音のない夢 3
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十五になる少し前くらいだった。国を出て二年、旅暮らしが日常として肌になじみ、ものの考え方がそれに追いついてきた頃。俺達の間にはおかしな余裕が生まれていたんだと思う。
もう大丈夫だ。安心していい。明日食べるものを手に入れる事も最近はわりに容易い。寝るところを心配する時間も短くすむようになった。俺達は大人になったんだ、いつのまにか。少なくとも俺はそう思っていた。
それはかなり大きな都市だった。今いる砂漠の玄関口などとは比べ物にならない巨大な一大商業地で、人の数も建物の数も、それまで見てきた街がなんだったのかと思うくらい、膨大だった。
「ゾロ、俺、あそこに行ってみてえ」
サンジがそう言って指差したのは、真っ赤なすけすけの衣装を纏った金髪の女が厚ぼったい唇を尖らせて手招きしている、まあ簡単に言えば娼館だった。街を見て回っているうちに所謂裏通りのガラの悪い繁華街に入り込んでいて、気付けば周辺はそういった店ばかりになっていた。そんな場所じゃあさすがに俺達なんか全く子供で、からかい混じりの視線や囃子たてる声をあちこちから受けながら俺は段々苛々とした気分になっていたって言うのに、サンジはといえば、すっかりその気になっていたらしい。
俺達はとにかく生きるのに必死だったし、旅を続けていれば同年代の女と知り合う機会など無いに等しく、恋愛や、それにまつわる瑞々しい感情とはずっと無縁に過ごしていた。サンジなどは生来の女好きだったから行く先々で誰が好きだのなんだのと忙しい事だったが、うまくいった話は聞いた事がなく、だからそのとき俺は、「ああこいつ、まだだったのか」と思っただけだった。
「行きたきゃ行ってくればいいだろ」
「お、珍しくノリがいいじゃねえか。どこにする?おめえどこがいい?」
サンジがきょろきょろと嬉しげに物色をはじめたのを引っ張って引き止めて、俺は怒鳴った。
「馬鹿!行くんならおめえひとりで行って来い!」
「なんでだよ。どうせいつかは経験すんだし、おめえも一緒に行っとけばいいじゃねえか…あ、まさかあれか?お前、初めては好きな子と、とか思ってんのか?いやわかるぜ、俺もホントはそうしたいけど、ほら、俺らみたいな暮らしだとそれってかなりな困難を…」
俺は殴って黙らせた。サンジはドカンと向かいの店の壁にぶつかったが、それを確認するのとほぼ同時にあいつの鋭い蹴りが飛んできて、俺達はそんな桃色の往来で大喧嘩だ。刀は宿に置いてきていたからよかった。持っていたら速攻で抜いていただろう。
□
ぱん、と広げたシーツをベランダに干し、俺は部屋の中に戻った。薄暗い室内に今は俺ひとりしかおらず、がらんとしている。
サンジは仕事に行った。順調に毎日通っている。なかなか楽しくやっているようで、よかったと思う。
俺はといえば、ここのところ久々に落ち着いて思うように鍛錬が出来ているので、やはりよかったと思っている。
他にはこれといって何もしていない。この前大きく得た収入は俺が稼いだ賞金だったから、これでチャラだ。と思ってはいるが、それでも二日に一回は港で日雇いの仕事をした。
(だから賞金を貰っておけばよかったんだ)
サンジは俺が賞金稼ぎの真似事をするのを嫌がる。理由は多分、それが、「王の剣士の名」を汚す事だと思っているからだろう。今となってはありもしないそんな物に拘るほど俺は甘くはないつもりだが、あいつには違うのかもしれない。旅に出た当時の俺はまだほんのガキで、大人にも負けないそれなりの腕はあったが、剣士としてはどうしたって半人前だった。いずれ得る称号があったとしても、過去の話だ。なんの価値もない。だから俺には、サンジの気持ちが良くわからなかった。
十五、十六、と年を重ねる間、俺は何度も、もう離れてもいいんじゃないか、もうこいつと旅をしなければならない理由はないんじゃないかと思った事があった。当時俺達は大人になりつつあった。二人でいないと生きていけない時代はとっくに過ぎ去っていた。サンジにも多分、あったと思う。今でもそれは時折胸に去来する感情だ。そういったことにお互い気付いていながら先に延ばして、そうして俺達は五年も旅を続けてきた。
振り返り、開け放した窓から海を眺めた。真っ青だ。ぱっと白くあわだつ波。白い雲がぽつぽつと右から左に流れていく。海の上は風が強いようだ。気温も高い。
俺は階段を下り、棒に錘をいくつかくくりつけたものを持ち出して表に出る。風が吹いて汗ばんだ額を冷ます。そのまま道路を渡って砂浜に出た。一応ビーチになっていて泳ぐ事が出来るが、いるのは地元の中年の女と子供ばかりで、物売りの姿もなく、寂れている。俺が錘を振りはじめると最初は奇異の目で見ていたその連中も、しばらくして興味を無くしたのか、三々五々に散っていった。俺は黙々と振り続けた。昼になり、腹の虫がなるまでだ。
サンジが昼食を弁当にして置いていくので、それをひとりで食べる。美味い。なんで時間がたってもこいつの作ったものは美味いんだろう。
思うに、俺がサンジと今尚くっついている理由のひとつは、このメシだ。これが食えなくなるのは多分大きな損失だ。故郷を失っている人間にとって、故郷の飯の味というのが案外大きなものだってことも、最近の俺にはわかっている。
俺達はもうとっくに大人だ。お互い十分ひとりでやっていける。もしどちらかが言い出したら頷かざるを得ないくらいには、大人だった。
□
どうしても行くのだというサンジをおいて、俺はその界隈を離れた。宿の場所はよく覚えていなかったが、仮に覚えていても辿り着けはしなかっただろう。サンジはそれを見越していて、宿の名前と住所を書いた紙を俺に持たせていた。
「誰か気の良さそうなやつを捕まえて案内させろ。俺が帰るまでじっとしてんだぞ」
サンジは時々そうやって、俺に対して兄貴ぶったような物言いをする。それが俺は気に入らず、何かにつけて抵抗を試みるものの、気づけばサンジの思惑通りに事が運んでいることが多かった。
俺は結局人に尋ねながらなんとか宿に帰り着き、下の酒場でひとりメシを食べた。この頃には酒も普通に飲むようになっていたし、ガラの悪いごろつき連中と適当に言葉を交わして楽しむ事も覚えていた。
メシを終えて部屋に入り、シャワーで汗を流すと、もうする事が無い。俺はベッドに足をかけて腕立て伏せを始めた。流したばかりの汗が、また噴出してくる。
サンジは旅を始めた当初から、宿に泊まると、なんでもするといって半ば無理やり厨房に入り込み、下働きのような事から調理まで、コックの仕事はなんでもこなした。サンジは要領がよく仕事も速かったので、たいていの所で重宝がられて、ちゃんと金を貰ったり、貰えずとも宿代を負けてもらったりしていた。きちんとレストランで仕事が出来るようになるまでは、そんな風にして食いつないでいたのだった。
俺はそういう面ではサンジに負担をかけていた。サンジはとくに何も言わなかったし、本当に気にしていなかったのかもしれないが、俺にとっては負担だった。サンジの金で旅をしているという事実。宿にいて俺に出来る事は無いか考えても、せいぜい雑用くらいだ。下働きや掃除係は当然宿に存在したし、そういう連中から仕事を奪う事は出来なかった。出来る事は何もなかった。だから俺はこうして宿の部屋でひとりで過ごすことにいつしか慣れてしまっていた。
もう一度シャワーを浴びて、浴室を出ると、サンジが戻ってきていた。明かりもつけずにベッドに寝転がっている。
「よお」
「…おお」
「…風呂入れば」
「入ってきた」
そうか、と思って、俺は反対側のベッドに横になり、明かりをつけようとベッドサイドのテーブルに手を伸ばした。
「つけるな」
ぐす、という鼻を啜るような音が聞こえた。俺はベッドに座りなおし、サンジの様子を伺った。体を丸めて顔を隠して蹲っている。どう声をかけたものかと迷いながら溜息をつくと、お前なんか死ね、とくぐもった声が聞こえた。
「あ?」
「ふううう〜…」
溜息とともにぐずぐずとくずれながら、サンジはもそもそとベッドに潜り込んだ。そしてそのまま背を向けて寝入ったようだった。
翌朝、サンジは何事もなかった様に先に起きて、メシだ、と俺を起こした。目を開けるとコックの格好に着替えている。いつの間にか宿屋の主人となにやら話をつけたようだった。聞けば、朝晩の厨房の手伝いと後片付けで、宿代が半額だと言う。
「あと、メシもつけてくれた。だからこれ、タダだぜ」
そう言って、ベッド脇の簡易テーブルにパンとスープとサラダの乗ったトレイを置いた。
「さっさと顔洗って来い」
そう言って、煙草を咥えて火をつけた。俺は体を起こしながらサンジの顔をまじまじと見たが、特にいつもと変わりないように見えた。