音のない夢 5
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榛の丘には古い井戸があって、その中には秘密が隠されている。
井戸は石や木で整えられていない、穴を掘って杭を立てただけの粗末なもので、ぼうぼうに伸びた周囲の草でその入り口はほとんど隠れて見えなかった。
水は底の方に少し溜まっていた。一応飲めたがわざわざ飲みに来る者もなく、丘を訪れる人間の中にも、存在を知っている者は稀だった。
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目が覚めるとゾロがいなかった。鍛錬かと思い、テラスから海を眺めたがそれらしき姿はない。
ぱたぱたと裸足のまま、周辺をひととおり走りまわった。このあたりは住宅地で、別荘タイプのコテージなんてのは俺たちの住むあの家だけだ。似たような石造りの平屋の家が多く、うっかり歩きまわってゾロはもう何度も迷子になった。そうだ、迷子になるんだ。なんだって俺を起こさないで出かけたりするんだあのマリモ馬鹿は。
はあはあとだんだん息が上がってくる。日が昇ってきて、首の後ろが焼けてちりちりし始めた。いい加減戻って飯を食わねえと遅刻する。頭のすみで考えながら、俺の足は止まらなかった。
もしかして戻っているかもという一縷の望みも、がらんとした無人の部屋に吸い込まれて消えた。
「どういうこったよ…」
俺はしゃがみこんで溜息をついたところでいきなりその事に気付き、確認すべく、大急ぎで階段をのぼった。
なかった。
刀が。
さらに、大半が俺の物だが一応分け合って使っているクロゼットの中から、ゾロの私物がほとんど消えている。
どくん、どくんと、心臓が痛いくらいに強く打っている。まさかと思いながら、扉を閉め、フラフラとベッドに倒れこんだ。
確かにここに寝ていたはずなのに。ゾロが起きた事に気付けなかった。その事に呆然とした。ゾロは鍛えられた剣士の呼吸でもって、きれいに気配を消していたのだ。俺にすら気付かれないように、慎重に。
(どういうことだ…?)
なぜ。何のために。どうして。夕飯を食わなかった事を気に病んで?まさか。俺にとっては確かに笑って済ませられることじゃなかったが、だからって別に、押し付けたり強制した覚えはない。ゾロは嫌がらせや我侭でそんなことをするやつじゃないし、俺の気持ちをちゃんとわかっているってことも知ってるからだ。ゾロは昨日もすぐに気づいて謝った。だから、その時点であの話は終わっている。
俺は起き上がり、ゆっくり階段を下りた。食欲はなかったがこれだけは、と昨日ゾロに残していた分を取り出して、パンと一緒に食べた。
旅を始めてからこっち、ゾロと一緒に朝メシを食わない日なんてあったっけ。思い出せなくて俺は少し落ち込んだ。ひとりの家はなんだか急に広くなった感じがする。もう出かける時間なのに、なんだか体の芯がくねくねと頼りない感じだ。これが地に足がつかないっていうやつだろうか。だが仕事は待ってはくれない。俺は適当に仕度をして家を出た。遅刻ギリギリだ。表に出れば太陽は燃えて白くぎらついて俺の目を焼いた。眩暈がする。むかむかして吐きそうだ。
ゾロは、俺がさらす気持ちについては理解してくれるけれど、俺が隠す気持ちを想像したりはしない。同じように、俺もゾロのことはわかっているつもりで、知らない部分もたくさんある。俺達は随分長く一緒にいるけれど、そのせいで、言葉が足りない事も多い。
ああ、それで俺は、死ぬほど後悔した事があったじゃねえか。あのでっけえ街で、ひとりで泣きながら。思い出して、足が砂にめり込んで沈んじまいそうなくらい、落ち込んだ。忘れてたわけじゃない。でももう随分離れた場所での出来事だった。
店に入ると、オーナーが俺の顔を見るなり「腹でも壊したか」と聞いてきた。さらに落ち込む。
「何でもねえです…」
力の抜けた足をゆっくり前へ進める。溜息が出る。休んでもいいぞと言われたけれど、どっちにしろ気が休まらないし、体を動かしている方が楽だ。俺は断って、大丈夫だからと言って、厨房に入った。
下拵えをしている二人の同僚に挨拶をし、その中に加わる。
俺はくたくただった。ここで日常に紛れ込めたことにホッとしていた。働いていれば気は紛れる。仕事があるってのは本当にいいもんだ。
そこで俺はようやく気付いた。
ゾロは仕事を探しに行っちまったのかも知れないって事に。
□
夜中に、怒号と地響きで目覚めた。ぼんやりと夢うつつのままに真っ暗な天井を見上げていたら、いきなり大きな音がして、家が揺れた。
俺はいきなり覚醒して飛び起きた。クロゼットに飛びついて服を着替え、いつも持ち歩いているバッグを掴んだところで、親代わりのクソジジイが俺の部屋に飛び込んできた。
「チビナスいるか!」
「クソジジイ!なんだこれ!なんなんだ」
ジジイの下げたカンテラの灯りにうつる影はゆらゆらと揺れて、浮かんだり消えたりする。いきなり大きくなる影は俺の不安を煽った。多分情けない顔をしていただろうと思う。
ジジイの顔は今まで見たこともないくらい険しくて、俺は迂闊に問いただした事を後悔した。きっと絶望的な答えが返ってくる。息を飲んで目を閉じ、ゆっくりと吐き出した。
「…攻め込まれたのか。……城は」
ジジイは口をぐいと結んだままでじろりと俺を見下ろした。目は引き攣って三角になっている。
「仕度は出来てるか」
「すぐ出れる」
ジジイは無言で頷くと、かすかな溜息をついた。
「チビナス」
「チビナスって言うな…なんだ」
「緑の小僧を連れて榛の丘へいけ。井戸の場所はわかってるな」
「……どういう、意味だよ?」
「これでわからねえなら、おめえは本当に役に立たないただのクソガキってこった」
ジジイは俺を見ていながら、どこか遠くを見るような顔をした。
意味だと。わからないわけがない。だけどそれは同時に、俺にとって最悪の結果を意味していた。
「ついに耄碌したかよクソジジイ…冗談じゃねえぞ!俺も城に行く!」
「アホウ。どこまで馬鹿なんだお前は」
ジジイの表情の裏に隠された気持ち、なんてもんに興味はなかった。勝手に決めるな。俺は認めねえ。そう思って、俺は何が何でもジジイについて行くつもりだった。
隣国との戦争が始まって一年になろうとしていた。戦況が芳しくない事はこの国の人間なら誰でも知っていた。国王が降伏の準備をすすめているという事まで知る者はまだ少なかったかもしれないが、俺はジジイから少しだけ聞いていた。
「ジジイ…」
見上げるジジイの顔は、もう昔みたいに遠くない。ジジイは俺を正面から見て、ぐっと顎を引いた。
「行くぞ」
ジジイについて俺は家を出た。ジジイに拾われてこの国にやって来てからずっと暮らした城下の家は、ジジイがジジイの年になってようやく持った陸の家で、俺にとっては初めて自分の家と呼ぶ事を許された家だった。こんな形で出て行くことになるなんて思ってもみなかった。ジジイも同じ気持ちだっただろう。
外は雪がちらついていた。もうすぐ新年を迎える頃だった。今年はどんな料理を作ってゾロを驚かせようかと、俺はずっと考えていたって言うのに、もうそんな日が訪れる事は永遠に無いのだ。
俺は結局、城へと向かうジジイの背中を見送るしかなかった。網膜に焼き付けるように見つめ続けた。それが今でも、最後に見たジジイの姿だ。
俺は覚悟を決めていた。同じように城に向かう路上で合流したゾロは、まだ時々眠そうに目を擦っていた。こいつは寝ぼすけなんだ。俺の役割はこいつを連れて安全な場所に逃れる事。それ以外は考えないようにした。
ゾロは城へ行くと言って聞かなかった。ジジイが走り去るのを後から追いかけようとした。大丈夫だ。あいつの足技知ってるだろお前。言いながら、自分に言い聞かせてるって事には当然気付いてた。
「うるせえ!俺は剣士だ!こんな時に刀振るわねえ剣士がいるか!」
ゾロの気持ちは痛いほどわかった。俺だってそうだ。俺は王の料理人じゃあないし、ましてや剣士でもないけれど、こんな時に自分の国を捨てて逃げるなんて、そんなの、男じゃねえ。
俺達は十三だった。何かを守るという事に心は過剰に反応するのに、体は全然ついていかなくて、悔しい思いばっかりしていた頃だ。同年代のやつらを相手にしている分には俺とゾロは無敵だったけれど、大人にはまだまだ、意地張って楯突くのが精一杯の子供だった。腕っ節どうこうの問題じゃない。拳を振り上げるにはまだ乗り越えなきゃいけねえもんが目の前にでっかく聳えてた。
燃え落ちる城を丘から眺めながらゾロは黙って涙を流した。空を焦がす色を閉じ込めた透明な水は、あとからあとから涸れることなく溢れてくる。ごうごうと燃え盛る炎は、天に向かって昇る竜の翼のように、真っ暗な空を赤く覆っていた。
俺も泣いた。あそこにはジジイがいる。ジジイがいなけりゃ俺はとっくにのたれ死んでた。きっともう二度と会えない。なぜならジジイは全部を俺にくれたからだ。ジジイの言葉を思い出した。井戸に行かなきゃならねえ。今すぐ。一刻も早く。
「ゾロ、行くぞ。ここだって安全じゃねえ」
ゾロは動かない。せんせい、と小さく呟く声が聞こえて、俺の胸はぎゅっと縮むように痛んだ。ゾロも俺と同じだ。ゾロを育てた血の繋がらない父親は国王に近侍する一の剣士だった。きっと今、あの火の海の中にいる。
「行かなきゃ」
手を握ってひっぱると、ゾロはゆらりと俺の方に傾いで、それからぐい、と目を拭った。
「どこへだ」
「わからねえけど、とにかく遠くへ」
覚悟を決めた目だった。俺達の手はまだ小さくて欲しい物全部なんて掴めない。たったひとつの命を掴むために、他の全てを捨てる勇気を。それを振り絞るための力を。ひとりじゃないということは何にも勝ると思った。ジジイはそのためにゾロを連れて行けと言ったんだ。掌から伝わるあたたかみに、俺はじっと目を閉じて高ぶった気持ちを鎮めようとした。冷静にならなくちゃ。無事に国境を越えるために、すべき事を全部やらなくちゃ。
城の方向を背にして、深い雪の繁みをかき分け、被さってくる重い枝を払いながら、もう少し丘を登った。井戸の場所はそれほど奥まっているわけじゃないが、用心していないと見逃すほどにささやかなので雪の中ではさらに見つけ難い。視界のきかない夜の闇の中、俺は必死に目を凝らした。
そこはジジイが、かつての自由と尊厳を、過去を、葬り去った場所。
俺を拾うまで世界の海で名を馳せ恐れられたジジイは、世に言うところの、海賊、というやつだった。