ノクターン 8

 おかあさんは歌をうたってるんだ、とサンジは言った。「綺麗な服を着て、ピアノに合わせて、お店で歌うんだ」
 ざくざくと砂を掘り、固め、小さな山を造る。少しづつ削り、両方から穴を開けてかき出し、トンネルを通す。
 ふうん、と答えると、サンジは、ゾロのおかあさんは?と聞いてきた。
 四日か五日もするとふたりは、片言ではあったが、言葉を交わせるようになった。それぞれの使う言語が混ざった、当人同士にしか分からないような会話だったけれど、意思の疎通は十分に行えた。
 ゾロは立ち上がって波打ち際で手を浸し、とことこと戻ってくる。
「おかあさんはおいしゃさん」
「へえー。すげえなあ」
 ゾロはえへへと笑いながら、濡れた手で山をぺたぺたと押さえていく。
「おとうさんはね、会社。サンジは?」
「おとうさん、いねえもん」
「いない?」
「うん、だから知らない」
「ふうーん」
 ゾロはよく分からない様子で、サンジの言葉に曖昧にうなずいた。
「でもジジイがいるよ。ジジイは料理を作るのがすごく上手いんだ。大きいお店で、 いっぱいコックさんがいて、そん中でジジイが一番えらいんだぜ」
「コックさん!」
 ゾロが目を輝かせて言うので、サンジは嬉しくなる。こんな事を誰かに聞いてもらったのは初めてだ。急に誇らしくなって、いつも怒ってばっかりの怖いクソジジイになんだか会いたくなった。
「こんどさあ、ゾロも食べに来いよ」
 そう言うと、ゾロはいく、と笑って、こんどおかあさんに聞いてみる、と言った。
「じゃあいつ来る?」
「うんとね、あした」
「あしたはまだここにいるだろ。お店、すっげえ遠いんだ。たぶんたくさん電車に乗るから」
「じゃああさって」
「あさってならだいじょうぶかなあ」
 後ろの方で、さささ、と音をたてて、波が引いていった。
「あ」
「開通した!」
 ゾロが高い声で叫んだ。サンジの指先に、ゾロの指がぐにぐにと動いているのが当たる。サンジがそれをぎゅっと握ると、ゾロはぐいっと唇を広げて大きく笑い、同じように握り返してきた。
 サンジは背後を振り返った。太陽と海がずいぶん近くなっている。もうすぐ夕食の時間だと言って、ゾロの子守のおばさんがゾロを迎えに来てしまうだろう、と思った。そうしたら、サンジはひとりになってしまうのだ。おかあさんはもうお店に出かけて行ってしまったから。いつもの事なのに、今日に限ってなぜかじわりと涙が浮いて、サンジはあわてて目をこすった。ほっぺたに、斜めの線が走る。
「砂がついたよ」
 ゾロの小さな手が頬の砂をはらった。
「ゾロ」
「なに?」
「俺のおかあさんのこと、誰にも言っちゃだめだよ」
「なんで?」
「なんでも。内緒だよ」





 暗い廊下の突き当たりから、ぽつん、ぽつん、と雨だれのような音色が響いてくる。母親の趣味のピアノ室だ。ベヒシュタインには鍵がかかっているが、国産のアップライトは開けっ放しで置いてある。
 久々に聞く音だった。母親以外は家政婦が掃除に入る以外誰も訪れない部屋なので、その音色を響かせる事は、年に一度あるかどうかだ。
 壁にかかる薄暗い照明の下で、サンジは立ったまま、人差し指だけで音を鳴らしていた。心得があるのかどうか、でたらめのようでいて、その音色は一定の流れにそって確かにメロディを刻んでいる。
「うたわねえのか」
 サンジは手を止めて、ゆっくり振り向いた。
「うたわねえ」
「おふくろさん譲りなんじゃねえの」
 サンジは口許だけでかすかに笑んで、再び鍵盤に視線を移した。
「覚えてたか」
「……たまたまだ」
「それでも」
 ぼーん、と低い音を強く響かせ、消えゆく音の余韻を確かめるように鍵盤をおさえている。
「今、かあさんがうたってた事を覚えてるのは、多分、俺とクソジジイと、お前くらいだろうな」
 そう言って笑った顔は、暗い照明で左から照らされて影が濃くなり、あまりよく見えなかった。
「どういう意味だ?」
「うたえなくなってもう十年以上たったからさ」
 ゾロは黙った。十年前といったら、サンジとゾロが海辺で出会って別れ、まもなくのことだ。
「病気か?」
「ああ。…そんで、すぐ死んじまった」
 サンジの右手の指が再びメロディを奏ではじめた。聴いたことのない曲だ。た・ら・ら、た・ら・ら。同じ音色でゆったりと繰り返される。
「なんて曲だ」
「さあ。知らない」
 ぷつりと音が途切れた。サンジは鍵盤を見つめたまま黙って立っている。それから指先をそっと伸ばし、いとしげに撫でた。
「子守唄だな、多分。枕元でうたってた」
 背後に広がる闇に、ゾロはサンジの孤独を見た気がした。
 サンジはゆっくりとゾロに向き直り、視線を合わせた。
「あやまらねえよ」
「何を」
「……聞くのかよ」
「聞いたら悪いのか」
 サンジは疲れたように再び俯き、盛大なため息をついた。長い前髪をかきあげる。オレンジの暗い明りがサンジの金髪に鈍い光沢を生み出す。
 上目遣いに見上げたサンジの視線をゾロのそれがとらえる。
「悪いよ。馬鹿じゃねえの」
 サンジは顔を俯けたままピアノを離れ、ピアノ室の入り口に立ったままのゾロの脇を足早に通り抜ける。ゾロはその腕を握った。
「離せ」
「逃げるのかよ」
「うるせえ」
 サンジはその手を力任せに振り解く。ゾロの手は離れたが、その場に立ち止まったままだ。
「意味がねえって言った」
「…ああ」
「たしかに無えんだ。お前は正しい…」
 サンジは横に立ったまま、暗い廊下に向かって語りかけるように言葉をつむぐ。ゾロにはそれが拒絶と思えた。
「おい」
 ゾロの呼びかけに返事は無い。胸が濁って痛む。あるのは言葉にならない感情ばかりだ。こんな見苦しい感情の渦を抱えた事はこれまで無かった。ゾロは混乱していた。サンジの答えの無いことがなぜこんなに重いのだろう。
「なんの用かって、聞いたな」
 最初の晩だ。昔の事を覚えているかと問われたことに対するゾロの返事だった。ゾロは息を呑む。確かにそう言った。今思えば、その場でこの家からサンジが消えていたっておかしくない言葉だ。
「あれは…」
「聞かなくたってわかることだろうに、だから聞いてんじゃねえよてめえは…」
 ため息混じりにそう言って斜めに振り返ったサンジの目は、闇の中で、僅かな光を真摯に受け止めていた。
「言うから聞けよ。俺は、お前に会いに来たんだ」
 ゾロはその目を見つめながら、サンジの肩にそっと手をかける。
「お前のことがどうしても忘れられなくてさ。ガキの頃から、お前に会うためにはどうしたらいいのかって考えて。どうしよう、どうしたらいいんだろうって、そればっか…」
 どうしてそうしたのかは分からない。ただ、渦巻いていた胸の中の混沌から生まれ出たひとつの感情が喉を押し上げて、ゾロの息を内側から塞いだのだ。突き動かされるように斜めに顔を近づけた。軽く触れた瞬間、サンジは目を閉じ、やわらかく受け止めた。ゾロは触れただけで、すぐに唇を離した。
サンジの手が闇から伸びる蔓のようにゾロの体に巻きついた。後頭部を抑えられ、息を継ぐ間にあいた口を絡め取られる。胸をあわせると、とくとくと早いリズムで体が震えるのを感じる。絡み合うところから漏れる水音が天井の高い暗い廊下でやけに響いて耳につく。
「はあ…」
 離れると、サンジは息をふるわせた。ゾロの体に回した腕に力をこめ、肩に額を押し当てて呟く。
「なんで…」
「…てめえこそ。元はと言えば、てめえが…」
「どうしよう…」
「何を」
「とまらねえよ、もう。あんなキスされたら」
 薄暗い廊下の明かりにも、サンジの薄い耳が真っ赤に染まっているのが分かる。体の横で握り合った両手が汗ばんでいる。
「どうやんだ」
 サンジがゆるゆると顔を上げ、ごく、と喉を鳴らした。睨みつける眼は険しかったが、かすかに目じりを染めてサンジを見据えるゾロからは、新緑の若木のように瑞々しく、甘い水のような透明な香りがした。戸惑いの裏側にある欲望を臆することなく溢れさせて、未知の感情に怯むようすも見せない。
「俺は知らねえ。どうするのか、お前が決めろ」
 ゾロの肩に額を押し当て、ふう、と力を抜いて息を吐き出し、サンジは握った手にぎゅうっと力を込めた。
「ほんと、ずるいよな、てめえ」
 頭の上で、にやりと、笑う気配がした。    
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