夏が終わる前にぼくらにできるいくつかのこと 2

 朝にはそれほど強くない。
 しかし夏場の練習にはやはり早朝が適している。巻島は耳もとで鳴り続ける携帯のアラームを三度スヌーズでやり過ごしたのち、漸く諦めて体を起こした。
 インターハイ後も自主錬はそれなりに続けているものの、週に二度がせいぜいで、それ以上となるとなかなか時間が取れない。なので巻島は引退後、部活には一度も顔を出していなかった。
 三年生が引退して、手嶋や青八木をはじめ、二年生が部をまとめ始めたばかりだ。新しい形が見えてくるまでは離れておいたほうがいいだろうという判断もあったが、小野田などにはそれがどうも物足りないらしい。昨日は珍しいことにメールまで寄越した。
―― 気分転換が必要になったらいつでも付き合いますので言って下さい。
(だとヨ)
 思い出して、クハハと自然に笑いが漏れる。寝起きの体をゆるく動かして軽くストレッチをし、ジャージに袖を通しながら、まだ薄暗い庭に出る。朝露をまとってほのかに湿った芝生から青くすっきりとした草の匂いが立ち昇ってくる。巻島は担いでいた愛車を下ろし、すらりと跨った。
 高校三年になって漸く持ったクライマーの後輩だ。教えられることは全部教えてやりたいし、自分が練習相手になってやることで何か掴めるものがあるのなら、時間が許す限りいくらでも手伝ってやりたいと思う。
必要とされている感覚。そういうのは悪くない。同じクライマーだからなのか、小野田だからなのかは巻島にもわからなかったが、どちらにしろ同じことだ。そういった心境について一年上の先輩や中途退部した同学年の連中が聞けばきっと目を丸くするだろうが、一番驚いているのは巻島自身だった。
(まあどっちかっていうと、あいつのキャラっショ)
 インターハイまで経験しておいて初心者というのもおかしなものだが、やはりまだまだ見ていて危なっかしいし、どうにも不器用だ。
(でも、これからはアイツが唯一のクライマーだからな)
 小野田の持っているものを伸ばしつつ、来年入学してくる後輩を指導出来るまでに―――というのは難しいような気もするが、やはりまず数をこなさないことにはどうにもならない。巻島はこれから秋にかけてのスケジュールについても小野田から相談を受けている。まずはひとつでも多くレースを経験することだ。
 経験。巻島にとって、一年の秋冬などは特に戦いの記憶が濃い。自分のスタイルを確立するためにひとり山を登り続けた日々の記憶だ。苦くて、でもどこか誇らしい、今となっては懐かしさすら覚えるような日々の積み重ねがあって、今がある。
よく知った男の顔がふわりと、その記憶の中心に浮かびあがった。巻島とは真逆のスタイルを持ち、音もなく加速して山を登る男の顔だ。
巻島はぐっと顎を引いてグリップを軽く握りなおすと、ペダルを強く踏んだ。周りの景色が飛ぶように流れ、歩道を走る早朝ランナーを置き去りにしていく。回転数を上げてさらに加速していく。周囲から雑音が消え、風の音以外耳に入らなくなる。
 インターハイのあと、東堂とは一度も連絡を取っていない。週に三度も電話してきていた男が、ぱったりと何も言ってこなくなった。不自然といえばそうだが、そもそも三度も電話があるほうがおかしいのであって、これが普通の状況なのだと巻島は納得していた。用があれば何か言ってくるだろうから、つまりは用がないということなのだろう。そして巻島からあえて連絡するような用事もなく、そのこと自体はこれまでも稀なことであったのだから、巻島が特別ペースを変えたわけでもない。
 電話がないといってもこの二週間あまりのことであれば、さほど気にすることでもないはずだ。所詮他校の、しかもライバル校の人間だということだ。何度か試合で顔を合わせ、高じて示し合わせて山を登るようになったおかげで多少親しくはなったが、結局はそれだけのことだ。
 巻島は東堂のことなど何も知らなかった。家がどこにあるとか、家族は何人だとか、誕生日さえも。個人的に立ち入った話は一切した覚えがない。話すことといえば、山を登ること、山と自転車に関することばかりだった。
(それが普通、ショ)
「巻島さん!」
 背後からの声にはっとして、巻島は顔を上げた。右側に小野田の前輪が近づいているのが見えた。
「おはようございます」
「おう、オハヨ」
「このまま向かいますか?」
「そうだな」
 峰ヶ山まで登るため、六時に学校で待ち合わせる約束だったが、こうなったらわざわざ向かう必要もない。ひとつ先の交差点を右折して田園地帯へ向かう道へ入ると、明るみ始めた東の空が視界いっぱいに広がった。青い雲の向こうで、下から押し上げてくる太陽の燃えるような色が漏れ光っている。
(今日も暑くなりそうだなァ……)
 峰ヶ山の緑がその下でこんもりと小さな影になっていた。
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