ノクターン 10
空腹感で目を覚ます。ぼうっと天井を眺めて、その光景がいつもと少し違うことにゾロは気づいた。
(あかるい…)
寝坊した。休日でも素振りは欠かさずやっていたのに、とため息をつく。
足の付け根の痛みが昨夜起きた出来事をいやでも思い出させる。ゾロは苦虫を噛み潰したように顔を顰め、両手で顔を覆った。その手の下の口はゆがんだ笑いを形作る。いったい何がどうしちまったんだか。
しばらく静かに呼吸を繰り返し、おもむろに体を起こした。サンジは風呂だろうか。ベッドサイドの時計を見ると、もう九時を回っている。
晴れた日の柔らかな日差しにさらされた手足が白く光る。ところどころ赤く染まった部分が目に入って、胃のあたりがじん、と重くなった。
「お、起きた」
反射的に声のした方を向く。サンジが笑いながらトレイを持って部屋に入ってきた。
「メシ、持ってきた」
サンジは上半身裸で、スウェットのズボンだけを身に着けている。ゾロは視線をそらして窓の外を見た。コーヒーの芳しい香りが漂ってきて、胸がすっと軽くなる感じがした。
サンジはサイドテーブルにトレイを置き、ベッドに軽く腰掛け、コーヒーの入ったマグを持ち上げる。片方をゾロに手渡し、軽くすすった。ゾロはマグカップに顔を近づけ、香り立つ湯気を顔に当てながら表面に浮いた波紋にしばし見入り、そっと縁に口をつけた。
その様子にサンジがそっと胸をなでおろしたなど、気づいてもいない。サンジはそのことで更に安堵し、小さく息を吐き出した。
しばらく無言でコーヒーを飲む。
「パン、サンドイッチにしてきたけど、食うか?」
卵にハムに、野菜。サンジがひとつ掴んでゾロに差し出す。まめなことだと思いながら、ゾロはちらりと視線を送った。サンジの耳の下から顎にかけてのラインをじっと見つめ、首筋から肩、背中へと視線を移していく。
サンジは後ろを向いたままで、時々目だけゾロに向ける。さっきからずっとだ。
「おい」
「食わない?」
サンジは片手でサンドイッチを持ち、ひらひらとさせてゾロにすすめる。しかし顔は、やはり明後日の方を向いている。
「おい」
「なんだよ」
「海に行くんじゃねえのか」
「……ああ…」
なんだそのこと、と言いながら、サンジはようやくゾロを見た。目の下がぴりぴりと強張って、どこか余所余所しい雰囲気だ。
「行かねえのか」
「ゾロがどうしてもって言うなら、行くけど」
「なんだそりゃ。はっきりしろ」
サンジがごくりと喉を鳴らす。
「あの、さ」
「なんだ」
ゾロの表情はどんどん剣呑な雰囲気を帯び、サンジは心臓に冷や汗をかく思いだ。こんな風になるはずじゃなかった。
「あ、あのさ、お前、なんで」
「ああ?」
「なんで、俺に…」
ごにょ、と語尾はしぼんで消えた。ゾロの顔はいよいよ険しくなる。
「なんだ。はっきり言え」
惚れた弱みと言うのは恐ろしい、とサンジは思う。これがかわいい女の子ならば苦労はないのに。まして、こんな甘い朝。ベッドで戯れながら髪を撫で、幾らでも上手い言葉を囁いてやれるのに。サンジは起き抜けに、ゾロ相手にそれをしていいものかどうか逡巡して、結局あきらめたのだ。
片手を突いて体を反転させ、ゾロの顔を正面から見つめた。するとゾロは、そっと視線を落として逸らす。朝の光の中で、ゾロの体を覆う産毛がきらきら光って見える。
サンジは諦めたように大きく溜息をつき、体を前に倒しながら、ゾロの丸い肩にくちづけた。ゾロの肩がぴくりと反応する。
「はっきりって、難しいこと言うよ…」
「言いにくいことか」
「だって俺はお前とこれっきりになるつもりなんかねえもん」
徐々に体重をかけ、ゾロに斜めにくっつくような形になる。肌が密着し、鼓動がかすかに骨に響いてくる。
ゾロは胸の音がサンジに聞こえやしないかと気が気ではない。サンジの言葉で、頭に血が上ってくらくらしてきた。
サンジが顔を斜めに傾け、鼻を交差させて近づくと、ゾロは小刻みに睫を震わせる。ふに、と唇があわさって、少し強く押し付けると、ん、と鼻から息を漏らした。
一体どういうつもりなんだろう。
そして俺はといえば。サンジは言わずもがなの事を今一度確認する。ゾロが好きだ、出来れば、いつも一緒にいたい。
少なくとも自分に関しての事ならば、総て分かっているサンジだった。会うまではただの懐かしさだと思っていたけれど、会ってしまったらそんな生易しい感情じゃないことはすぐに分かった。
ずっと、子供のゾロしか知らなかった。子供のゾロをずっと思い続けて、その気持ちだけはきっと、あの頃の時間のままで止まっていたのだと思う。サンジはゾロの瞳を覗き込み、そこに映る自分の姿をとらえる。
「すきだ」
ゾロの目が、はっと見開かれる。
「すきだよ」
たぶん、一番最初に勉強した日本語だ。キスをして、ベッドに倒れこみながらぎゅうっと抱きしめると、ゾロの腕がサンジの背中にまわり、同じように抱きしめ返す。何度もキスをした。ゆっくり味わうように舌をくっつけあう。こくん、とゾロが喉を鳴らした。サンジは切ないような気持ちがこみ上げ、ぎゅうぎゅうと抱きしめる手に力を込める。
光の中はあたたかく、まるで天国にいるみたいだと思った。
昼寝をしたな、とゾロが呟いた。子供の頃のことだとサンジが気づく前に、ゾロは寝返りを打って向こうを向いてしまった。サンジがこちらを向かせようと肩に手をかけると、すっと払うように手のひらを返す。
「なんだよ」
「俺はそうしゃべった。飯を食って昼寝をしたって。そうしたら、次の日から母親と一緒じゃなきゃ外に出してもらえなくなった」
夏の光の中で見たゾロの小さな背中は陽炎のようにはかなく、まばゆさに目が眩みそうになりながら必死で追いかけた足跡は、波にさらわれてすぐに消えてしまった。
会えなくなって、夏は終わった。
「そうじゃないよ」
「次の日からお前は来なくなって、俺は散々泣いたけど、母親も父親も子守も、もうお前はいないとしか言わなかった」
「ゾロ」
「金、だろ」
声に酷薄な空気が含まれている。鋭く固い、口にした者の自身も傷つけてしまう棘のような言葉だ。
「お前のせいじゃないよ…酒場で歌ってる女の子供と遊ばせるなんて、お前みたいな子供にはふさわしくなかったんだ。お前の両親がそういう考えだってのは、仕方のないことだ」
「ハ、あいつらがな…。場所が酒場ってだけで、お前のおふくろさんは、ちゃんと働いてたのによ」
サンジの手が背後から伸びて、ゾロの額を軽くこする。生え際にうっすらと汗が浮いている。
「お前と昼寝をしたときのこと、すごく良く覚えてるよ」
ふうふうと浅い息を吐いていた、ぽっちゃりと丸い、柔らかな唇。わざと近づけた額。汗ばんだ頬の赤み。
ゾロは間近に感じる体温に心が落ち着いていくのを感じる。サンジなのに。たかが、子供の頃わずかに遊んだだけの、ほとんど縁のない人間なのに。
そう思って、ゾロは自分の思考があまりに馬鹿げていたので笑いたくなった。縁のない人間。そもそも、自分と縁の深い人間など、この世にはいないはずだ。
そう、実の親でさえ。
「俺は、あんまり覚えてない」
「そうか」
サンジの喉に絡む低音がやさしく深く響く。
「なあ、海は」
まだ気にしているのかとサンジは苦笑する。同時にくすぐったい。
「お前とこうしてんのが一番いいって言ったら怒る?」
「昼寝がかよ」
「…まあ、そうかな」
言って、ゾロのうなじに鼻先をうずめる。汗のにおいがした。諦めるようなため息が聞こえる。
本当にこのまま眠るのはいいかもしれない。落ち着いた空気の中で、誰にも邪魔されずに、まどろみながら一日を見送るのだ。好きな人を腕に抱きながら。なんて贅沢な休日だろう。
「まあいいか」
ゾロが呟いたので、サンジは後ろから足を絡め手を胸の上で組んで、ぎゅうっと抱きしめた。ゾロは何回かに分けて短く息を吐き出し、背中を震わせた。
(あかるい…)
寝坊した。休日でも素振りは欠かさずやっていたのに、とため息をつく。
足の付け根の痛みが昨夜起きた出来事をいやでも思い出させる。ゾロは苦虫を噛み潰したように顔を顰め、両手で顔を覆った。その手の下の口はゆがんだ笑いを形作る。いったい何がどうしちまったんだか。
しばらく静かに呼吸を繰り返し、おもむろに体を起こした。サンジは風呂だろうか。ベッドサイドの時計を見ると、もう九時を回っている。
晴れた日の柔らかな日差しにさらされた手足が白く光る。ところどころ赤く染まった部分が目に入って、胃のあたりがじん、と重くなった。
「お、起きた」
反射的に声のした方を向く。サンジが笑いながらトレイを持って部屋に入ってきた。
「メシ、持ってきた」
サンジは上半身裸で、スウェットのズボンだけを身に着けている。ゾロは視線をそらして窓の外を見た。コーヒーの芳しい香りが漂ってきて、胸がすっと軽くなる感じがした。
サンジはサイドテーブルにトレイを置き、ベッドに軽く腰掛け、コーヒーの入ったマグを持ち上げる。片方をゾロに手渡し、軽くすすった。ゾロはマグカップに顔を近づけ、香り立つ湯気を顔に当てながら表面に浮いた波紋にしばし見入り、そっと縁に口をつけた。
その様子にサンジがそっと胸をなでおろしたなど、気づいてもいない。サンジはそのことで更に安堵し、小さく息を吐き出した。
しばらく無言でコーヒーを飲む。
「パン、サンドイッチにしてきたけど、食うか?」
卵にハムに、野菜。サンジがひとつ掴んでゾロに差し出す。まめなことだと思いながら、ゾロはちらりと視線を送った。サンジの耳の下から顎にかけてのラインをじっと見つめ、首筋から肩、背中へと視線を移していく。
サンジは後ろを向いたままで、時々目だけゾロに向ける。さっきからずっとだ。
「おい」
「食わない?」
サンジは片手でサンドイッチを持ち、ひらひらとさせてゾロにすすめる。しかし顔は、やはり明後日の方を向いている。
「おい」
「なんだよ」
「海に行くんじゃねえのか」
「……ああ…」
なんだそのこと、と言いながら、サンジはようやくゾロを見た。目の下がぴりぴりと強張って、どこか余所余所しい雰囲気だ。
「行かねえのか」
「ゾロがどうしてもって言うなら、行くけど」
「なんだそりゃ。はっきりしろ」
サンジがごくりと喉を鳴らす。
「あの、さ」
「なんだ」
ゾロの表情はどんどん剣呑な雰囲気を帯び、サンジは心臓に冷や汗をかく思いだ。こんな風になるはずじゃなかった。
「あ、あのさ、お前、なんで」
「ああ?」
「なんで、俺に…」
ごにょ、と語尾はしぼんで消えた。ゾロの顔はいよいよ険しくなる。
「なんだ。はっきり言え」
惚れた弱みと言うのは恐ろしい、とサンジは思う。これがかわいい女の子ならば苦労はないのに。まして、こんな甘い朝。ベッドで戯れながら髪を撫で、幾らでも上手い言葉を囁いてやれるのに。サンジは起き抜けに、ゾロ相手にそれをしていいものかどうか逡巡して、結局あきらめたのだ。
片手を突いて体を反転させ、ゾロの顔を正面から見つめた。するとゾロは、そっと視線を落として逸らす。朝の光の中で、ゾロの体を覆う産毛がきらきら光って見える。
サンジは諦めたように大きく溜息をつき、体を前に倒しながら、ゾロの丸い肩にくちづけた。ゾロの肩がぴくりと反応する。
「はっきりって、難しいこと言うよ…」
「言いにくいことか」
「だって俺はお前とこれっきりになるつもりなんかねえもん」
徐々に体重をかけ、ゾロに斜めにくっつくような形になる。肌が密着し、鼓動がかすかに骨に響いてくる。
ゾロは胸の音がサンジに聞こえやしないかと気が気ではない。サンジの言葉で、頭に血が上ってくらくらしてきた。
サンジが顔を斜めに傾け、鼻を交差させて近づくと、ゾロは小刻みに睫を震わせる。ふに、と唇があわさって、少し強く押し付けると、ん、と鼻から息を漏らした。
一体どういうつもりなんだろう。
そして俺はといえば。サンジは言わずもがなの事を今一度確認する。ゾロが好きだ、出来れば、いつも一緒にいたい。
少なくとも自分に関しての事ならば、総て分かっているサンジだった。会うまではただの懐かしさだと思っていたけれど、会ってしまったらそんな生易しい感情じゃないことはすぐに分かった。
ずっと、子供のゾロしか知らなかった。子供のゾロをずっと思い続けて、その気持ちだけはきっと、あの頃の時間のままで止まっていたのだと思う。サンジはゾロの瞳を覗き込み、そこに映る自分の姿をとらえる。
「すきだ」
ゾロの目が、はっと見開かれる。
「すきだよ」
たぶん、一番最初に勉強した日本語だ。キスをして、ベッドに倒れこみながらぎゅうっと抱きしめると、ゾロの腕がサンジの背中にまわり、同じように抱きしめ返す。何度もキスをした。ゆっくり味わうように舌をくっつけあう。こくん、とゾロが喉を鳴らした。サンジは切ないような気持ちがこみ上げ、ぎゅうぎゅうと抱きしめる手に力を込める。
光の中はあたたかく、まるで天国にいるみたいだと思った。
昼寝をしたな、とゾロが呟いた。子供の頃のことだとサンジが気づく前に、ゾロは寝返りを打って向こうを向いてしまった。サンジがこちらを向かせようと肩に手をかけると、すっと払うように手のひらを返す。
「なんだよ」
「俺はそうしゃべった。飯を食って昼寝をしたって。そうしたら、次の日から母親と一緒じゃなきゃ外に出してもらえなくなった」
夏の光の中で見たゾロの小さな背中は陽炎のようにはかなく、まばゆさに目が眩みそうになりながら必死で追いかけた足跡は、波にさらわれてすぐに消えてしまった。
会えなくなって、夏は終わった。
「そうじゃないよ」
「次の日からお前は来なくなって、俺は散々泣いたけど、母親も父親も子守も、もうお前はいないとしか言わなかった」
「ゾロ」
「金、だろ」
声に酷薄な空気が含まれている。鋭く固い、口にした者の自身も傷つけてしまう棘のような言葉だ。
「お前のせいじゃないよ…酒場で歌ってる女の子供と遊ばせるなんて、お前みたいな子供にはふさわしくなかったんだ。お前の両親がそういう考えだってのは、仕方のないことだ」
「ハ、あいつらがな…。場所が酒場ってだけで、お前のおふくろさんは、ちゃんと働いてたのによ」
サンジの手が背後から伸びて、ゾロの額を軽くこする。生え際にうっすらと汗が浮いている。
「お前と昼寝をしたときのこと、すごく良く覚えてるよ」
ふうふうと浅い息を吐いていた、ぽっちゃりと丸い、柔らかな唇。わざと近づけた額。汗ばんだ頬の赤み。
ゾロは間近に感じる体温に心が落ち着いていくのを感じる。サンジなのに。たかが、子供の頃わずかに遊んだだけの、ほとんど縁のない人間なのに。
そう思って、ゾロは自分の思考があまりに馬鹿げていたので笑いたくなった。縁のない人間。そもそも、自分と縁の深い人間など、この世にはいないはずだ。
そう、実の親でさえ。
「俺は、あんまり覚えてない」
「そうか」
サンジの喉に絡む低音がやさしく深く響く。
「なあ、海は」
まだ気にしているのかとサンジは苦笑する。同時にくすぐったい。
「お前とこうしてんのが一番いいって言ったら怒る?」
「昼寝がかよ」
「…まあ、そうかな」
言って、ゾロのうなじに鼻先をうずめる。汗のにおいがした。諦めるようなため息が聞こえる。
本当にこのまま眠るのはいいかもしれない。落ち着いた空気の中で、誰にも邪魔されずに、まどろみながら一日を見送るのだ。好きな人を腕に抱きながら。なんて贅沢な休日だろう。
「まあいいか」
ゾロが呟いたので、サンジは後ろから足を絡め手を胸の上で組んで、ぎゅうっと抱きしめた。ゾロは何回かに分けて短く息を吐き出し、背中を震わせた。