開けた。暗闇のため、サンジの表情をうかがうことは出来ないが、どこか疲れた様子だ。
 ゾロのベッドに腰を降ろし、乾いた長い指がゆっくりと頬を撫でる。
「どうした」
「悪ぃ…、起こしちまったか」
 小さく謝った。それにどう答えてよいものかわからず、ゾロは黙っている。
「…片腕をなくしたよ。あの男、コーザの忠告通り気をつけていたらな」
「ティムって男のことか…?」
 サンジは無言のまま肯定した。
「どうやら情報を売ろうとした先は、ビビちゃんが契約している会社らしくてね。コーザはティムの顔を知っていたから、そこの社員と会っている奴を見て不審に思ったんだろう」
「あの男を信頼していたのか?」
 サンジは煙草に火を点け、溜息と同時に煙を吐き出した。
「いいや、信じてたわけじゃない。優秀な部下だった、それだけだ。だけど誰だって、例え相手が悪かったとしても、傷つけたり排除したりしたくはないだろう。他に方法があればそうしていたさ…」
「どうして素直に傷ついたと言わない? 裏切られたと怒っていいんだぜ、お前は」
 ゾロは体を起こし、サンジの顔を両手ではさみ込む。
「そうだな…。やはりいつも側にいた人間を失うのは悲しいな」
 ゾロはゆっくりと抱き締めた。ゾロの肩にサンジは顔を埋める。泣きたいような気もしたが、涙は出なかった。
「慰めてくれるのか?」
 くぐもった声でサンジは聞いた。
「倒れてる人間を放っておくほど、人でなしじゃねえ…」
 その言葉でサンジは笑った。何故笑われたのか分からなかったが、ゾロもつられて笑った。
「お前の匂いは落ちつくな。この匂いを商品化することを後悔するぜ、くそっ。お前の匂いを他の奴が身につけるなんて…。これは俺のもんだ」
 いっそう強くゾロを抱き締めた。背中を動く手は限りなく優しい。
 二人は抱き合いながらベッドに体を横たえた。軽く触れるだけのキスをする。
「あ、忘れるところだった…」
 サンジは立ちあがり、テーブルに置いていた書類をゾロに渡した。
「次の仕事。それが本番ね。俺はこれから仕事が大詰めで、帰れない日が続くと思うけど浮気するなよ、ハニー」
 そう言って片目を瞑った。ゾロは苦笑いしながら、サンジに口付けた。
 契約期間終了まであと少し。このままの生活が続けばと望んでいる。だがその資格はないとゾロは思った。どんな関係を作り上げていけば良いのか分からない。二人の関係を表す言葉がないから。友達でもない、家族でもない、ましてや恋人でもない。そのいずれかを望んでいるのだろうか、と考えても答えは出ない。
 悩むのは苦手だ。ならばやはり一度二人の関係をゼロに戻すのがいい。一度日本に行くのもいいかもしれない。ほんの思い付きだったが、悪くない考えのように思えた。何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。仕事が全て終わり、それでもサンジが自分のことを必要とするのであれば…。
 言葉よりも確たるものが欲しく、体だけでも相手の気持ちは分からない。真実が欲しいと思う自分は、ひょっとして傲慢な人間なのかもしれない。ゾロはそう思いながら、静かに寝ているサンジの鼻にキスをした。
    
 腔の奥を香ばしいコーヒーと焼きたてのパンの匂いがくすぐる。脳裏に浮かべた幸せのイメージと重なり、胸が詰まるくらいの幸福感だった。まだもう少しその甘い幸福感に包まれていたいと惰眠を貪ろうとした。
「ゾロ、いい加減起きろよ」
 ささやかなゾロの願いも空しく、サンジにブランケットを剥がされた。
「まだ眠い…」
 手は奪われたブランケットを取り戻そうと、空を彷徨う。
「…仕事だろ? 起きて顔洗えよ」
 その言葉にゾロは体を勢いよく起こして洗面所へと駆けた。

「なんだ、まだ時間はたっぷりあるんじゃねえか。早く起こしすぎじゃねえ?」
 着替えをすませ、椅子に座ったゾロは時計を見た。仕事の時間まではゆうに三時間はある。
「大事な仕事の前にリラックスさせてやろうっていう親心だろ。この優しい心遣いが分かんねえのか、てめえは…」
「誰が親だ、誰が…」
 いつもの休日のような穏やかな朝だが、今日は休みではない。サンジも砕けた格好ではなく、今日はスーツを着用している。
「撮影さ、俺も見学に行くから」
「はぁ? 何で…」
「何で、て。興味あるしさ。お前に渡す物もあるし…」
 ゾロは一言「ふーん」とだけ言って、朝食を口の中に放り込んだ。
 二人は一緒に部屋を出たが、サンジは一度会社に寄るためエントランスで分かれた。
 ゾロが地下鉄を降りた時、ナミが顔を見せた。
「おはよう、ゾロ」
「おう。こんな所でどうした?」
 飄々としたその口ぶりにナミは自分の心配が杞憂なのではないかと感じる。
「一応ね、撮影に立ち会おうかなっと思って」
「あんたの、暇なのか? サンジも後から来るとか言ってたし」
「違うわよ。何も知らないのね、あんた。新しく香水を作るってことは、莫大な費用がかかるし、その割にはリスクも大きいの。博打要素たっぷりなのよ。うちはあの『伝説の』がいるから大丈夫とはいえ、一応心配してるのよ。これでもね…」
 広告費だけで三百万ドルかかってるのよ。ナミの言葉にゾロは目をむく。
「マ、マジ…? んだよ、その金…」
「そんなに驚く額でもないわ。サムサラは九百万ドル、ミヤコは千五百万ドルを広告にかけたのよ。だけど三百万ドルだって安い額とは言えないから失敗は許されないってこと」
 悠然と彼女は微笑んだ。その笑顔のどこにも不安は見当たらない。余程あの男の鼻に信頼を置いているとみえる。
 ナミの不安は別のところにある。本来ならゾロの撮影に彼女が立ち会うことはない。追いかけていた男の消息が最近ぷつりと途絶えた。サンジは「放っておけ」と言ったが、ここにきて所在が知れないということが胸のしこりになっている。
 何事も起こらなければいいけど…。
 どこか拭えない黒い染みを心に落としながら、彼女はゾロと肩を並べて撮影所へと向かった。
 入り口にサンジが立って二人に大きく手を振っていた。何か手に持っている。二人は軽く手を上げた。
「遅いぞ」
 サンジの声ははっきりと聞こえなかったが、口の動きからそう読み取れた。人込みを避けながら、二人はサンジのもとへ足早に歩き駆けた。その時、反対の道路から駆ける黒い男の姿が目に入る。
 ナミが叫ぶより早くゾロは走った。
 
 車のクラクションがうるさい。ナミは何かを叫んでいる。ゾロは自分の体が倒れていることを不思議に思いながら、上に圧し掛かっている男が一度会ったことがあることに気が付いた。ゾロの下にいるサンジはやはり何かを叫んでいる。うるせえよ、お前。それに何か瓶が割れてる。森の匂いのような…、苔の匂いのような…。その香りにむせた。
「な、んで…お前が…」
 不明瞭な発音でそう言った時、上にいる男は引き剥がされた。
 サンジに力いっぱい抱きしめられる。そんなに抱きしめると体が痛ぇ、しがみつくなよ。ゾロはサンジの腕の温かさと頬を濡らすものに安心していた。必死に何かを喚いているサンジの顔がおかしいと、今度からかってやろうと思いながら…。
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