夕立つ八月 7

 瞼のすきまからうっすらと差し込んで来た白い光に誘われ、目を開いてみると、見えたものは胡座をかいたままの自分の足と、見なれない模様のクッションだった。
 ゆっくりと首を上げると、いつもと違う景色が視界に広がった。ゾロは瞬時に覚醒した。脳裏に昨夜の記憶が鮮明に浮かび上がる。
 ここはビビが一人で暮らしている部屋だ。結局そのまま夜を明かしてしまった。ビビはベッドでうつ伏せの姿勢で眠っている。苦しくないのだろうかと思いながら、ゾロはぼんやりとビビを見つめた。ゆっくりと上下する背中を見ていれば、寝息は穏やかなのだとわかった。ほっと溜息をつき、重い瞼がふさがるのにまかせて目を閉じた。窓の外は、まだ日の昇りきらない朝の静寂の中、じわじわと気温の上がる気配だけがしていた。頭の片隅だけ覚醒したつもりでいて、しかし体は眠ったままで、記憶の最後にあるのは、五時半あたりをしめした時計の針だ。
 ビビは案の定タクシーの中で気分が悪くなり、降りてからはゾロが抱えて部屋に運ばねばならなかった。鍵を開けると同時にビビはそのままトイレにかけ込み、うずくまった。苦しそうにえづくのをゾロは後ろから見ながら、そろりと背に手を這わせ、ゆっくりとさする。
「す、すいませ…ゾロさん…」
「いいから、吐いちまえ、すっきりするから」
 少し落ちついたかと思うとまた、という状況がしばらく続き、ゾロは帰るに帰れず、ビビが寝つくまでずっと傍らについていなければならなかった。ビビはすまながって、何度も、もう平気だ、と言ったが、真っ青な顔でふるえながらそんな事を言われて、それじゃあと帰れるものではない。
 やっとビビの状態が落ち着いてきた頃、一度電話が鳴った。サンジかと思って、思った瞬間、胸がずきんと痛んだ。けれど相手はナミで、ビビのそこまでの状態を告げ、大分落ちついたと言うと、安心した様に溜息をつき、あんたがついてってくれて良かったわ、と言った。サンジのことは何も言わなかった。おそらく、連絡をとっていると思っていたに違いない。
 ずっと、ゾロはサンジからの電話を待っていた。なのに結局朝まで携帯が鳴る事はなく、そのうちにうつらうつらとまどろみながら時に深く眠った。眠る前にも、「帰り方がわからないな」と頭の隅で思った。なのに、電話はやはり出来なかったのだ。
 次に目を覚ました時には太陽は中天を過ぎ、午後の日差しが部屋いっぱいに差し込んでいた。ゾロは慌てて跳ね起きる。
 部屋はエアコンが室温を丁度良く保ち、寒すぎもしない。薄目をあけてまわりをきょろきょろと見まわす。
(……本気で寝ちまった…)
 しかも、クッションを枕にしてすっかり横になって、丁寧に上掛けまでかけている。ビビが起きてかけたものだろう。ゾロは決まりの悪さに顔を顰めながらゆっくりと体を起こした。
 人の気配がしない。
 不思議に思って部屋を見まわすと、テーブルの上に小さなメモがあるのを見つけた。

『夕べはすみませんでした。バイトの時間なので出かけます。冷蔵庫に朝食を用意してありますので召し上がってください。鍵はドアポストにお願いします。ビビ』

 腹が減っていると思ったら午後二時を大きくまわっていた。いくらなんでも寝過ぎだ。ゾロは上掛けをたたんで部屋の隅に置くと、冷蔵庫をあけて見た。20センチのプレートにサンドイッチとサラダが盛られている。隣に置かれているパックのジュースと合わせてありがたくいただくことにし、取り出してテーブルに置いた。
 食べながら、携帯の履歴を見るが、電話は入っていなかった。腹にため込んだ戸惑いが呼吸になって漏れ出す。
 ……ここ、どのへんだ?
 口をもぐもぐと動かしながら窓の外を眺めたが、見知った風景は見当らない。
 部屋の鍵は、昨夜ゾロが開けたので、手元に持っている。今すぐ出て行くことに関しては問題はないのだが、ここがどこだかわからないのでは帰りようがない。ゾロは思案にくれた。
 考えたって、選択肢がそうあるわけではない。結局出した結論は、サンジかナミに電話をすることだ。
 ナミは、バイトは休みだったはずだ。もしかしたら家にいるかもしれない。けれど、理由を訊かれて散々小言を言われて、その上間違いなくビビと二人分奢らされるのが目に見えていて、さすがに気が進まない。
 となると、残るはサンジしかない。サンジも今日は休みで家にいるはずだから、部屋を出て町名を探して伝えればだいたい見当をつけてくるだろう。
 しかし、言いにくいといったら一番はサンジだ。どうやって言い訳しようか。あの男の場合、言い訳を聞かせられる状態に持って行くまでが骨だ。第一、言い訳をしなければならないなどと考えること自体ゾロは嫌だったし、それを思うと面倒で仕方がない。昨夜電話できなかったのも、ゾロがそれを億劫がったせいだ。ゆうべのサンジの様子や、二人のやり取りが刺々しい雰囲気だったことも、もちろん作用していたが。
(やっぱり電話しておけばよかった)
 意地になって、出来なかったのはゾロなのだ。さすがに今度は重い溜息が出た。
 食べおわるとトレイをシンクに置き、エアコンを消して、そっとドアの外に出た。夏の午後の日差しは起き抜けの目に痛い。
 ドアをあけると遠くで軽快なエンジン音が聞こえた。階段を降りたところでちょうど郵便配達のバイクに出くわし、渡りに船とゾロは近寄って声をかけ、現在地と駅への道を配達員に尋ねた。次の角を左に折れて一本隣の大きな通りに出ると、あとは右に真っ直ぐだと教わった。
 真夏の太陽が背後から背中を焼き、汗が滴る。空気はねっとりと肌に纏わりついて離れていかない。風がないのだ、と気付き、ゾロは太陽を見上げた。
 空は褪せた水色がくすんで見え、あまり透明感がない。それだからこんなに暑いのだ、まるで蓋をされているみたいだ、と思う。汗が額から流れて顎を伝った。ゾロはそのまま流れるにまかせて歩いた。
 駅に近づくにつれて周囲の景色も見覚えのあるものに変わってきた。すると、途端に体が重く感じられてきて、ゾロは我ながら現金なことだと思う。たっぷり眠ったはずだが、家で眠るのとはやはり違うのかもしれない。眠けが眼の奥をじんわりと刺激する。
 駅前のロータリーの向こう側に、アーケードの入り口が見えてきた。ゾロのバイト先は、そのアーケードを少し入ったところにあった。休みの日に顔を出す事はあまりしないが、なんとなく足が向いた。
 店に入ってすぐのところが、第一カウンターだ。小型のオーディオ機器や、録音媒体などを主に取扱っている。
 ゾロが入っていくと、バイトや社員数人が「よう」という目をして見た。中のひとりが「てめえ、昨日はうまいことやりやがって」などと揶揄してきたが、昨夜のビビの様子を知っているゾロはそれに応じる気にはなれず、曖昧に受け流し、笑って片手を上げると、二階の貴金属売り場に向かった。
 ナミは休みだった。客は少なく、そう忙しくもなさそうだ。社員の幾人かは接客のかたわらディスプレイの変更などをしている。
 所々に配置された中間色のライトがガラスのショーケースを照らし、内側の宝石類がいっそう光輝いて見える。一階の家電関係の売り場とはやはり雰囲気が異なっていて、ゾロは実は、このフロアが苦手だ。
 ビビの姿を探すと、ちょうど国産の腕時計をショーケースから出して、客に見せているところだった。ゾロに気付き、顔をあげてにっこりと笑った。顔色もすっかり戻って、体調も悪くなさそうだ。
 結局商品を買わずに去った客に頭を下げて、ビビは裏の階段付近に立っていたゾロのところへやってきた。
「昨日はありがとうございました」
 そう言って丁寧に頭を下げる。
「いや、俺のほうこそ、すっかり寝ちまった。いろいろ悪かったな」
 そう言って頭をかくと、ビビは愉快そうにふふふと笑う。ゾロは軽く片眉を上げた。
「ナミに余計なこというんじゃねえぞ」
「あら、なんですか?余計なことって」
 どうもよくない影響を受けてきているような気がする、と思って、ゾロは口元をへの字に曲げる。
「平気か?残ってねえか?酒は」
 なんとなく決まりが悪く感じられ、気を取りなおすようにそう言うと、ビビは「ええ」と言ってにっこりと微笑む。
「大丈夫です。でもあんなになったのは初めてで…」
「まあ、体質ってもんがあるからな」
「でも頑張って、きっと先輩やナミさんについていけるようになりますから」
 ゾロはその言葉に目を見開き、ぱちぱちと瞬いた。それを見たビビはまたくすくすと笑った。それから軽く二言三言交すと、フロアに戻っていった。
 しばらく店内を冷やかしていると、ウソップがゾロが来ている事を聞きつけてやってきた。あまり寝ていないらしく、眼の下がくすんでいた。月曜に休みを入れているなんて卑怯だとかなんとか文句を言ってきたが、新人バイトに何か聞かれては走りまわっていて、話をするどころではない。
「忙しそうだし、行くわ。おつかれ」
「おう、またなー」
 背を向けたまま、声に手を振って店外に出ると、すぐに冷房で冷えた皮膚に熱気がまとわりついてくる。ゾロはあまりの湿気に顔をしかめ、気だるげに薄目をあけて前方を見た。
アーケードの屋根が切れたあたりは、そろそろ暮色の混じり始めた太陽光線が幾何学模様のタイルに弾かれて、地面は白く霞んでいる。上空の鮮明な青の下でちりぢりになった雲はグレーを帯びて、ゆるゆるとその領域を侵していくようだった。
 どうせ家にいるに決まっている。
 そう思ったら、少し迷いながらも、今度はサンジの家へと足が向いた。
 わだかまりはまだ胸にあった。けれど、このままでいいとも思わなかった。何か言いたいことがあるのなら聞こうと、ゾロはそう思っただけだった。だからなるべくゆっくりと、歩いた。止まってしまわない程度の速度で。
 なのに、あと少しでサンジの家だという所まで来て、前方から見知った女が歩いてきたのを見、そんな気持ちは一瞬で消し飛んだ。
 女はゾロを見つけると嬉しそうに駆け寄ってきた。ひとしきり昨夜のことなどを話し、ビビの事を少しだけ気にかけ、顛末を聞きたがった。かいつまんで話してやると安心した様に笑った。そして、ゾロが訊いてもいないのに「サンジの家に泊まった」と言った。嬉しそうに笑って、ゾロにそう言ったのだ。
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