夏が終わる前にぼくらにできるいくつかのこと 7

 東堂が家にいると言うと、田所は横に平べったく伸ばしたような奇妙な目つきで巻島を見返した。
「なんでだ?」
「こっちが聞きてえショ。連絡もなしでいきなり来たんだヨ」
 講習を終えた二人は、自転車部の部室に向かっていた。午前の練習を終えて、そろそろみんな部室に戻っている頃合だった。
 太陽は真上にあり、風はなく、うんざりするほど生ぬるい空気が汗で湿った肌にはりついてくる。巻島はシャツのボタンをさらにひとつはずしてパタパタとあおぎながら歩いた。
「ひとりで家にいるわけか?」
「ん」
「不用心じゃねえか?」
「んー、まあ……」
 巻島には子供の頃からやたらと遊びにきたがる友達連中に辟易させられ続けてきたという過去があり、親しい友人であっても、初めて家に招くときには多少警戒心が働くのが常だった。例えば学年が変わって同じクラスになったばかりの友人に「遊びに行きたい」と言われてもすぐに頷くことが出来ず、そうこうしているうちに相手のほうが離れていくこともしばしばだった。もっともそれを気に病むような巻島ではないのだったが、田所の懸念は妥当なものだ。
「ま、平気ショ。つうかむしろダメなのは田所っちショ。お前なんかひとりにしといたらあっという間に冷蔵庫カラにされちまう」
 茶化したように言うと、当たり前だろうガハハハ、と笑う。それに合わせて巻島も笑った。田所がそこで話題を終わらせてくれたことにどこかほっとしていた。なぜ東堂なら平気なのだと今この場で、問われても、巻島自身答えることなどできそうになかった。
 部室には二年をはじめ、部員がほぼ全員そろっていた。といってもドアの外だ。この時間の部室など蒸し風呂状態でとてもいられたものじゃない。全員がそれぞれ風の通る場所を探して、日陰で涼んでいる。
「小野田が、巻島さんが来るかもって言うもんで」
 巻島の一番近くにいた今泉が、斜め上からぶっきらぼうな口調で告げてくる。
「オレが来るからなにヨ」
「いや、なんとなく」
 午前の練習は終わっていたのですでに解散しても良かったはずだった。
「んな歓迎されてもなにも出ねえよ」
 巻島はあえての渋面で答えた。油断すると口許が笑ってしまいそうだったからだが、隣にいた田所にはお見通しだったようで、ニヤニヤと顔を覗き込んでくる。その顔をぱちりとたたいて遠ざけながら、巻島はちょうど目が合った手嶋にたずねた。
「そんな来てない?オレ」
「来てませんよ、巻島さんが一番」
 唯一中で機材を整理していた古賀が、タオルで汗を拭いながら外に顔を覗かせる。
「そうかあー?」
 言いながら田所を見ると、オレは昨日も来てるしな、と言い、ガハハと豪快に笑った。そういえば小野田が言っていたな、と思い出す。
「乗らなくてもいいから顔くらい出せってんだよ、どうせ毎日来てるんだしよ」
 ばん、と田所の分厚いてのひらで背中を叩かれ、巻島は恨めしげにその巨体を見やった。そうですよー、と続いたのはまたしても古賀だ。
「ちょっとアドバイス貰うのだって全然違いますよ。クライマーの先輩は巻島さんだけなんですからね」
 うんうんと頷く顔ぶれを見ていれば、どうやらそれが部員の総意なのだった。つまりは「小野田だけずるい」ということらしい。
「今日のは小野田が言ってきたからショ」
「あれ、言えば一緒に登ってくれるんすか?」
 登りたいの?お前が?と横から割り込んできた鳴子に言い返しながら、巻島はやれやれと部室の外壁に寄りかかった。
「モテモテだな巻島」
「ヤローにもててもうれしくないショ……」
ガラス窓に光が反射するせいか、視界がとても眩しい。濃い影の下で、後輩達の顔が暗くかげって、表情がよく見えない。
 その場所から眺める景色は、今までと同じようで少し違っていた。もう自分のものではないというその感覚が、眺めるほどに鮮明になり、それは巻島が一年だった頃に感じていた部室内の居心地の悪さに少しだけ似ているような気がした。真昼の光がふんだんに注ぐ木漏れ日の下で、巻島はふいに自分の周囲だけがすうっと闇に落ちたような感覚に襲われ、そっと手のひらで口許を押さえて俯いた。
「そういう意味じゃ、東堂も似たようなもんか。モテモテだな巻島」
「……あ」
 田所の声に、はっと我に返る。
「おいおい忘れてんじゃねえぞ」
「あーいや、一瞬頭になかった……ショ」
 頭に手をやりながら田所に言い返している巻島を、小野田は目を丸くして見ていた。巻島はそれに気付き、咄嗟に片手をあげて制止しようとしたのだったが、一呼吸遅かった。
「東堂さん、もしかして今巻島さんの家にいるんですか?」
 巻島は額をてのひらで押さえながら、「小野田ァ」と低く呼んだ。小野田はぱっと口を手で押さえてから、すいません、と小さく言った。
 東堂さんってハコガクの?あの前髪の人スか?と部員達がざわめきだす。説明が面倒だった巻島は、じゃあなァと言って、後は任せたというふうに、田所の肩をぽんとたたいた。
「また来るショ。なんかあるなら適当に連絡してくれればいいし」
 去りしなに振り返って言うと、手嶋は苦笑気味にこくこくと頷き、おもむろに両手をまっすぐ体に沿わせ、ぺこりと頭を下げた。ひらひらと手を振る背後で、他の部員たちも倣うようにパラパラと頭を下げていく。巻島は腹からこみ上げるものを抑えきれず、クハハ、と小さく笑った。後ろからいくつか笑い声が追いかけてきたが、やがて周りの雑音に紛れて聞こえなくなった。
 巻島は自転車に跨ると携帯を取り出し、東堂のアドレスを呼び出した。メールか電話かと考えて、お互いの音信不通ぶりを思い出した。送信履歴を見ると最後のメールは大会前日、東堂への返信だ。
『明日な』
 たったそれだけの短いことばに、その日巻島が抱えていた期待や興奮、高揚、そういった感情のありったけが込められていたことなど、東堂は知らない。
 結局そのまま携帯を閉じ、自転車を漕ぎ出した。裏門を出ながら校舎に掛けられた時計を振り返る。十二時半だった。

[TOP / NEXT]