夏が終わる前にぼくらにできるいくつかのこと 9
(巻ちゃん……)
巻島は仰向けになって目を閉じて、くうくうと小さな寝息を立てている。玉虫色の髪が白いシーツに広がって、日に照らされて不思議な色合いに光っている。
寝顔は穏やかだった。顔つきは常に皮肉気であったり憂いに彩られていたりでめったに笑わない巻島のこういった表情を、東堂はほとんど見たことがない。
「睫毛が長いな、巻ちゃんは」
後ろに流れた毛束のすき間から貝殻のような耳が覗いている。肉づきは薄く、丸みを帯びてつややかだ。
東堂はそこに触れたいという気持ちと先ほどからずっと戦っていた。
戦いであるからには勝たねばらならない。なのに、負けたほうがいいんじゃないかそうに違いない、という内なる声は圧倒的に優勢を誇っていた。が、東堂には、触ったらそのあとどうなるか考えてみろという小さな声もちゃんと聞こえていて、そちらに深く頷きたい気持ちも強くあった。
なにしろ自覚してからまだ数時間であるし、確信は弱い。東堂としては、気のせいだと言われたらそうだろうやっぱりな、と大いに頷いてみせたいところなのだ。
しかし、この薄い耳に指を這わせたいという喉が乾涸びそうなほどの欲望は、絶望的なまでにひとつの方向を示している。
(ならばここはひとつ触って確かめてみるべきとは思わんか?)
胸の内で自分にそう問いかけ、東堂はついに先ほどから目を捉えて離さないそこへ、思いきって手を伸ばした。
人差し指を立て、カーブに沿ってそっとなぞってみる。つるりとした触り心地は思ったとおりとても良く、東堂はさらに指を開き、上側の縁をやわらかくつまむ。親指を左右にスライドさせてそっと擦ると、くにゃりと撓んだ耳にかすかに赤みが差した。
巻島がもぞりと動き、逃れるように首を反対側へ向けた。髪が流れて、隠れていた首筋のラインが露になる。
目にした瞬間、全身が総毛立つような感覚に背筋がぞくぞくした。東堂はパっと手を離し、巻島から少しだけ離れた。
巻島が寝室に入ってきた時点では、東堂は確かに眠っていた。
始発に乗って来たこともそうだが、ここ数日あまりよく眠れていなかったことも手伝い、眠りは深かった。巻島への気持ちだとか、巻島の家の、巻島のベッドの上であるとかそういったことはすべて二の次で、まずは会って話せたという事実による安堵感がもたらした、久しぶりの快眠だった。
揺すられたり叩かれたりしたせいですぐに目は覚めたのだが、バツの悪さにすぐには目を開けることが出来なかった。どんな顔をして何を話せばいいかわからず、東堂は混乱しながらひとまずは寝たふりを通した。こんな気持ちは女の子相手にも抱いたことはない。そのうちに巻島の気配が薄まり、眠ったとわかって、つられるように再び眠ってしまったのだった。
ベッド脇に置かれた時計を見ると、もう午後二時に近い。
東堂が触っても、巻島はとくに目覚める様子を見せない。元々警戒心の強いタイプだと知っているだけに、今の無防備な様子を見ていると少々心配になってくる。
(巻ちゃん、こんな簡単にオレに触らせてるようじゃいかんのじゃないか……?)
それとも自分だからだろうか。ベッドに眠っているのを放置してくれたあげく同じ場所に転がって眠り始めるなどという行為は、かなり気を許してもらっていると思ってもいいはずだ。東堂はぽーっとなり、頭の芯がくらりと揺れた。顔ばかりか耳まで赤くなっている自分を想像してさらに恥じ入る。どっどっどっと心臓が痛いくらい強く鳴っている。男同士だからこそ無警戒なのだという発想は、今の東堂にはなかった。
巻島は変わらず眠っている。
そのときクウと、小さく細い音が、巻島の腹の辺りから聞こえた。顔が、唇をへの字に曲げた、不機嫌そうな渋面に変わっている。
ふと緊張がゆるみ、東堂はくすりと笑った。心臓は速いリズムを刻み続けているが、状況に慣れて調子が戻ってきたのかもしれなかった。
「腹が減ってるのか巻ちゃん。そういえばオレもすいてるぞ。朝食べたきりだからな」
ならば起こそうと肩に手を伸ばしたところで、巻島の目がぱちりと開いた。
「お。起きたか巻ちゃん」
ぼんやりと目を開いたまま状況をうかがっていた巻島は、東堂の声にちらりと視線を動かして目を閉じると、両手を交差させてその上を覆った。
「東堂ォ……」
起きぬけの声はやや低く、喉にからみつくように掠れている。巻島の頭の横で胡坐をかいていた東堂は、少し前のめりになって見下ろす格好になった。
「なんだい巻ちゃん」
「おまえ、何しにきたんだヨ、ほんとに」
東堂は唇の両端にぐっと力をこめて唇をきっぱりと結んだ。何か言わなければならないと言葉を捜しているうちに、巻島が待ちきれないように言った。
「登坂でやりあおうってんなら、ナシだぜ。もうそういうの終わったショ」
「巻ちゃ……」
「おまえがどう思ってるか知らねーけど、今オレは、おまえと走りたいと思ってない、ショ」
それは東堂も同じだ。あの日の記憶に、まだ新しいものを上書きする気はない。走ろうなんて、はじめから思っていない。
なのに巻島のそのひとことは、思いがけず東堂を打ちのめした。頭のてっぺんに鉄の塊でも乗せられているような、重苦しいショックだった。
「……オレと、走りたく、ないだと?」
東堂は両手を前につき、横から覆いかぶさるように巻島の顔を覗き込んだ。巻島は両手を浮かせ、隙間から片目だけ出して、その顔を見上げる。
「今はな」
近いショおまえ、と巻島は東堂の左頬に手を当てて押しやる。
「今……」
「そうだ。ていうかおまえ、どけって」
もしかして。
東堂は目を見開いて、巻島の顔を穴が開くほど見つめた。
「……そうだな、わかるぞ巻ちゃん。オレも同じ気持ちだ」
窓の外で緑の枝がざわめき、ベッドにかかった影が巻島の顔の上でちらついた。巻島は東堂を見、天井を見上げ、それから何かを諦めたような表情で、ゆったりと二、三度瞬いた。
日が翳って室内の影が濃くなった。窓を見上げると、大きな雲がゆうゆうと空の真ん中に広がっていた。白と灰青のグラデーションが空の青さを際立たせている。その青が、光の強さが、木々の緑が、そして隣にいる巻島の存在が、あの日のあの場所へと、東堂をまた押し戻していく。
「何度も思い出しているよ……忘れたくはないからな」
東堂の言葉に、巻島はぎゅっと眉根を寄せ、ごろんと寝返りを打って背中を向けた。ああそうか、と東堂はその背中に語りかける。やはりそうか巻ちゃん。
おまえも同じ気持ちなのだな、巻ちゃん。
東堂には珍しいことながら、今は声に出して言う気にはならなかった。停滞ではないと知っている。留まり続けることに意味などないし、いずれ別の目標を見定めて再び登り始めることなどわかりきっている。この時間は短い。だからこそ、貴重なのだ。
(楽しかったなあ、本当に)
雲は影を従え、山に向かってゆったりと流れていく。
「いずれまた走ろう、きっとそう遠くない」
「……その時おまえが走りたいと思っていればな」
「絶対思ってる。あたりまえだ」
巻島はクハ、と溜息のように笑い、両手で顔を覆った。隙間から覗く口許がいつもと同じようにニヤついていた。東堂はその事に、何故だかとても安心していた。安心したとたん、空腹だったことを思い出し、腹をさすりながら訊ねる。
「ところで巻ちゃん腹は減っていないのか?」
「……減ってるショばか。何時?」
「二時過ぎだ」
「あーー……、おめーのせいで時間無駄にしちまったじゃねえかよ」
不機嫌にぼそぼそと呟く声はまだ、いつもよりも少し低く響く。それがなんだかくすぐったく、胸がざわついて仕方がない。東堂はシャツの胸元をぎゅっと握ると、巻ちゃあん、と情けない声で巻島を呼んだ。一度落ち着いた鼓動が再び速まりはじめる。
「なにヨ」
巻島はのそりと体を起こし、ふああと大きな欠伸をしてがりがりと頭をかく。寝乱れて絡まった髪に手をやり、一瞬不機嫌な顔になった。
「何でもないよ。くそ」
「あ?」
「巻ちゃんは寝起きは悪いほうか?」
「よくはねえショ……なに」
東堂がじっと見ているのに気づいて、巻島は怪訝な顔で見返した。
「いや、なんだかいつもと雰囲気が違うんでな」
「あたりまえだろ。自分の家でレース前みたいな顔してたら、おかしいっショ」
山以外の場所で、自転車もなく。そういう巻島を今、東堂は初めて見ているのだった。
顔にかかった前髪をかきあげながら少しとろんとした眼差しを向けられ、東堂はひそかに狼狽した。
「その目は反則だ、巻ちゃん」
巻島から視線をそらして俯き、東堂はふたたび芽生えた胸の痛みに目を閉じて耐えた。巻島と自分が、インターハイの初日の走りについて同じ思いを抱いていることはわかった。それ自体は東堂をひどく喜ばせたが、それとこれとはまったく別の問題なのだ。
混乱しているだけだと思いたかった。連絡も出来ないまま巻島のことばかり考えていたから、そういう気持ちが処理しきれないスピードで暴れまわっているだけだ、というような。
だがやはり、違うかもしれない。本当にオレは巻ちゃんが好きで、こうなっているのかもしれない。だとしたらまた一からやり直しだ。そう思い、東堂はぎしぎしと首を右方向に回した。視線の先、部屋の一角に、丸型のゴミ箱がぽつんと置かれている。その中に、密かに吐き出した後ろめたい欲望が冷たく乾いている。それを思うと心臓が冷たく濡れてくるようだった。
「冷凍のピザならあるけどそれでい?」
東堂が深刻な考えに沈んでいる横で、巻島が暢気に言った。
「腹減った。限界」
「ああ、なんでもいいぞ。というか、悪いな巻ちゃん」
「いい。もうめんどくさい……東堂」
「なんだ?」
寝室から出て行こうとする巻島を追いかけるように、東堂もベッドから退いた。
「そんで、どうすんの?もう用は済んだだろ」
巻島の顔を見に来たのだから、確かに用は済んでいた。会って、顔を見て、話す。すべてきれいにクリアした。それによって新たに発生した問題はともかく、少なくとも電話が出来ないなどと悩むことはもうないだろうと思われた。
「自転車にも乗らないならおまえ、食ったらもう帰ったほうがいいんじゃねーの」
「問題ない。自転車には、乗る」
「ハァ?」
「昼飯食ったら乗ろう。少しだけ。たまには普通にサイクリングっていうのもいいだろう?」
巻島は予想外の返答に目を丸く見開いている。が、東堂は思いつきだけで言ったのではなかった。はじめから考えていたわけではないが、口に出してみて、それはいいと思った。
「巻ちゃんに会って自転車に乗らないというのは、やっぱりどうも落ち着かんよ」
東堂がそう言うと、巻島はほんのり表情を和らげ、「オレも同じショ」と言った。
声音の方は、もっと明瞭に笑っていた。
その顔も声も、今までと何ひとつ変わらないのに、どこか違って見える。
好きとはなんだろう。どういうことだろう。前に立って階段を下りる巻島の背中を見ながら、東堂は考えていた。
長めの髪、薄くきれいに筋肉のついた背中、肩、腕から指先へと順番に、その形を丹念にたどった。それらのパーツのひとつひとつを、東堂は確かに好きだった。他の男ならばどうかはわからないが、巻島のこれは特別だ、と思った。
巻島は仰向けになって目を閉じて、くうくうと小さな寝息を立てている。玉虫色の髪が白いシーツに広がって、日に照らされて不思議な色合いに光っている。
寝顔は穏やかだった。顔つきは常に皮肉気であったり憂いに彩られていたりでめったに笑わない巻島のこういった表情を、東堂はほとんど見たことがない。
「睫毛が長いな、巻ちゃんは」
後ろに流れた毛束のすき間から貝殻のような耳が覗いている。肉づきは薄く、丸みを帯びてつややかだ。
東堂はそこに触れたいという気持ちと先ほどからずっと戦っていた。
戦いであるからには勝たねばらならない。なのに、負けたほうがいいんじゃないかそうに違いない、という内なる声は圧倒的に優勢を誇っていた。が、東堂には、触ったらそのあとどうなるか考えてみろという小さな声もちゃんと聞こえていて、そちらに深く頷きたい気持ちも強くあった。
なにしろ自覚してからまだ数時間であるし、確信は弱い。東堂としては、気のせいだと言われたらそうだろうやっぱりな、と大いに頷いてみせたいところなのだ。
しかし、この薄い耳に指を這わせたいという喉が乾涸びそうなほどの欲望は、絶望的なまでにひとつの方向を示している。
(ならばここはひとつ触って確かめてみるべきとは思わんか?)
胸の内で自分にそう問いかけ、東堂はついに先ほどから目を捉えて離さないそこへ、思いきって手を伸ばした。
人差し指を立て、カーブに沿ってそっとなぞってみる。つるりとした触り心地は思ったとおりとても良く、東堂はさらに指を開き、上側の縁をやわらかくつまむ。親指を左右にスライドさせてそっと擦ると、くにゃりと撓んだ耳にかすかに赤みが差した。
巻島がもぞりと動き、逃れるように首を反対側へ向けた。髪が流れて、隠れていた首筋のラインが露になる。
目にした瞬間、全身が総毛立つような感覚に背筋がぞくぞくした。東堂はパっと手を離し、巻島から少しだけ離れた。
巻島が寝室に入ってきた時点では、東堂は確かに眠っていた。
始発に乗って来たこともそうだが、ここ数日あまりよく眠れていなかったことも手伝い、眠りは深かった。巻島への気持ちだとか、巻島の家の、巻島のベッドの上であるとかそういったことはすべて二の次で、まずは会って話せたという事実による安堵感がもたらした、久しぶりの快眠だった。
揺すられたり叩かれたりしたせいですぐに目は覚めたのだが、バツの悪さにすぐには目を開けることが出来なかった。どんな顔をして何を話せばいいかわからず、東堂は混乱しながらひとまずは寝たふりを通した。こんな気持ちは女の子相手にも抱いたことはない。そのうちに巻島の気配が薄まり、眠ったとわかって、つられるように再び眠ってしまったのだった。
ベッド脇に置かれた時計を見ると、もう午後二時に近い。
東堂が触っても、巻島はとくに目覚める様子を見せない。元々警戒心の強いタイプだと知っているだけに、今の無防備な様子を見ていると少々心配になってくる。
(巻ちゃん、こんな簡単にオレに触らせてるようじゃいかんのじゃないか……?)
それとも自分だからだろうか。ベッドに眠っているのを放置してくれたあげく同じ場所に転がって眠り始めるなどという行為は、かなり気を許してもらっていると思ってもいいはずだ。東堂はぽーっとなり、頭の芯がくらりと揺れた。顔ばかりか耳まで赤くなっている自分を想像してさらに恥じ入る。どっどっどっと心臓が痛いくらい強く鳴っている。男同士だからこそ無警戒なのだという発想は、今の東堂にはなかった。
巻島は変わらず眠っている。
そのときクウと、小さく細い音が、巻島の腹の辺りから聞こえた。顔が、唇をへの字に曲げた、不機嫌そうな渋面に変わっている。
ふと緊張がゆるみ、東堂はくすりと笑った。心臓は速いリズムを刻み続けているが、状況に慣れて調子が戻ってきたのかもしれなかった。
「腹が減ってるのか巻ちゃん。そういえばオレもすいてるぞ。朝食べたきりだからな」
ならば起こそうと肩に手を伸ばしたところで、巻島の目がぱちりと開いた。
「お。起きたか巻ちゃん」
ぼんやりと目を開いたまま状況をうかがっていた巻島は、東堂の声にちらりと視線を動かして目を閉じると、両手を交差させてその上を覆った。
「東堂ォ……」
起きぬけの声はやや低く、喉にからみつくように掠れている。巻島の頭の横で胡坐をかいていた東堂は、少し前のめりになって見下ろす格好になった。
「なんだい巻ちゃん」
「おまえ、何しにきたんだヨ、ほんとに」
東堂は唇の両端にぐっと力をこめて唇をきっぱりと結んだ。何か言わなければならないと言葉を捜しているうちに、巻島が待ちきれないように言った。
「登坂でやりあおうってんなら、ナシだぜ。もうそういうの終わったショ」
「巻ちゃ……」
「おまえがどう思ってるか知らねーけど、今オレは、おまえと走りたいと思ってない、ショ」
それは東堂も同じだ。あの日の記憶に、まだ新しいものを上書きする気はない。走ろうなんて、はじめから思っていない。
なのに巻島のそのひとことは、思いがけず東堂を打ちのめした。頭のてっぺんに鉄の塊でも乗せられているような、重苦しいショックだった。
「……オレと、走りたく、ないだと?」
東堂は両手を前につき、横から覆いかぶさるように巻島の顔を覗き込んだ。巻島は両手を浮かせ、隙間から片目だけ出して、その顔を見上げる。
「今はな」
近いショおまえ、と巻島は東堂の左頬に手を当てて押しやる。
「今……」
「そうだ。ていうかおまえ、どけって」
もしかして。
東堂は目を見開いて、巻島の顔を穴が開くほど見つめた。
「……そうだな、わかるぞ巻ちゃん。オレも同じ気持ちだ」
窓の外で緑の枝がざわめき、ベッドにかかった影が巻島の顔の上でちらついた。巻島は東堂を見、天井を見上げ、それから何かを諦めたような表情で、ゆったりと二、三度瞬いた。
日が翳って室内の影が濃くなった。窓を見上げると、大きな雲がゆうゆうと空の真ん中に広がっていた。白と灰青のグラデーションが空の青さを際立たせている。その青が、光の強さが、木々の緑が、そして隣にいる巻島の存在が、あの日のあの場所へと、東堂をまた押し戻していく。
「何度も思い出しているよ……忘れたくはないからな」
東堂の言葉に、巻島はぎゅっと眉根を寄せ、ごろんと寝返りを打って背中を向けた。ああそうか、と東堂はその背中に語りかける。やはりそうか巻ちゃん。
おまえも同じ気持ちなのだな、巻ちゃん。
東堂には珍しいことながら、今は声に出して言う気にはならなかった。停滞ではないと知っている。留まり続けることに意味などないし、いずれ別の目標を見定めて再び登り始めることなどわかりきっている。この時間は短い。だからこそ、貴重なのだ。
(楽しかったなあ、本当に)
雲は影を従え、山に向かってゆったりと流れていく。
「いずれまた走ろう、きっとそう遠くない」
「……その時おまえが走りたいと思っていればな」
「絶対思ってる。あたりまえだ」
巻島はクハ、と溜息のように笑い、両手で顔を覆った。隙間から覗く口許がいつもと同じようにニヤついていた。東堂はその事に、何故だかとても安心していた。安心したとたん、空腹だったことを思い出し、腹をさすりながら訊ねる。
「ところで巻ちゃん腹は減っていないのか?」
「……減ってるショばか。何時?」
「二時過ぎだ」
「あーー……、おめーのせいで時間無駄にしちまったじゃねえかよ」
不機嫌にぼそぼそと呟く声はまだ、いつもよりも少し低く響く。それがなんだかくすぐったく、胸がざわついて仕方がない。東堂はシャツの胸元をぎゅっと握ると、巻ちゃあん、と情けない声で巻島を呼んだ。一度落ち着いた鼓動が再び速まりはじめる。
「なにヨ」
巻島はのそりと体を起こし、ふああと大きな欠伸をしてがりがりと頭をかく。寝乱れて絡まった髪に手をやり、一瞬不機嫌な顔になった。
「何でもないよ。くそ」
「あ?」
「巻ちゃんは寝起きは悪いほうか?」
「よくはねえショ……なに」
東堂がじっと見ているのに気づいて、巻島は怪訝な顔で見返した。
「いや、なんだかいつもと雰囲気が違うんでな」
「あたりまえだろ。自分の家でレース前みたいな顔してたら、おかしいっショ」
山以外の場所で、自転車もなく。そういう巻島を今、東堂は初めて見ているのだった。
顔にかかった前髪をかきあげながら少しとろんとした眼差しを向けられ、東堂はひそかに狼狽した。
「その目は反則だ、巻ちゃん」
巻島から視線をそらして俯き、東堂はふたたび芽生えた胸の痛みに目を閉じて耐えた。巻島と自分が、インターハイの初日の走りについて同じ思いを抱いていることはわかった。それ自体は東堂をひどく喜ばせたが、それとこれとはまったく別の問題なのだ。
混乱しているだけだと思いたかった。連絡も出来ないまま巻島のことばかり考えていたから、そういう気持ちが処理しきれないスピードで暴れまわっているだけだ、というような。
だがやはり、違うかもしれない。本当にオレは巻ちゃんが好きで、こうなっているのかもしれない。だとしたらまた一からやり直しだ。そう思い、東堂はぎしぎしと首を右方向に回した。視線の先、部屋の一角に、丸型のゴミ箱がぽつんと置かれている。その中に、密かに吐き出した後ろめたい欲望が冷たく乾いている。それを思うと心臓が冷たく濡れてくるようだった。
「冷凍のピザならあるけどそれでい?」
東堂が深刻な考えに沈んでいる横で、巻島が暢気に言った。
「腹減った。限界」
「ああ、なんでもいいぞ。というか、悪いな巻ちゃん」
「いい。もうめんどくさい……東堂」
「なんだ?」
寝室から出て行こうとする巻島を追いかけるように、東堂もベッドから退いた。
「そんで、どうすんの?もう用は済んだだろ」
巻島の顔を見に来たのだから、確かに用は済んでいた。会って、顔を見て、話す。すべてきれいにクリアした。それによって新たに発生した問題はともかく、少なくとも電話が出来ないなどと悩むことはもうないだろうと思われた。
「自転車にも乗らないならおまえ、食ったらもう帰ったほうがいいんじゃねーの」
「問題ない。自転車には、乗る」
「ハァ?」
「昼飯食ったら乗ろう。少しだけ。たまには普通にサイクリングっていうのもいいだろう?」
巻島は予想外の返答に目を丸く見開いている。が、東堂は思いつきだけで言ったのではなかった。はじめから考えていたわけではないが、口に出してみて、それはいいと思った。
「巻ちゃんに会って自転車に乗らないというのは、やっぱりどうも落ち着かんよ」
東堂がそう言うと、巻島はほんのり表情を和らげ、「オレも同じショ」と言った。
声音の方は、もっと明瞭に笑っていた。
その顔も声も、今までと何ひとつ変わらないのに、どこか違って見える。
好きとはなんだろう。どういうことだろう。前に立って階段を下りる巻島の背中を見ながら、東堂は考えていた。
長めの髪、薄くきれいに筋肉のついた背中、肩、腕から指先へと順番に、その形を丹念にたどった。それらのパーツのひとつひとつを、東堂は確かに好きだった。他の男ならばどうかはわからないが、巻島のこれは特別だ、と思った。