夕立つ八月 10

 道路はほぼ乾ききり、僅かに、道端の部分だけが黒く色を残している。
 ゾロは、雨の中走った道を、今度はゆっくりと歩いて戻る。その姿は何かを確認する作業のように、ひどく神経を張り詰めているように見えた。背中の伸び方や、少し前に垂れた首や、足元を見つめる目などがそうだ。
 サンジに会ったらなんと言おう。
 ゾロはそればかり考えながら歩いている。青く降りかかる夜の帳の影で瞬き始めている星にも気付かぬほど、そればかりをだ。
それから少しして、ゾロは駆け出した。頭の中にひらめいては消えるいくつかの言葉を追いかけるように、雨の匂いがわずかに残る街の中を、サンジの家に向かってひた走る。汗は湿った空気と混ざりあって瞬時に冷えて肌を濡らし、服がまとわりついて不快だった。にもかかわらず、ゾロの気分は高揚していた。
もう少しでサンジの家だ。駅前を通り過ぎ、横断歩道を渡って細い路地に入って真っ直ぐ、コンビニの角を折れて。そう思っているところに突然、それは視界に飛び込んできた。
 夕暮れの喧騒に包まれ、宵闇が東から迫り来る中、通りを行き交う人波の中に、ゾロはそれを見出した。
 金の髪、項垂れて、駅の方に足を向けては戻り、顔をあげては溜息をつき、また下を向く。ゾロはその姿に例え様もないほどの愛おしさを感じた。眼の縁で感情が揺らいだ。こんな気持ちは初めてだった。足を止めて、息を整えながらゆっくりと近づいていく。
 周囲の景色はスローモーションで、人の波も、喧騒も、別の世界のものの様にぼやけていた。ゾロはそれらをかきわけて、唯一鮮明なその金の髪を見つめつづけた。
 あと二メートル程の隔たりを残して、金の髪はゾロの正面を向いた。目を見開き、歓喜と困惑を表情に湛え、唇を震わせた。お互いの最後の一歩で、距離は消滅する。
 ぶつかるように引き寄せあった。お互いの背を掴んで、Tシャツは捩れて伸びた。往来のど真ん中である事など、当然頭から吹っ飛んでいた。
「ごめん!ごめんゾロ、俺…!」
 サンジはゾロの肩に顔を埋めて、掠れた声で必死に叫んでいた。
「あ、あやまる。いくらだって、なんだって謝るから、俺のとこに戻ってきて。俺といて。お願いだ」
 ああ、これだ。ゾロは目を伏せてじっとその言葉を聞いた。この男のこういうところが理解できなかった。そして、自分が同じような姿を晒す事を、晒しているかも知れないという事を、心のどこかで恐れてもいた。今更何を守ろうとしていたのだろう。そのせいで、本当に大事なものを失うところだったというのに。
 人の視線も、足音も声も、何も気にならなかった。平均以上の体格の男同士が人目も憚らず抱き合う姿など、見物するよりも見て見ぬふりをすべき類の滑稽さであることだろう。せいぜい今夜の食卓の話題にでもするが良い。こっちはそれどころじゃないんだ。自分達を興味深そうに横目に見て通り過ぎていく中年の主婦にそう胸の中で応え、ゾロは大きく息を吸い込んだ。
「好きだ」
 首を傾けて左手でサンジの髪をひと撫でし、耳元に唇を寄せて、はっきりとした口調で言った。サンジは黙り、背中にまわした腕からやわらかく力を抜く。
「好きだ」
 もう一度そう言うと、サンジの肩が震え出すのがわかった。顎の下にかすかに感じるそれに、ゾロはなぜか悲しみを誘発された。けれど、それを感じるそばから、腕の中にある熱がそれを吸いとってゆくのだ。ゾロの中から出、サンジの中を通って、再びゾロの中へと、感情が循環していく。
 サンジの手がゾロの首の後ろをゆっくりと撫で上げる。ゾロは目を伏せた。肩に伏せた顔の下から、啜り上げるような音が聞こえる。引き剥がして顔を見ようとしたら、「見んなバカ」と、余計にしがみついた。その声がとても差し迫っていて、ゾロはおかしくて声を出さずに笑った。
「サンジ」
 背中を軽く上下に、あやすようにさすった。この声だけでわかるだろう、今、自分がどんな気持ちでいるかくらいは。サンジはいよいよ感極まって、へなへなとゾロに体重を預けてきた。そして肩のあたりをぎゅっと掴んで、しがみつく。頬を唇がかすめた。
 確かめる様に触れながらサンジは小さくゾロの名前を呟いて、ふさがった胸を広げる様に背を伸ばし、大きく息を吸って吐き出した。いままで味わった中で最高の幸福感だった。
 それからゆっくりと体を離し、ゾロの左手に右手を絡ませ、歩き出す。
「帰ろ」
 どこへ、などと、もう聞くつもりはなかった。ゾロは自分に向けてくすりと笑い、左肩で軽く、寄りかかるようにサンジを押した。サンジも笑いながら反動で押し返してきて、そのままゾロに持たれかかった。目の縁ににたまった涙が街灯を反射して光る。
「泣くな、てめえはあれくらいで。恥ずかしいやつだ」
「うるせえよ。俺は今最高に幸せなんだ。気分を壊すようなことを言うな」
 錯覚でもいい。体をつないでいるときよりももっと、ゾロを近くに感じた。心が寄りそうとはこういう感じをいうのだと思った。その幸福を少しでも長く味わいたくて、サンジは家ヘの道を真っ直ぐたどらず、少し遠回りに歩いた。ゾロは当然わからないから文句も言わない。
「キスしてえ」
 呟くと、ゾロが隣で息だけで笑った。同意だと踏んで、丁度人の波が途切れたところ、アーケード街より一本脇の小さな路地に入り、一秒後にサンジはそれを実行した。
 軽く合わせ、溜息とともに離れると、ゾロが笑って、また「好きだ」と言った。そして、そのまま強く目を瞑る。サンジはそのままゾロを力いっぱい抱きしめた。ゾロは背中を震わせて、小さく嗚咽を漏らした。
 ようやく、ゾロの本当の気持ちをもらえた、とサンジは思った。ゾロが自分で何もかもわかって、それをくれると言っているのだと理解した。そう思ったらまた泣けてきて、何て情けない図だ、と思いながら、ゾロの肩に顔を押し付けて泣いた。黒いひとつの影になって、気のすむまで二人で、そこにそうしていた。
 濁った空気や、凝った熱や、埃や何かをすべて洗い流して、夕立は去った。白く静かな月光が、八月の夜空から降り注いでいた。
 夏はまだ、始まったばかりだ。
2002.9.29発行「サードニクス」収録(文庫版/2004.5.2)
[TOP]