taboo 10

 空気は身を裂くように冷たいが、陽の光りが幾分それを和らげている。ゾロは久しぶりに祖父の病院へと顔を出した。今まで顔を出しにくかったのは、己の置かれている状況に恥じてる部分があったからだろう。初めての仕事が載っている雑誌を小脇に抱えて、リノリウムの床を靴底を鳴らしながら歩いた。
「よう、生きてるか。爺さん」
「見たらわかる。元気だよ」
 言葉とは裏腹に、その言葉には力がなかった。以前より一回りほど小さくなったような気がした。痩せた肩に手を置く。ゾロの手の上にかさかさとした手を重ねた。
「俺さ、仕事始めたんだ。見たら驚くぜ」
「知っとるよ、ほらそこ」
 祖父の指し示した場所には、ゾロが持ってきたものと同じ雑誌が置かれていた。
「なんだ知ってたのか。驚かしてやろうと思ったのにな」
 少しだけ不貞腐れたように言うその顔は幼い。祖父は昔と変わらない様子のゾロに、細い目を更に細める。
「この間、えらい男前がこの病室に来てなぁ。その雑誌を置いていった。看護婦どもはえらい騒いどったよ」
 穏やかに笑う。
「お前、あの人と喧嘩でもしたのか? 何やらいつもと違って顔が沈んでおったぞ。友達は大事にせにゃいかん」
 小さい子供に言い含めるように言う。その言葉は温かい。
「アイツ、ここによく来るのか?」
「うん? たまにな、顔を見せてくれる。お前の様子を報告に来てくれるよ。ええ友達を持ったな」
 友達というには歪んだ関係であり、恋人とも呼べない。二人の関係を表す言葉が見当たらなかったためゾロは「そうだな」と一言だけ呟いた。
 それから二人は取り留めのない話をした。病室の様子だとか、看護婦の奮闘振り、祖父の友人もお見舞いに来てくれているらしい。だがふと祖父は口をつぐむ。何か言い淀んでいる様子でもある。何度目か会話が途切れた時、ゾロは「どうかしたのか?」と問いかけた。目をつむり思案しているふうであったが、祖父は一通の手紙を取り出してゾロに渡した。封筒の裏にはアドレスがない。
「読んでみろ…」
 祖父の言葉に従い、ゾロは中から手紙を取り出し読んだ。暫く沈黙が続いたあと、ゾロはゆるゆると顔を祖父に向ける。
「これ、俺の親からか?」
「そうだ。あの広告は日本の雑誌にも載っているそうだ。それを見て、お前の母親が寄越した手紙だ」
「なんで爺さんの連絡場所知ってんだよ」
「…お前の母親の親父さん、お前の実の祖父はな、わしの友人だ。遠く離れたな。お前の母親は私生児としてお前を生んだ。それなりの家柄であるお前の爺さんは、体裁が悪いと考えてお前をわしに預けたんじゃ。恨むなよ、親を恨んじゃいかん。好きでお前と離れたわけじゃない」
 生まれた時から親はいないと言われ育った。今更母親が出てきたところで、何の感情もありはしない。ただ戸惑いだけがある。
「今更、恨むも何もねえよ…。別に会いたいわけでもないけどな」
 その声は乾いている。
「だがお前の母親は会たがっとるぞ。本来生まれ育つはずだった場所を見てみるのも悪いもんじゃない。毎年お前の誕生日にはカードと金を送って来てる。見たいか?」
 ゾロは弱々しく首を振る。
「だったら何で会いに来なかった? 場所知ってるんだったら…」
「怖かったらしい。お前に『何故捨てた』と問われることがな。だが写真で見て、その気持ちが抑えられんかったんだろう…。誰もが強い人間じゃない。弱い人間もいる。それを分かってやれ…」
「…俺の親は爺さん、あんただけだよ」
 やっとのことでその一言を喉の奥から取り出した。
「わしもお前の祖父も母親も、みんなが後悔しとる。果たしてこれで良かったのか、と。お前が背負うべきでないことは重々承知している。恨みがない、というのなら尚更彼らに会ってやってくれ。頼む…」
 ゾロの手を乾いて骨ばった手が包み込む。
「…考えとく」
 どこか違う世界の出来事のように、未だ実感がない。今更会ったところで、どうにもならない。違う時間を生きてきた、その事実を埋めようがない。ただの他人だ。だが目の前にいる親が背を丸くして後悔している様子は見たくない。そう思った。
 帰り際一人の看護婦に雑誌を見せられ「これ、あなた?」と聞かれた。ただ一言「違う」と言い足早にそこを離れた。
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