夏が終わる前にぼくらにできるいくつかのこと 10
冷凍ピザを二枚にポカリと麦茶。腹が減っていた二人は用意が出来ると、無言のまま、もくもくとあっという間に食べ終わった。
夏期講習はいつまであるのか。
部活はどうしたのか。たまには顔を出しているのか。自転車に乗る頻度はどれくらいか。トレーニングはどの程度行っているのか。
東堂が興味を持つ気持ちはよくわかったので、巻島は淡々と答えつつ、同じ質問を返した。
そして今、二人は食事から引き続いて雑談などを交わしつつ、のんびりとペダルを回していた。雲のたちのぼる稜線の間へ続く一本道には、時々軽トラックがとまっているくらいで、人影はほとんど見当たらない。
両側には、山裾の手前まで水田が広がっていて、間に挟まるような形で黒々と民家が建ち並んでいる。黄味を帯びた午後の太陽の光を受けて、水田の緑は明るく鮮やかだった。
家を出てそろそろ一時間というところだった。このまままっすぐ行けば、峰ヶ山より少し低い丘陵を登る道に入る。頂上にゴルフ場があって景観もよく、巻島が時々ひとりで足を伸ばす場所だった。
サイクリングだと東堂が言うので、巻島もジャージは着ず、無地のTシャツに、グレーのショートカーゴパンツというスタイルだった。こんな格好でこの道を走るのは初めてで、しかも隣に東堂がいるというのがどうにも奇妙な感じだ。
遠くから風がやってくるのが青い稲穂のざわめきでわかる。さわさわと軽やかな音を立てて、風に押されてなびいている。東堂が、「猫バスだな…」とひとりごとを言った。巻島はクハ、と声を出さずに笑った。
涼やかというには少し強い風を受けて自転車の進むスピードがわずかに鈍った。見上げると、雲の流れはずいぶん速い。
一日にこれほど長時間自転車に乗るのは久しぶりのことだった。心地よく汗が滴り、体の中に溜まったどろりとした疲れが抜けていく。
頬の汗を拭い、払う。
東堂が右側から巻島を追い越して前に出る。交代だ。まっすぐか、というように前を指差したので、巻島は頷いて答える。道は緩やかに登り始めていた。あと十五分ほどで頂上に着く。
東堂の走りはいつもと同じく静かだった。森さえ眠るとはよく言ったもので、登りでの安定感はとくに揺るぎない。レースを離れて見るとそのことがよくわかる。
いくつかのカーブを折れながらくねくねと登っていくと、道は頂上の手前で広くなり、三方向に分かれる。右へ登るとゴルフ場へ、真ん中は山の向こう側とを結ぶために開かれた道で、左の一番古い道をゆくと、展望台と小さな駐車場に行き当たる。巻島は東堂に左を指差して見せた。ついでに、あと三分という風に指を立ててみせる。振り返った東堂がにやりと笑った。それだけで巻島には十分に伝わった。
***
白い雲がもくもくと流れる紺青に澄みわたった空の下、巻島の後ろをついて走りながら、東堂は不思議な感慨に浸っていた。
(巻ちゃんと自転車に乗るのはやっぱり楽しいな……)
巻島ともっと話をしたいと思っていた。山や自転車だけでなくもっと、雑談のような。たとえば巻島が普段友人と交わしているであろう、普段着の、取るに足りない内容のことなんかを。
せっかくそういった機会を得られたというのに、結局また自転車に乗って、小さいとはいえ山を目指して走っている。それをこころから愉快に思い、楽しんでいる。
レースであろうとなかろうと関係ないのだ。そこに巻島の姿があるということが、ひどく嬉しい。
水田の広がる平地は風が強く、巻島の特徴的な色の髪が吹き乱されて踊っている。東堂は前に出た。目前に山が迫ってきている。
「暑いな」
「ああ、もう少しっショ」
そう答えた巻島の顔が少し笑っていて、途端に、東堂の鼓動は不自然に速まる。どこか他人事のような気持ちで、これはもう確定だなあ、と思った。巻島が笑うと嬉しいのは、出会ったばかりの頃からそうだったけれど、今のこの感じは、それとはまた少し違う。
東堂は赤らんだ頬に気付かれぬよう顔を伏せた。背後の巻島が気づくわけはなく、真夏の午後に自転車で走っている現状頬のほてりなどあって当然なのだが、巻島が好きだとあらためて思うと、照れくさくて仕方がなかった。
登るにつれて道幅は狭まり、勾配は次第にきつくなった。五、六分登ったところで、三叉路が現れた。振り返ると、巻島が左を指差していたので、東堂はそちらへ進路を取る。あと三分、というふうに巻島が指をたてて見せた。
道は古く、ところどころアスファルトが剥げかけて、そこから草が伸びている。ガードレールの向こう側にまばらに生えている低木の間からのぞき見れば、家々の屋根が、緑の水田の中に玩具のように並んで見える。
右方向に巻いて登っている道にそってかすかに体重を移動させながら、東堂はスピードを上げた。巻島が左側を進んで、車体を合わせてきた。
東堂の意図は巻島に正確に伝わっていた。残り三分、楽しいサイクリングから一転、勝負に切り替わった。
今は登りたくない、と巻島が言ったのは、ほんの二時間ばかり前のことだった。東堂も偽りなく同じ気持ちだった。
時間は進んでいるのだ。どんどん遠くへ。東堂はインターハイの山でのシーンを再生しなくなっている自分に気付き、心も体もふわっと浮き立つ感覚に一瞬手足から力が抜けた。その空隙を鋭くついて、巻島が前に出る。
「いかせんよ巻ちゃん!」
東堂は体を低く前傾させ、巻島のラインの僅か内を狙う。巻島は体を張ってそれを阻止し、独特のダンシングで一気に突き放そうとした。
東堂も立ち上がった。立ち上がると、自転車が切り裂いた風が耳元で唸り、木々の緑はいくつもの光のように丸く膨らんで形を失った。
残り数十メートルは本気のバトルになった。感情をぶつけ合い、文字通り体もぶつけ合った。肺の痛みが限界に達するまで激しく回した。頂上ではほんの僅か巻島が前にいた。悔しかった。またこうして悔しいと思えることが、泣きたいほど嬉しかった。
頂上には展望台を兼ねた古い貯水タンクがあったが、眼下に特筆すべき眺望もなく、大分寂れた印象だった。しかし一応公園になっていて、ざらついたコンクリートで固められた水飲み場もある。二人は顔を洗い、水を飲んだ。燃えるように熱かった体から、少しずつ熱が引いていく。
「誰もいないな」
芝生の中に点在するベンチにも、それらを繋ぐ小道にも、誰もいない。
「たまに人に会うとびっくりするような場所っショ」
笑ってそう言い、Tシャツの裾をぱたつかせて風を入れながら、巻島はひとり道を渡ってガードレールに近づいていった。向こう側の草地はゆるい崖になっていて、なかなか見晴らしがいい。
巻島の長い髪が風に踊っている。頬にかかった髪を払い、前髪ごと額を押さえて、穏やかな目で景色に見入っている。
「いい景色だな!」
東堂が言うと振り返って、唇の片端を少しだけ上げてみせる。
「これだから山はやめられねえよなァ……」
すっきり伸びた背中の向こうに、夏の乾いた空がある。じっと見ていると視界が霞んできて、まるで思い出の中にある景色を懐かしむような、そんな感覚がふわりと東堂を包み込んだ。
東堂はそこに、不確定な未来の孤独を垣間見ていた。一人で立つ巻島の隣に自分がいないという未来だ。離れたところから見ていることしか出来ないという想像は、胸の中に激しい動揺を招いた。
急激な感情の突き上げに鼻の奥がつんと痛んだ。閉じようとするほどに唇はわななき、視界がみるみるぼやけはじめる。
(胸が苦しい。巻ちゃん、おれは……)
斜めに振り向いた巻島が驚いた顔で見ている。少し慌てたように目を見開き、両手を腰の辺りにあててごしごしと擦っている。
「おま……、何泣いてるっショ」
巻島を見つめる東堂の目からは大粒の涙がポロポロと溢れていた。巻島は近づきかけて止まり、俯いて髪に手をやると、困ったようにぽりぽりと掻いた。そんな仕草さえどうにも拙く、かわいらしく映る。涙のフィルターだけのせいではない。東堂はしかたがない、というふうに少し笑った。
「巻ちゃんにあえてよかった」
巻島は呆然としていたが、気を取り直したように、また皮肉っぽく口許をゆがめて、ゆらりと体を傾けた。
「東堂ォおまえ……目にゴミ、とかショ?クハハ」
そんなふうに下手な芝居でごまかそうとするのも優しさだとわかるから、東堂の涙はますます止まらなくなった。諦めて、目を開けたまま流れるに任せた。
「すきだからだ」
そう言って、東堂はぐいと引っ張るように目許を拭った。言葉にすると経験したことのない悲しみが体の深いところからわきあがってきた。東堂はぎゅっと目を閉じた。涙がぽたぽたと足元に落ちる。
「巻ちゃんがすきで、し、失恋だからだ」
巻島はぽかんと口をあけている。それからパチパチと瞬いて眉をひそめ、次第に東堂の言葉が飲み込めてきたのか、そっと口許を手で覆った。
「な、何言ってるショ……」
「巻ちゃん、おれは」
巻島の顔が見られなかった。東堂は俯き、その場に縫いとめられたように立ち竦んだ。
ざ、と巻島の歩き出す足音がして、俯いた東堂の視界にゆっくりと影が侵入してきた。鼓動がはやまり、ひやりと冷たいものが背筋を駆けあがる。東堂はごくりと喉を鳴らし、顔を上げた。
「巻ちゃ……」
巻島は困っていた。明らかにとても困っていたので、東堂はむりやり笑い顔を作った。巻島を笑えないほど下手くそな作り笑いは、泣き笑いの最もひどいものに成り果て、もはや収拾がつかない。
巻島は唇を引き結び、眉根を強くよせ、困惑を通り越して、すでに怒っているようにも見える。東堂はなんとかわかってもらいたかった。わかってもらおうと、言葉を探した。
「オレはこれからもずっと、巻ちゃんと走りたい。巻ちゃんと走れなくなるのは寂しくてならん。だから…、」
だから、そんな頬まで赤くして怒らなくてもいいじゃないか。失恋だって、言ってるじゃないか。告白くらい聞いてくれたっていいのじゃないか巻ちゃん―――……
そのすべてを伝える前に東堂は黙った。巻島の表情を見た瞬間から何かが頭の中で点滅していた。
巻島は困っている。それは確かだ。だが困惑の方向が何か違いはしないか。苛立たしげに歪む口許や眇められた目は、ただ困っている以上の何かを含んではいないか。頬に差した赤みは、日に当たり過ぎたというようなものじゃない。
東堂はこういう時の表情についてはよく知っていた。伊達に校内にファンクラブなど、持ってはいない。
「まき、ちゃん?」
「誰が失恋だ?」
「巻ちゃん……」
巻ちゃん。巻ちゃん。……巻ちゃん!
東堂は歓喜のままに心のうちで叫んでいた。たしかに今、巻島は言った。俯いて、小さくか細い声で。風がちぎって運び去ってしまいそうなほどの、まるで届かないことを期待しているかのような声で。
――― 失恋とは限らない、ショ。
夏期講習はいつまであるのか。
部活はどうしたのか。たまには顔を出しているのか。自転車に乗る頻度はどれくらいか。トレーニングはどの程度行っているのか。
東堂が興味を持つ気持ちはよくわかったので、巻島は淡々と答えつつ、同じ質問を返した。
そして今、二人は食事から引き続いて雑談などを交わしつつ、のんびりとペダルを回していた。雲のたちのぼる稜線の間へ続く一本道には、時々軽トラックがとまっているくらいで、人影はほとんど見当たらない。
両側には、山裾の手前まで水田が広がっていて、間に挟まるような形で黒々と民家が建ち並んでいる。黄味を帯びた午後の太陽の光を受けて、水田の緑は明るく鮮やかだった。
家を出てそろそろ一時間というところだった。このまままっすぐ行けば、峰ヶ山より少し低い丘陵を登る道に入る。頂上にゴルフ場があって景観もよく、巻島が時々ひとりで足を伸ばす場所だった。
サイクリングだと東堂が言うので、巻島もジャージは着ず、無地のTシャツに、グレーのショートカーゴパンツというスタイルだった。こんな格好でこの道を走るのは初めてで、しかも隣に東堂がいるというのがどうにも奇妙な感じだ。
遠くから風がやってくるのが青い稲穂のざわめきでわかる。さわさわと軽やかな音を立てて、風に押されてなびいている。東堂が、「猫バスだな…」とひとりごとを言った。巻島はクハ、と声を出さずに笑った。
涼やかというには少し強い風を受けて自転車の進むスピードがわずかに鈍った。見上げると、雲の流れはずいぶん速い。
一日にこれほど長時間自転車に乗るのは久しぶりのことだった。心地よく汗が滴り、体の中に溜まったどろりとした疲れが抜けていく。
頬の汗を拭い、払う。
東堂が右側から巻島を追い越して前に出る。交代だ。まっすぐか、というように前を指差したので、巻島は頷いて答える。道は緩やかに登り始めていた。あと十五分ほどで頂上に着く。
東堂の走りはいつもと同じく静かだった。森さえ眠るとはよく言ったもので、登りでの安定感はとくに揺るぎない。レースを離れて見るとそのことがよくわかる。
いくつかのカーブを折れながらくねくねと登っていくと、道は頂上の手前で広くなり、三方向に分かれる。右へ登るとゴルフ場へ、真ん中は山の向こう側とを結ぶために開かれた道で、左の一番古い道をゆくと、展望台と小さな駐車場に行き当たる。巻島は東堂に左を指差して見せた。ついでに、あと三分という風に指を立ててみせる。振り返った東堂がにやりと笑った。それだけで巻島には十分に伝わった。
***
白い雲がもくもくと流れる紺青に澄みわたった空の下、巻島の後ろをついて走りながら、東堂は不思議な感慨に浸っていた。
(巻ちゃんと自転車に乗るのはやっぱり楽しいな……)
巻島ともっと話をしたいと思っていた。山や自転車だけでなくもっと、雑談のような。たとえば巻島が普段友人と交わしているであろう、普段着の、取るに足りない内容のことなんかを。
せっかくそういった機会を得られたというのに、結局また自転車に乗って、小さいとはいえ山を目指して走っている。それをこころから愉快に思い、楽しんでいる。
レースであろうとなかろうと関係ないのだ。そこに巻島の姿があるということが、ひどく嬉しい。
水田の広がる平地は風が強く、巻島の特徴的な色の髪が吹き乱されて踊っている。東堂は前に出た。目前に山が迫ってきている。
「暑いな」
「ああ、もう少しっショ」
そう答えた巻島の顔が少し笑っていて、途端に、東堂の鼓動は不自然に速まる。どこか他人事のような気持ちで、これはもう確定だなあ、と思った。巻島が笑うと嬉しいのは、出会ったばかりの頃からそうだったけれど、今のこの感じは、それとはまた少し違う。
東堂は赤らんだ頬に気付かれぬよう顔を伏せた。背後の巻島が気づくわけはなく、真夏の午後に自転車で走っている現状頬のほてりなどあって当然なのだが、巻島が好きだとあらためて思うと、照れくさくて仕方がなかった。
登るにつれて道幅は狭まり、勾配は次第にきつくなった。五、六分登ったところで、三叉路が現れた。振り返ると、巻島が左を指差していたので、東堂はそちらへ進路を取る。あと三分、というふうに巻島が指をたてて見せた。
道は古く、ところどころアスファルトが剥げかけて、そこから草が伸びている。ガードレールの向こう側にまばらに生えている低木の間からのぞき見れば、家々の屋根が、緑の水田の中に玩具のように並んで見える。
右方向に巻いて登っている道にそってかすかに体重を移動させながら、東堂はスピードを上げた。巻島が左側を進んで、車体を合わせてきた。
東堂の意図は巻島に正確に伝わっていた。残り三分、楽しいサイクリングから一転、勝負に切り替わった。
今は登りたくない、と巻島が言ったのは、ほんの二時間ばかり前のことだった。東堂も偽りなく同じ気持ちだった。
時間は進んでいるのだ。どんどん遠くへ。東堂はインターハイの山でのシーンを再生しなくなっている自分に気付き、心も体もふわっと浮き立つ感覚に一瞬手足から力が抜けた。その空隙を鋭くついて、巻島が前に出る。
「いかせんよ巻ちゃん!」
東堂は体を低く前傾させ、巻島のラインの僅か内を狙う。巻島は体を張ってそれを阻止し、独特のダンシングで一気に突き放そうとした。
東堂も立ち上がった。立ち上がると、自転車が切り裂いた風が耳元で唸り、木々の緑はいくつもの光のように丸く膨らんで形を失った。
残り数十メートルは本気のバトルになった。感情をぶつけ合い、文字通り体もぶつけ合った。肺の痛みが限界に達するまで激しく回した。頂上ではほんの僅か巻島が前にいた。悔しかった。またこうして悔しいと思えることが、泣きたいほど嬉しかった。
頂上には展望台を兼ねた古い貯水タンクがあったが、眼下に特筆すべき眺望もなく、大分寂れた印象だった。しかし一応公園になっていて、ざらついたコンクリートで固められた水飲み場もある。二人は顔を洗い、水を飲んだ。燃えるように熱かった体から、少しずつ熱が引いていく。
「誰もいないな」
芝生の中に点在するベンチにも、それらを繋ぐ小道にも、誰もいない。
「たまに人に会うとびっくりするような場所っショ」
笑ってそう言い、Tシャツの裾をぱたつかせて風を入れながら、巻島はひとり道を渡ってガードレールに近づいていった。向こう側の草地はゆるい崖になっていて、なかなか見晴らしがいい。
巻島の長い髪が風に踊っている。頬にかかった髪を払い、前髪ごと額を押さえて、穏やかな目で景色に見入っている。
「いい景色だな!」
東堂が言うと振り返って、唇の片端を少しだけ上げてみせる。
「これだから山はやめられねえよなァ……」
すっきり伸びた背中の向こうに、夏の乾いた空がある。じっと見ていると視界が霞んできて、まるで思い出の中にある景色を懐かしむような、そんな感覚がふわりと東堂を包み込んだ。
東堂はそこに、不確定な未来の孤独を垣間見ていた。一人で立つ巻島の隣に自分がいないという未来だ。離れたところから見ていることしか出来ないという想像は、胸の中に激しい動揺を招いた。
急激な感情の突き上げに鼻の奥がつんと痛んだ。閉じようとするほどに唇はわななき、視界がみるみるぼやけはじめる。
(胸が苦しい。巻ちゃん、おれは……)
斜めに振り向いた巻島が驚いた顔で見ている。少し慌てたように目を見開き、両手を腰の辺りにあててごしごしと擦っている。
「おま……、何泣いてるっショ」
巻島を見つめる東堂の目からは大粒の涙がポロポロと溢れていた。巻島は近づきかけて止まり、俯いて髪に手をやると、困ったようにぽりぽりと掻いた。そんな仕草さえどうにも拙く、かわいらしく映る。涙のフィルターだけのせいではない。東堂はしかたがない、というふうに少し笑った。
「巻ちゃんにあえてよかった」
巻島は呆然としていたが、気を取り直したように、また皮肉っぽく口許をゆがめて、ゆらりと体を傾けた。
「東堂ォおまえ……目にゴミ、とかショ?クハハ」
そんなふうに下手な芝居でごまかそうとするのも優しさだとわかるから、東堂の涙はますます止まらなくなった。諦めて、目を開けたまま流れるに任せた。
「すきだからだ」
そう言って、東堂はぐいと引っ張るように目許を拭った。言葉にすると経験したことのない悲しみが体の深いところからわきあがってきた。東堂はぎゅっと目を閉じた。涙がぽたぽたと足元に落ちる。
「巻ちゃんがすきで、し、失恋だからだ」
巻島はぽかんと口をあけている。それからパチパチと瞬いて眉をひそめ、次第に東堂の言葉が飲み込めてきたのか、そっと口許を手で覆った。
「な、何言ってるショ……」
「巻ちゃん、おれは」
巻島の顔が見られなかった。東堂は俯き、その場に縫いとめられたように立ち竦んだ。
ざ、と巻島の歩き出す足音がして、俯いた東堂の視界にゆっくりと影が侵入してきた。鼓動がはやまり、ひやりと冷たいものが背筋を駆けあがる。東堂はごくりと喉を鳴らし、顔を上げた。
「巻ちゃ……」
巻島は困っていた。明らかにとても困っていたので、東堂はむりやり笑い顔を作った。巻島を笑えないほど下手くそな作り笑いは、泣き笑いの最もひどいものに成り果て、もはや収拾がつかない。
巻島は唇を引き結び、眉根を強くよせ、困惑を通り越して、すでに怒っているようにも見える。東堂はなんとかわかってもらいたかった。わかってもらおうと、言葉を探した。
「オレはこれからもずっと、巻ちゃんと走りたい。巻ちゃんと走れなくなるのは寂しくてならん。だから…、」
だから、そんな頬まで赤くして怒らなくてもいいじゃないか。失恋だって、言ってるじゃないか。告白くらい聞いてくれたっていいのじゃないか巻ちゃん―――……
そのすべてを伝える前に東堂は黙った。巻島の表情を見た瞬間から何かが頭の中で点滅していた。
巻島は困っている。それは確かだ。だが困惑の方向が何か違いはしないか。苛立たしげに歪む口許や眇められた目は、ただ困っている以上の何かを含んではいないか。頬に差した赤みは、日に当たり過ぎたというようなものじゃない。
東堂はこういう時の表情についてはよく知っていた。伊達に校内にファンクラブなど、持ってはいない。
「まき、ちゃん?」
「誰が失恋だ?」
「巻ちゃん……」
巻ちゃん。巻ちゃん。……巻ちゃん!
東堂は歓喜のままに心のうちで叫んでいた。たしかに今、巻島は言った。俯いて、小さくか細い声で。風がちぎって運び去ってしまいそうなほどの、まるで届かないことを期待しているかのような声で。
――― 失恋とは限らない、ショ。