ノクターン 3

 太陽の光を受けてきらめく水平線のすぐ上の辺りを、平らな雲が漂って流れている。空は明るく、風は凪いであたりはとても静かだ。
 沖に漂う船は白い豆粒みたいに小さく波間に浮いている。左の端からそれを数えてみるのだが、いつつ数えたところで、最初に数えた船がどれだか分からなくなった。気を取り直してもう一度数えだす。ひとつ、ふたつ…。
「遠くの方から数えるんだ」
 急に近くできいきいと高い声がして、ゾロは驚いて振り返った。後ろに金色の髪をした同じくらいの年頃の男の子供が立っている。
「全部で十だ。俺はすぐに数えちゃったよ?」
 笑いながら何か話しかけてくるけれど、ゾロには何を言っているのかわからない。違う国の言葉だ、と思って、唇をぎゅっとすぼめ、その子供の口許を凝視する。
「お前、どこの子?この辺の子?」
 子供は何か言いながら屈んで小石をひとつ掴み、立ち上がると海へ向かって放った。小石はわずかに弧を描き、下の岩場にあたって、からんからんと転がり落ちた。
 白い砂浜の続く海岸線を少し下に見下ろす高台には、いくつかのリゾートホテルに、似たような形のコテージやゲストハウスが並んでいる。
 ゾロはその真ん中に建っている一番大きなホテルに昨日から滞在していた。おかあさんが一緒だ。仕事が夏休みになったらおとうさんもやってくる。一緒に遊んでくれるのだ。おとうさんとはあまりたくさん遊んだことがなかったのでゾロは楽しみで仕方がない。海で泳いだり釣りをしたりするのよ、ハイキングにも行きましょうね、とおかあさんは嬉しそうにしていた。この子供もゾロと同じように、あの白い大きなホテルにやってきたのだろうか。
「お前ん家、どれだ?」
 少しのぼった所に見える、ホテルの周辺に建つ小さな白いコテージの屋根を指差してゾロが話しかけると、子供は目と口を丸くしていた。たぶんゾロの言っていることが分からなくてびっくりしたのだ。ゾロは少し胸がすっとした。
 しばらくすると子供は、どん、と両手をつっぱって、いきなりゾロを突き飛ばした。
「うわあ!」
 ゾロは勢いでどてん、と尻餅をつく。転がったまま見上げると、子供は転んだゾロをさらにびっくりした顔で見つめていた。ゾロは立ち上がって掌に付いた砂を払うと、仕返しとばかりに子供の胸をぐいっと押した。
「わっ!」
 よろめいて下がる子供にむけて、あはは、と笑ってやると、子供は口許をむずむずさせている。それからへにょっとまげて、ぷうっと頬を膨らませる。そしてまたゾロの胸を押してきたので、ゾロは今度は負けじと堪え、反対に突き出した。子供も黙っては押されず、押し合いへしあいしているうちに二人の唇からはくすくすと笑いが漏れ始める。そのうち声は高まって、金髪の子供の方が先に力が抜けたみたいに前に屈んで手を突き、ごろん、と地面に転がった。そしてひゃあひゃあと声を引きつらせて笑うのだった。ゾロも、だんだんお腹のそこからおかしさがこみ上げてきて、つられるように一緒になって笑った。何を言っているのかはわからなかったけれど、胸の中は晴れやかで、ただただ楽しかった。

 それが、その夏の、始まりの日の出来事だ。
 





 目の前に、金色。にやりと笑う口許、そこにあの頃の面影があるだろうか。ゾロはじっと見入った。記憶は遠い波音のように寄せては返し、掬い上げても、透明な液体のように手のひらをすり抜けて流れ落ちていく。
 サンジは黙って、ゾロが何か言い出すのを待っている。
「お前…」
 言いかけると、サンジの目がきらりと瞬いた。それを見て、ゾロは口をつぐむ。
 もしこの男があの子供だとして、それが一体何だっていうんだ。そんな思いが胸の中に湧いた。
「なんだよ。言ってみろ」
 ゾロはテーブルの上で組んだ指をぎこちなく組み替える。
「だったらどうした。なんの用だ?」
 サンジは一見眠そうにも見える奥目を少しだけ見開いて掠めるようにゾロの表情をうかがい、すぐに斜めに視線を外した。
「…用」
「感動の再会でも期待してたわけか?手を取り合って懐かしがろうとでもいうのかよ。悪くはねえが、たいして意味は無えな」
 どうしてか薄ら寒い口調になってしまう。向かい側でゆっくりとあげられた顔には、もう先ほどの笑顔は無かった。こめかみの辺りが冷やりとする。サンジの表情は明らかに翳っていて、それは期待通りの言葉を得られなかった落胆を表していた。
「まあそうだな…うん、たしかに意味は無え」
 ゾロが黙っていると、サンジはポツリとそう言った。ぞろぞろと虫が這うような嫌な感覚が首から背筋へと伝う。サンジは湯呑を持って席を立つと、キッチンに向かった。ゾロはその背中を眺めたまま、言うべき言葉も、取るべき行動も見つけ出すことが出来なかった。
 水音がして、ああ茶碗を洗っているのか、と思う。そのうちに足音はドアの向こうへと消えた。
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