音のない夢 6
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後片付けまで終えて店を後にする同僚を見送ったあと、俺は煙草に火をつけながらテーブルのひとつに近づき、椅子に座った。尻だけ引っ掛けるような格好で背もたれに頭を預ける。慌しい一日を終えて至福の一服。いつもならばそうだが、今日は少し違う。重苦しい鳩尾あたりに手をやってさする。吐き出す煙に溜息が混ざる。
帰りたくなかった。きっと家は暗い。ゾロはいないだろう。わかっているから足が動かない。事実を確かめるのがそんなに怖いか。そんなふうに考える自分にもうんざりする。
「あがらないのか?」
オーナーが戸締りをしながらフロアにやって来た。俺が仕事後の一服を楽しみにしてる事を知ってるから、何も言わない。
「今日の魚料理、良かったな。北の味のアレンジだった」
「ああ、良い鮭があったし」
ゾロも俺も好きな料理だ。煮鮭をクリームソースで和えるだけの簡単なものだが、飽きずにいくらでも食える。それにちょっと手を加えた。ジジイも好きだった。もともとジジイに教わった料理だ。
「なあ」
オーナーが俺の前の席に腰を下ろした。珍しいな、と思いながら体を起こし、深く腰掛け直して正面を向いた。
「その…お前さえよければ、なんだが」
言い難そうに口許を押さえ、ぽりぽりとこめかみを掻く。普段はあまり見せない姿だ。
「はあ」
「俺の娘を嫁にしないか?」
「あー……はあ?」
まぬけな声が出た。
「お前より年はふたつばかり上だが器量は悪くないぞ。親の俺が言うのもなんだが中々のもんだ。娘と結婚して、お前、この店をやってみねえか?」
まだ働き始めてひと月にもならない俺に言う事だろうか。腕を買ってくれてるってことはわかるが、それにしたってとんでもない申し出だ。胸がドキドキして一気に体温が上がった感じだった。
「え、いや…えっと」
「もちろん返事は急がないよ。ゆっくり考えてくれればいい。だがお前、いつまでも旅を続けるつもりはないだろう?料理人ならいつか、どこかで腰を据えてじっくり腕を磨きたいだろう?ここの港は大都市のそれに比べればこぢんまりとしているが、世界中の船が集まる拠点だ。欲しいと思えばなんだって手に入るから珍しい食材には事欠かない」
たしかにそうだ。俺はここに来て初めて目にするものがいっぱいあったし、どう料理しようかとわくわく出来る素材は山のようにあった。
「人も世界中から集まる。各国のいろんな味を知ってる舌の肥えた連中も大勢いる。いつかお前の料理を求めてここに集まってくる連中の顔が、そういうやつでこの店がいっぱいになっている所が、俺は最近目に浮かぶんだよ」
ああ。どうしようジジイ。俺は久しぶりにこんなふうに人から求められて、その願いをかなえたい気持ちでいっぱいになった。ゾロに話したい。ゾロはきっと喜んでくれる。そう思ったとき、別の感情が胸の中にぶわっとせりあがってきて、俺の涙腺を刺激した。だめだ。俺は咄嗟に煙草を咥えて俯き、大きく吸って、吐いた。
「ありがとう…ございます」
オーナーの顔は見られなかったが、きっと満足そうに頷いているだろう。
「返事は待ってください。とりあえず、一応考えてみるんで…」
「わかってる。俺の希望はさっき言ったとおりだが、それに気を遣う必要はないからな」
有難い言葉に、俺は黙って頭を下げた。
もしもこのままゾロが帰ってこないようなことがあったら、そういう生き方もあるような気がした。結婚して店を構えて、料理をして、人に食わせて。
もし帰ってこなかったら。想像すると指先が冷たくなっていく感じだ。
ゾロの気持ちについて考えてみたけれど、よくわからなかった。ただ、俺自身の気持ちについては良くわかっていた。何が大事か。何が必要か。問題はその気持ちの持って行き場が、今のところどこにもないって事だ。
ゾロの顔が見たかった。真っ暗な部屋、ひとりのベッドで、俺は情けないことに涙した。淋しかった。こんなふうに泣くのは、初めて女の人に触れた、あの夜以来だ。あの時、ゾロはそばにいた。何も聞かず、ただそこにいてくれた。
□
その街にいる間は、どことなくゾロとギクシャクしていた。でも俺はそんな事よりも、初めて通じ合える恋人を持てたことで心身ともに浮かれまくっていて、それに夢中だったんだ。
だから、裏町あたりで喧嘩を買って金を得ていたゾロが、もっと危ないところに足を踏み入れていることになんか、全然気付いていなかった。
聞いた話だが、そこは賞金稼ぎと賞金首がお互いを餌にしているみたいな店だったらしい。賞金稼ぎは相手を倒せば賞金が得られるが、逆に恨みを買っていて複数の賞金首の餌食になっちまうような事もある。そういうえげつない場所だ。
なんだってそんな所へ出入りするようになったのか、理由を聞いても、ゾロは腕試しの為だとしか言わなかった。だからきっとそうなんだろう。とにかくそこは、超一流と呼ばれる奴はいなくてもそこそこ腕のたつのが集まっていて、そういう相手には不足しなかったようだ。
相手が賞金稼ぎなら、年の若いゾロをからかいつつ、その腕前に舌を巻き、もしかしたら若い芽を摘もうとしたかもしれない。でもそういうのをこそ、ゾロは楽しんでいたんだ。
負けたら有り金全部渡す、という裏町の暗黙のルールはそこでも当然生きていて、ゾロは相変わらず、うまい具合に稼いでいた。
初めて賞金首を狩ったのもそこでの事だ。賞金は喧嘩で得られる金の比じゃなかった。ゾロは、その時には危ないと思ったそうだ。金の問題じゃないと肝に銘じなければ、何かどす黒いもんに呑まれてしまうと。だからそこでは、自分から喧嘩を売るようなマネはしなかったと言っていた。どうしたって店じゃ一番若くて目立つし、中には頼んでいもいないのに後見役みたいな顔をする奴もいて、こまごました面倒なトラブルには巻きこまれる事も無かったらしい。
だけど、ゾロはそこで、最終的には生死に関わるような大怪我をすることになった。あいつは胸に、一生消えないほどのでかい傷を負った。
女にするみたいに男を相手にする奴がいるんだぜ、と言った時にはドキッとした。変な目で見られることはしょっちゅうだったし、ケツ触られたり薄暗いところに連れ込まれたりなんか何度もあったと笑うので、俺は半泣きになりながら怒った。お願いだからもうそんな所に出入りしないでと言うと、神妙な顔つきになって、わかった、と頷いた。
斬られて、傷を負って死にそうになって、三日目にやっと目を開けてから、さらに三日たった朝の事だ。それから十日くらい経ってゾロが何とか歩けるようになると、すぐに俺達はその街を離れた。ゾロは何度も嫌だ駄目だと言ったけど、聞く耳なんて持たなかった。最後には諦めたように唇をかんで、なぜか、すまない、と謝った。彼女の事を言っているのだと気付いたけど、俺は何も言わなかった。
そんな成り行きがあって、初めて付き合った恋人とは結局それっきりになったわけだが、後悔は全然無かった。
レディ、あの時はごめんね。思い出すといつも切ないような気持ちがこみあげるけれど、彼女との事はとてもあったかい想い出になっている。泣いてくれた。こんな俺のためにと思って、その涙にはさすがに、俺は君のために生きるよって言いそうになったけど、やっぱり言えなかった。隣で健やかな寝息を立てるゾロに安堵の溜息を零しながら、俺は、どうして彼女と生きられないと思うのかを考えた。
今もまだ、それについては考えている途中だ。