taboo 2

 不意に現れた見知らぬ来訪者にゾロは戸惑いを隠せない。ゾロが勤めている店に、金髪の客は皆無と言ってもよい。薄汚れて壁が一部剥げ落ち、テーブルクロスには煙草の焦げあとや、シミがいくつもある。そんな店だ。観光客が立ち寄るような所ではない。一歩男が店に足を踏み入れた瞬間、店内は一瞬声が途切れた。だが他の客はすぐに視線を外し、この店の名物料理でもあるタンに集中した。
「何にする?」
 ウェイターとしては失格ともいえる程の素っ気無さでゾロは聞いた。
「何でもいい。あんたのオススメでも持って来てくれりゃあな」
 男は見るからに仕立てのいいコートを脱ぎ、その下からはゾロの一ヶ月分のでも恐らく買えないであろうスーツ。コートを受け取ると、どこかしら甘い匂いが鼻腔の奥をくすぐった。煙草の匂いと、男がつけているトワレの匂いだろうか。
 ゾロは特に返事もせず、手にしたコートを極力丁寧に扱った。厨房に向かう時に、横目で男を盗み見る。生地を気持ち良さそうに体に纏わりつかせている様は、同年代であろう男を年上のように見せていた。
 なんで、こんな店に…、という疑問を頭の隅においやり厨房の奥へ行く。

「これがうちの得意料理だ」
 男が煙草を一本吸い終わった時、ゾロは目の前に漢方薬入りの粥を出した。
「これが…? なんかアンタが食って吐き出したもんじゃねえの?」
 男は指で器を指し、奇怪なものでも見る目つきだ。
「体にいい」
 ゾロは愛想もなく無表情にそう告げる。男は恐る恐る蓮華に手を伸ばし、一口すすると奇妙な顔をした。
「不味い…。これがアンタのオススメか?」
「美味い料理を出せとは言わなかっただろ? この店で一番体に良い食事だ。残さず食えよ。チャイナフードは医食同源だ」
 ゾロは他の客に給仕するため、テーブルを離れた。

「アンタに話がある」
 不味いと言いながらもきれいになった器を見つけ、下げようとした時男はそう言った。
「何か用か?」
「…そうだな。アンタに取って損な話じゃないと思う。仕事は何時終わる?」
「今日は早番だから、あと一時間ほどで終わる」
「じゃあそれまで待ってるよ。ここで…」
 有無を言わせない男の様子に、ゾロは仕方ないという風に溜息を吐いた。何の用かは分からなかったが、少なくとも良い知らせではなさそうだ、と思った。

 二人は肩を並べて歩く。頭上には色彩鮮やかな看板。空気に混ざっているのは様々な食材の匂いと薬のような匂い。乾いた風が次々に運ぶ匂いは、明らかにこの街独特のものだ。ここがニューヨークの一部だとは、思えないほど混沌とした匂い。
 首を竦めてくたびれたコートに顔を埋めるようにしてゾロは歩く。マフラーをそろそろしなくちゃな、どこにしまったっけ、などと思いながらさして広くもない部屋を思い浮かべた。不意に頬に柔らかなものが触れる。
「アンタ、寒そうだ」
 目の下に皺を作りながら、男が笑っている。ゾロの首には男が先ほどまでしていたマフラーがかけられていた。やはり甘い。だが苦い甘さだ。青臭い樹皮の匂いと、苔についた水滴が鼻をくすぐるような、そんな匂い。微かに煙草の匂い。男の自然な気遣いが気恥ずかしくて、ゾロは「いらねえ」とだけ言って男に返した。彼は「そうか」と呟き、それ以上ゾロのアパートに着くまで口を開かなかった。

 ゾロの部屋は勤めている店から二ブロックほど行った所にあった。アパートの一階は茶葉を扱っているらしく、軒先にあるベンチに老人が二人座って茶を啜っていた。店の裏側に回り、錆びた手すりの階段を上っていく。三階の廊下、その突き当たりのドアの前でゾロは立ち止まった。
「悪ぃけど、なんもねえ」
「お気使いなく…」
 部屋の中には古いベッドと、中央に使い込んだ机が一つ。ベッドの横には小さな箪笥が一つ。家具と呼べるものはそれだけだった。
「本当になんもねえ…」
「俺はそう言った」
 ゾロはベッドの上にコートを脱ぎ捨て、部屋の横にあるキッチンへと向かう。薬缶に水を入れ、火にかけた。下の店から貰ったお茶がまだ少し残っている。急須の中に適当に茶葉を入れた。
 男は窓の外を眺めている。
「ごちゃごちゃしてるこの街には珍しく、そこからは空が見える。この部屋で気に入ってるのはそこだけだ」
 お茶の入ったカップを机の上に置きながら、ゾロは男の横顔に声をかけた。二人は椅子に腰をかける。ゾロは目の前の男を観察した。褪せた金の髪に、藍色の瞳。少し垂れ気味の目は、笑うと下に柔らかな皺が浮かぶ。それが男をくたびれた様子にも見せた。指で顎のまばらに生えた髭をしきりにさすっている。
 二人は同時にカップを置いた。それが合図のように、ゾロは尋ねた。
「俺に何の用だ? ただ茶を飲みに来たわけじゃねえよな」
 やはり男は指で顎をさすっている。どうやら考え惓ねている時の癖のようだ。この男も先ほどからどう切り出そうか悩んでいたのだろう。
「まずは名前だな。俺はサンジ。タスカニーという会社を?」
「いや、知らねえ」
「化粧品の会社だ。女性の必需品だな。一応ニーマン・マーカスやマーシーズなんかに店を置いてるんだが…」
「デパートなんて、俺行かねえから…。それでアンタはその会社の何なんだ?」
「まあ、契約社員みたいなもんかな。俺は今度ある商品を開発することになったんだ。で、物は相談なんだが、それに協力してくれねえかな」
 サンジは足を組替えて、まるででも誘うかのような気軽さでそう言った。
「やらねえ」
 ゾロにはこの男の真意が汲み取れない。いきなり来て、仕事に協力しろなどと言われて首を縦に振るわけがない。
「仕事の内容も聞かずに断るのか? そんな交渉能力でやっていけるのか。何時、何処から旨い話が降ってくるかわからねえのにさ」
 まるでゾロが断るのを知っていたかのように、間髪入れずそう言った。口の端に皮肉な笑みを浮かべながら。
「ふん。旨い話なんて、向こうからやって来るかよ。来るのは人を陥れようとする話ばかりだろ、普通…。危なくって気軽に乗れねえ」
「そうかもな…。だがこの話が危ないと聞かずに何故分かる? ひょっとしたら、アンタの人生を大きく変えちまうデカイ話かもしれねえ。後悔するような話かもしれないだろ? 聞くだけだったらタダだぜ?」
 サンジはまるでチェシャ猫のように、口角を上げて笑っていた。明らかに、ゾロの困っている様子を楽しんでいる。
 そう、ゾロは無表情に徹していながらも内心は困っていた。隠していたものを容易く暴かれたことに、少々腹を立ててもいた。
 きっとこの話は良くない話に違いない、と確信がある。何故かは分からないが、頭の中で「この男を追い返せ」と命令している。それは勘でしかない。その命令を押しのけるには、あまりにも貧弱な理由でしかなかった。
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