音のない夢 2

 町に入れたのは結局昼前くらいだった。緑が増え始め、人の往来が活発になり、石造りの建物がちらほら見える頃には、砂漠の気配は遥か遠のいていた。なんとなくホッとして足取りも軽くなる。白い建物の隙間に作られた通路をどんどん進む。道は軽い下り坂になっている。
 このあたりまで来ると、周囲は人々の生活の匂いに満ちていた。目の前を走りすぎるすりきれて破れた服を着た子供、野良犬、洗濯盥を抱えたちょっと太目の女性、大きな都市でよく見る下町の景色だ。
「潮の匂いがする」
 ゾロがすん、と鼻を鳴らして呟いた。俺も気付いてた。坂の下から吹き上げてくる風に乗って漂う、懐かしいような、胸が痛いようなこの香り。この町の港はきっといい。いい港があれば俺の仕事もあるだろう。俺は俄然気分が良くなり、かたい石畳の坂を上機嫌で下った。ゾロはいつもの調子で、ゆっくりと、わずかに遅れながら隣を歩く。そして、道に沿って少しずつ重なりながら螺旋状に建つ白い建物の群れの向こうに青い海原が見えはじめた頃、腹がへった、とひとこと呟いた。
 高窓から港を見下ろせる部屋に落ち着き、市場で買ったパンとチーズで軽く腹ごしらえをした。部屋は簡素だが清潔だ。窓の下から人々の行き交う賑やかな喧騒が響いてくるが、うるさいということはない。
 部屋にはシャワーと、狭いがバスタブが付いていたので、俺達は順番に砂漠の汚れを落とした。ゾロはさっぱりするとすぐに窓脇のベッドに横になった。きっとすぐに眠って、夜に俺が飯だと声をかけるまで起きないだろう。
「ちょっと出てくる」
 ドアに手をかけて振り返ると、ゾロは片手を曖昧に挙げて了解の意を示し、そのままごろんと寝返りを打って俺に背中を向けた。
 階段を下りるとすぐに酒場だ。カウンターの内側に宿の親父が立っている。背後には前後に開く両扉があり、その奥にある厨房から、夜の仕込みの最中だろうか、いい匂いが漂ってきていた。
 仕事を見つけようと思ったらどこへ行けばいいか、俺は親父に訊ねてみた。親父は浅黒い肌に鼻の下に黒い髭をちょびちょびと生やした気のいい様相をしていて、俺の問いかけに愛想よく笑い返してきた。
「へえ。それだったら港の脇にある紹介所へ行くといい」
 俺はそれだけ聞くと、礼を言って宿を出た。
 港へは宿の前の通りをまっすぐ行けばいいと教わった。賑わう通りの様子を眺めながら散歩気分で教えられた紹介所を目指した。
 港は広くとても活気があった。大型の商船が何艘も繋がれて、さまざまな国の船員たちが入り混じっている。それを目当てに開かれている市場や物売りの商店、屋台。活気ある呼び込みの声。潮の香りを運ぶ風と、青い海原に光を撒き散らす太陽。本当にいい港だ。ゾロもこれを見たらきっと気に入るだろう。
 紹介所はすぐに見つかった。船を下りた人々がそこへ集まって人だかりが出来ていたからだ。この町へは仕事を求めてやってくる人間も多いらしい。近海の重要な拠点となる港らしく、仕事の量も豊富なのだ。
 こんなに人の多い港町なら、俺の仕事は引く手あまたといってよかった。押し寄せる人々でごった返す中、何人かいる係の男にコックのあては無いかと声をかけてみると、使い古された皮の表紙を何冊か抜き出し、パラパラと捲って、すぐに何枚かに書き込むと、その紙切れを破いてよこした。
 俺は一番上に書かれてあった店へと向かってみた。どんな料理を出す店かもわからなかったが、料理が出来るならなんでもかまわなかった。給金については一応考えるが、働き出せばすぐにそこそこ貰えるようになるというのはこれまでの経験からわかっている。物足りなくなれば店を替わればいい。
 場所はすぐにわかった。ドア前は綺麗に掃き清められ、瑞々しい鮮やかなグリーンが効果的に配置されている。赤い木製のドアにはデザインされた真鍮のドアノブ。大きな窓。一見して、なかなかランクの高そうな店だ。港湾労働者が腹を満たすためにやって来る定食屋などではなく、それなりの客が食事の時間を豊かに楽しむためにやってくるような。ちょっとばかり期待が高まる。こういう店に集まる客は舌が肥えていて得てして味にうるさい。だがそれだけやりがいもあることを俺は知っていた。
 店は閉まっていた。今頃の時間帯なら、きっと夜の営業に備えておそらく仕込みの真っ最中だ。俺はドアノブを回した。ドアは内側にあっさり開いた。
 薄暗い店内はそれほど広くはないが、品よくまとまって、綺麗に整っている。石造りの床と壁、赤いテーブルクロス、カウンターの木枠と厨房の仕切り。その向こうで立ち働く男が数人。内のひとりが俺に気付いた。
「なんだ?」
「紹介されてきたんだけど」
 貰った紙をぴらっと前にかざすと、それとは別の男が、ああ、と言って出てきた。四十半ばってとこだろうか。黒いつやつやの髪を綺麗に後ろに撫で付けて、口の周りには無精に近い髭を生やしている。
「あんたコックか?」
「ああ」
「北の人間だな」
「生まれはね」
「珍しいな。国の料理は出来るか?」
「もちろん。逆にこの国の料理はこれから覚えるところなんだが、雇ってもらえると有難い」
 男は黙ってじろじろと俺の顔を見ている。
 確かに俺は北の生まれだと一目でわかるナリをしている。金髪、肌と瞳の色の薄さ、それに体形も。これだけの港町であっても幾分珍しいのかもしれない。男が言葉を発するまで、俺も黙って待った。
「よし、いいだろう。明日から来られるか?」
 男が笑って手を差し出してきた。聞けば店のオーナーだった。
 店にはコックがオーナーを除いて他に二人いた。他にウェイターが三人。店の規模を考えてもちょうどいい。俺は笑ってその手を取った。
「よろしく」



 宿に戻る頃にはもう暗くなり始めていた。簡単に説明を聞いて厨房に入れてもらい、フライパンひとつで出来るちょっとした料理を作らせて貰ってから、俺はレストランを後にした。
 オーナーは様々な国を旅していて、俺達の国ではなかったが北の方にも行った事があるらしい。俺の料理を一口食べて、懐かしい味だと笑った。そういえばもう随分長いこと、ゾロ以外とそういう類の会話をした事が無いと俺は気付いて、このオーナーに興味がわいた。おまけにオーナーは素晴らしい提案をしてくれた。着いて早々幸先がいいと、俺は少々浮かれ気味だ。調子のいい鼻歌のひとつも出ようってもんだ。
 ドアを開けると酒場にはゾロがいた。俺の気分はますます向上した。カウンター席に座って、宿の親父が出す煮込みを食べながら酒杯を傾けている。
「おう、おかえり。どうだった」
「ああ、決めてきた。明日から働く」
 俺はゾロの隣の席に腰を下ろし、同じものと、ほかに肉の串焼きとパンを頼んだ。
「よかったじゃねえか」
「おう。そんで朗報だ。オーナーが持ってる宿を格安で提供してくれるってよ。鍵も貰ってきたからすぐ移れるぜ」
 所謂海辺のコテージってやつだ。シーズンになればちらほら人が入るが基本的にはオーナーの別荘と化しているらしく、それもそう使えるわけではないからと、提供を申し出てくれたのだ。
 宿の親父に、食事が終わったら出るから清算してくれと言ったら、快く応じてくれた。ゾロはふうん、と頷いて、すぐに興味を無くしたように手元の煮込みをフォークでつついていた。何を考えているんだろう。よくわからない。
 ゾロは大体、考えている事を言葉にすることが少ない。それは昔からそうで、最初の頃はよく喧嘩をした。最初ってのは、俺とゾロが二人きりになって、旅をはじめた頃の事だ。
 ゾロと俺は簡単にいえば幼馴染と言うやつで、物心ついた頃にはだいたい一緒になって遊んでいた。
 よく行ったのは城の裏手から真っ直ぐ山に入って行ったところにある丘だ。そこには榛の木がたくさん生えていて、知っている人間なら、榛の丘といえばだいたいそこを思い浮かべる場所だった。?の実はそのまま噛んでも美味いが、ジジイに持って帰ると、俺が自分で作れるようになるまでは毎年、それを使ってクッキーやケーキを作ってくれた。秋になると毎日のように通ったもんだった。
 こうやってふいにジジイのことを思い出すと、俺の胸はちょっとばかりぎゅうと押されるみたいに痛む。今頃どこで何をしているのか、生きているのかもわからない俺の養い親。ゾロも同じように血の繋がらない親に育てられていた。今思えば、だから俺達はいつも二人で遊んでいたんだと思う。
 宿屋で支払いを済ませたあと、俺とゾロはコテージへ向かった。これからどれくらい過ごすことになるのか見当もつかないが、当面の間俺達の巣となる家だ。
 宿屋から歩く事三十分程、コテージは浜辺から道ひとつ隔てた所にぽつんと建っていた。まわりに同様の建物は無く、商店やレストランも見えない。一番近い勤め先のレストランからも二十分以上かかる。これじゃあなかなか借り手もつかないだろうな。
 こぢんまりとした石造りの建物はいかにも涼しげだ。やや古びているものの、煉瓦を敷詰めたテラスは綺麗に掃かれていたし窓も磨かれていて、よく手入れが行き届いているようだった。オーナーが素早く手を入れてくれたのかもしれない。管理をしている人間がいるのかもしれないし。
「いい家じゃねえか」
 中に入って明かりを灯すと、ゾロが明るい声で言った。ワンフロアにキッチンとリビングがあり、突き当たりにバストイレに続くドア、その脇に二階へ上がる階段がある。二階は寝室だ。
「そうだな」
 こんな家でずっと、ゾロとのんびり暮らせたらどんなにいいだろう。俺がレストランに仕事に行って、ゾロは鍛錬をしたあと、テラスでのんびり昼寝。たまには港で仕事をするかも。あとはちょっとした家事なんかをこなしてもらって、休みの日はのんびりと端っこの岩場で釣り糸をたらして…。
 ……馬鹿な。
 俺は今考えた事を頭から追い払うべく、キッチンの棚をあけて食器のラインナップをチェックする。ゾロは剣士だ。いつか世界にその名を轟かせるだろう剣士。そういうふうに生まれついて技を磨いてきた男だ。そして俺は…。
 目の前に白い大地が浮かび上がる。正しくは頭の中に。そりの走る音。馬車。蹄が雪を穿ち、車輪がぎしぎしと軋む。雪上に刻まれた轍のあと、樅の林、頭上の月、それから、眼下で赤く染まる街。俺達のふるさと。もう地図のどこに存在しない、俺達の生まれた国。
「サンジ、ベッドがひとつしかねえ」
 間延びした声でゾロが言った。ひとつしかないなら一緒に寝るしかないんじゃねえの、と心の中で返事をしながら、俺は一段目に足をかけた。
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