夕立つ八月 4
土曜日、サンジはシフトに入っていなかった。そのまま話もせずに、日曜日のバイトで顔を合わせた。挨拶はしたが、忙しさに紛れて、これといって言葉をかわす機会も無く、やがて閉店時間がやってくる。
この日の新人バイトの歓迎会には、ほとんどのアルバイトが参加することになっていた。社員もほぼ全員参加で、かなり多人数での飲み会だ。店は貸切で予約を入れていて、こういう事の仕切りはウソップがやっていることが多い。今回もそうだ。
仕入れ便が無いので、アルバイト達は閉店と同時に帰り支度をして、予約済みの店へと向かう。五階の休憩室に上がったゾロはサンジの姿を探したが見当らなかった。近くにいたバイトに訊ねると、もう行ったはずだと言う。
避けられているのかと、ぼんやりとながら意識したのはそのときだ。けれどゾロには、何が原因でそんな事になったのか全く見当がつかない。
一緒に行こうなどとあえて言っていなかったが、バイトが終われば相手が上がって来るのを待つのが、今では習慣のようになっていた。そうして肩を並べて帰るのが、だ。ゾロは胸に薄ら寒いものを感じた。ひやりと冷たいそれは、何か焦燥に近いものだ。
「ゾロ?何してんの、行きましょうよ」
ナミが背後から声をかけた。ゾロは振りかえってナミのオレンジ色の髪を見下ろしてふう、と溜息をついた。
「ああ」
何か先に行く用があったのかもしれないし、新人の女のバイトあたりが行こうと誘ったのかもしれない。それは、いかにもありそうなことに思えた。
店につくと案の定サンジのまわりには新人の女が何人か座ってすでに話し込んでいた。ゾロの顔を見てサンジが軽く手を上げたので、ゾロもそれに応え、ナミと端の席に腰をおろした。
「あーあ、サンジくんたら。いいの?ゾロ。随分寛大なのねえ」
「知るかよ」
「またそんなふうに。後悔するのはあんたよ?」
ナミはそう言って、まったくサンジくんもサンジくんよと憤慨して見せた。ナミのまっすぐな気性が羨ましく、愛しく、ゾロの口元には思わず笑みが漏れる。それを目敏く見つけたナミはまた、笑い事じゃないのよ、といってゾロを嗜める。
取られる、という言葉を心の中で唱えてみると、少しだけ胸が痛かった。けれど、だからといって、あの中に割って入ることなど考えられない。所詮、自分とサンジの間柄とはそういうものなのだ。表立って、お互いを独占しきることなど、出来るはずが無い。
サンジの腕に、隣の女が手を置いた。サンジがそれに笑いかける。
まだ始まってもいないのに、結構なことだ。
皮肉っぽい気分になっているのは否めない。これが嫉妬だといわれれば、そうなのかもしれない。あまり認めたくないたぐいの感情だが、仕方がない。
ゾロは無言で、そんなサンジの様子を見るでもなく、視界の端に留めていた。
**
雲は、急速に乾き始めたアスファルトに黒い影を落としながら、ゆっくりと流れる。沈みゆく夕陽が千切れて小さくなった雲の裂け目から色を滲ませ、西の空は水色が透きとおって、赤く染まっていた。
サンジは立ち止まってそれをゆっくりと見上げる。眼の縁が照らされてチリチリと痛んだ。空があんまり大きくて、眺めていると頭の中が空っぽになっていく感じがする。
足は自然にナミの家に向いた。ゾロがいるだろうと思ってのことだ。
謝ったら、ゾロは許してくれるだろうか。けれどいったい、何を謝ればいいんだろう。ゾロは自分が傷ついたということを認めているだろうか。そういう自覚のない男だから、厄介だ。
街路樹の青葉にたまった雫が、夕陽を反射してオレンジに光る。近寄って指を伸ばせばそれはただの透明な水だ。通りすぎ際、サンジの肩が触れ、ぱしんとそれを弾いた。跳ねかえった水が顔を濡らす。ひりついた目元が冷えて気持ちがよかった。
日曜日の飲み会の事を思い出すと、やはり自分が悪かったという気持ちが頭をもたげて、また胸の中がむかむかしてくる。
ゾロの視線を感じながら、もっと見て欲しくて、女の子達と大袈裟に騒いでみせた。その中にはゾロと同じカウンターに入った新人も二人いて、なんだこいつらはゾロ狙いじゃなくって俺狙いかよ、などと思って悦に入ったりもした。
ナミの視線は少々痛かった。自分がバカなことをして喜んでいるという自覚も当然あった。それでも、どんな微弱な波動であっても、ゾロが送ってくる明かな嫉妬の感情が嬉しくてならなかった。
そうしているうちに、彼女がやってきた。ナミが呼んで、ゾロを挟んで反対側に腰を下した。やがてウソップが乾杯の音頭を取って、それから。
サンジは思い出して下唇を噛む。前方を見れば、曲がり角が近づいていた。そこを曲がればじきにナミの家が見えてくる。サンジ足を止めて立ち尽くした。これ以上進む勇気が出なかった。
この日の新人バイトの歓迎会には、ほとんどのアルバイトが参加することになっていた。社員もほぼ全員参加で、かなり多人数での飲み会だ。店は貸切で予約を入れていて、こういう事の仕切りはウソップがやっていることが多い。今回もそうだ。
仕入れ便が無いので、アルバイト達は閉店と同時に帰り支度をして、予約済みの店へと向かう。五階の休憩室に上がったゾロはサンジの姿を探したが見当らなかった。近くにいたバイトに訊ねると、もう行ったはずだと言う。
避けられているのかと、ぼんやりとながら意識したのはそのときだ。けれどゾロには、何が原因でそんな事になったのか全く見当がつかない。
一緒に行こうなどとあえて言っていなかったが、バイトが終われば相手が上がって来るのを待つのが、今では習慣のようになっていた。そうして肩を並べて帰るのが、だ。ゾロは胸に薄ら寒いものを感じた。ひやりと冷たいそれは、何か焦燥に近いものだ。
「ゾロ?何してんの、行きましょうよ」
ナミが背後から声をかけた。ゾロは振りかえってナミのオレンジ色の髪を見下ろしてふう、と溜息をついた。
「ああ」
何か先に行く用があったのかもしれないし、新人の女のバイトあたりが行こうと誘ったのかもしれない。それは、いかにもありそうなことに思えた。
店につくと案の定サンジのまわりには新人の女が何人か座ってすでに話し込んでいた。ゾロの顔を見てサンジが軽く手を上げたので、ゾロもそれに応え、ナミと端の席に腰をおろした。
「あーあ、サンジくんたら。いいの?ゾロ。随分寛大なのねえ」
「知るかよ」
「またそんなふうに。後悔するのはあんたよ?」
ナミはそう言って、まったくサンジくんもサンジくんよと憤慨して見せた。ナミのまっすぐな気性が羨ましく、愛しく、ゾロの口元には思わず笑みが漏れる。それを目敏く見つけたナミはまた、笑い事じゃないのよ、といってゾロを嗜める。
取られる、という言葉を心の中で唱えてみると、少しだけ胸が痛かった。けれど、だからといって、あの中に割って入ることなど考えられない。所詮、自分とサンジの間柄とはそういうものなのだ。表立って、お互いを独占しきることなど、出来るはずが無い。
サンジの腕に、隣の女が手を置いた。サンジがそれに笑いかける。
まだ始まってもいないのに、結構なことだ。
皮肉っぽい気分になっているのは否めない。これが嫉妬だといわれれば、そうなのかもしれない。あまり認めたくないたぐいの感情だが、仕方がない。
ゾロは無言で、そんなサンジの様子を見るでもなく、視界の端に留めていた。
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雲は、急速に乾き始めたアスファルトに黒い影を落としながら、ゆっくりと流れる。沈みゆく夕陽が千切れて小さくなった雲の裂け目から色を滲ませ、西の空は水色が透きとおって、赤く染まっていた。
サンジは立ち止まってそれをゆっくりと見上げる。眼の縁が照らされてチリチリと痛んだ。空があんまり大きくて、眺めていると頭の中が空っぽになっていく感じがする。
足は自然にナミの家に向いた。ゾロがいるだろうと思ってのことだ。
謝ったら、ゾロは許してくれるだろうか。けれどいったい、何を謝ればいいんだろう。ゾロは自分が傷ついたということを認めているだろうか。そういう自覚のない男だから、厄介だ。
街路樹の青葉にたまった雫が、夕陽を反射してオレンジに光る。近寄って指を伸ばせばそれはただの透明な水だ。通りすぎ際、サンジの肩が触れ、ぱしんとそれを弾いた。跳ねかえった水が顔を濡らす。ひりついた目元が冷えて気持ちがよかった。
日曜日の飲み会の事を思い出すと、やはり自分が悪かったという気持ちが頭をもたげて、また胸の中がむかむかしてくる。
ゾロの視線を感じながら、もっと見て欲しくて、女の子達と大袈裟に騒いでみせた。その中にはゾロと同じカウンターに入った新人も二人いて、なんだこいつらはゾロ狙いじゃなくって俺狙いかよ、などと思って悦に入ったりもした。
ナミの視線は少々痛かった。自分がバカなことをして喜んでいるという自覚も当然あった。それでも、どんな微弱な波動であっても、ゾロが送ってくる明かな嫉妬の感情が嬉しくてならなかった。
そうしているうちに、彼女がやってきた。ナミが呼んで、ゾロを挟んで反対側に腰を下した。やがてウソップが乾杯の音頭を取って、それから。
サンジは思い出して下唇を噛む。前方を見れば、曲がり角が近づいていた。そこを曲がればじきにナミの家が見えてくる。サンジ足を止めて立ち尽くした。これ以上進む勇気が出なかった。