ノクターン 11

 毎日抱き合っている。
ゾロのあたたかな肌と荒い吐息に包まれて、サンジは熱に浮かされたその頭の中にいつも遠い波音を聞いていた。覆いかぶさってくる密閉された水中の、まとわりつく水の重さ。それは記憶の層に埋もれて溺れる感覚だ。
 この時間は、ゆらゆらと底に沈み、砂に爪先を埋めるまでの、ほんのわずかな猶予なのだという事を、サンジは十分すぎるほど分かっていた。

 サンジはロビンと会う約束をした。学校帰り、友人と会って帰ると言うと、ゾロは一瞬不思議そうな顔をしたあと、不満気に唇を尖らせ、まああとちょっとで帰らねえといけねえしな、と低く呟いた。サンジは弾む胸を押さえながら、複雑な思いで、とにかくなんでもない顔をすることに全力を傾けなければならなかった。
 ゾロと離れることなんか考えたくなかった。しかもその後一年、自分には自由になる時間などないも同然なのだ。離れたら、当分会う手立てがない。
「休みがないのは別にいいんだけど、それとこれとは別なんだよ」
 ロビンは黙って耳を傾けていた。
 学校から、ゾロの家とは反対の方向の電車に乗り、ふた駅先にロビンの住む町はある。改札を出たところでロビンは待っていた。行きつけだというカフェに、二人はそのまま足を運んだ。
 アンティークな店だ。窓の少ない薄暗い店内はとても落ち着いていて、堅牢な古い木の香りがする。かすかに流れるクラシック音楽に、人々の控えめなさざめき。よくここで本を読むの、といいながら口許にカップを運ぶその仕草の優美さにサンジは見惚れた。
「わかるなあ〜。ぴったりだ、ロビンちゃん」
 天井から壁の辺りをぐるりと見回し、感心したように言う。
「剣士さんも何度か来たわよ。読みなさいと本を渡した側から眠ってしまっていたけれど」
 あはは、と笑いつつ、気になる。それはいったいいつ頃の話なんだろう。まだ。小さかった、十か十一の頃のゾロだろうか。
「羨ましいな」
「私からしたら、あなたの方こそ」
 ロビンにまっすぐ見つめられ、サンジは耐え切れず目を逸らした。ロビンは何も言わなかった。
「あいつの親って…」
 顔を上げると、ロビンは小鳥のように少しだけ首を傾け、サンジの話を聞こうとしている。サンジはごくん、と息を飲み込む。
「何してるの?あいつをひとりであそこにおいて。ゾロはどうして親の所へ行かなかったんだ?どうしてひとりであの家に住み続ける事を選んでいるのかな?」
 サンジはテーブルに両手をついて、懇願するような口調で言い募る。
「たとえば一緒に来いって言ったら?あいつが留学するとか、そういうのは?」
 ロビンは目を伏せ、それは私に聞いても仕方がないと思うわ、と言った。
「剣士さんに直接お聞きなさいな。あなたの心を包み隠さず話すといいわ」
「俺、ロビンちゃんの言ってた意味、分かった気がするんだよ」
 淋しいという事を知らないゾロ。あの大きな家で、たったひとりで大きくなったゾロ。高い天井の下で、ぽつんとソファに座っている小さな背中を思うと、目の奥の方が熱く震える。
 帰国まで、あと二日だ。

 家に戻ると、ゾロはリビングのソファに腰を下ろし、仏頂面で待っていた。
「遅え」
「嘘。そんなに遅くないよ。まだ七時じゃねえか」
 壁にかかった時計に視線を送りながら、サンジは制服のブレザーを脱ぐ。
「家政婦帰っちまった」
「遅くなるって言っておいたんだよ。ご飯、作ってくれたろ?」
 ゾロの目がぐい、とつりあがる。うわあ、と思いながら、サンジは自分の胸がとくとくと早鐘を打ち始めるのに気づいた。病気だ、と思う。
「食わせろ」
「あ?」
 俯いたゾロの耳がわずかに赤くなっているのを見て、サンジは目の前が真っ赤に染まった気がした。
「お前のメシ…」
「…うん」
 思わず優しい声が出てしまう。ゾロが目を上げてサンジの顔を見た。胸がぎゅっと絞られる。たまらない目だ、本当に。
「キスしたくなるからそういう目しないで」
「すれば」
「お前…そんなんで…」
 言っていて泣きそうだ。俺がいなくなったらどうするつもりだ。こんなでかい家に一人で、誰とも心を触れ合わせることなく。
 初めて抱いてからずっと、ゾロの感情が自分にぶつけられるのを感じるたび、サンジはとろけるような幸福感と、言いようのない不安を感じていた。近づいて、脇にたらした手を取る。大きな手は意外とふくふくとしていて、さわり心地がいい。指を絡めると、ゾロの指が巻きついてきゅっと先をつまむ。
 トンネルの中でつながった指先だ、とサンジは思う。顔は見えるのに、つないだ指の先は見えない。見えないから、思うように動かして捕まえられる。見えないから、なおさら離すまいと強く握る。第二間接を折り曲げるようにして親指でひねると、ゾロは眉根をぎゅっと寄せた。
 そのまま二人して、もつれるようにソファに倒れこんだ。

「聞いていい?」
「なんだ」
 サンジの差し出した右腕に頭を乗せて、ゾロは目を閉じている。サンジは肘を軽く折り曲げて右手でゾロの頭をそろそろと撫ぜている。
「お前の親、どうしてんの」
「…さあな。母親は正月に、父親には去年あったきりだ」
「どうなんだよ、それ。ずっとそんなかよ」
「ガキの頃から、そうだな。もう慣れた」
 慣れた、と言って、くっと顔をゆがめて笑ったゾロを見て、サンジは苦いものを飲み込んだように唇をへの字に結ぶ。
「嘘つくな」
「嘘じゃねえよ。しょうがねえ。あいつら、とっくに俺の親じゃねえんだ」
「馬鹿いうな。お前のおやじさんはお前に出来る限りのこと、してくれてんだろ?お前を愛してるからだ」
「義務だと思うからだ。体面もあるしな。そういう意味では、あいつらは俺の親だ」
 サンジは言葉が見つからない。ゾロは親に何の期待もしていないのだ。ゾロの未来に対して何の示唆ももたらさず、ただ己のエゴイズムを満足させるために金を出す親の存在。ゾロは自分の生きる世界から彼らの存在はほぼ抹消している。それは、不幸だと思う。
「……でも俺、親を捨てろなんて言えねえ。かあさんの事もあるから甘いのかもしんないけど。お前にはだって、立派な両親がいるってのに……」
 サンジが言いよどむと、ゾロがおかしそうに肩をひくひくとふるわせている。
「はは、そりゃねえな。あいつらの方が俺を捨てたんだ。俺にあいつらを捨てる権利なんか、最初っからねえ」
「どういう意味だよ」
 考えずに問うと、ゾロが真顔になって、言いにくそうにしながら目を逸らした。
「うちの親、とっくに離婚してっからな。自分たちで好き勝手生きるのはかまわねえが、勝手に生きるために邪魔な子供はどっちもいらなかったらしくてよ」
言う気はなかった、と付け加え、ゾロは眉間に皺を寄せた。
「どっちも、お前を呼ばないの?」
 サンジは涙の膜が目の表面を覆うのを自覚しながら、少し鼻声で聞いた。ゾロが気づいたようで、決まり悪そうにサンジの胸に額を押し付けてくる。
「さあ、そういうこともあった気がするけどな。もうどうでもいい」
 ゾロの声はとても穏やかだ。胸にしみる乾いた声。
(違うよロビンちゃん…)
 サンジは突然理解した。ゾロは淋しい事を知らないんじゃない。淋しい自分を受け入れて生きているだけだ。淋しいことを自分の属性にしてしまっているだけだ。
不幸だという事を知らないんじゃない。これを不幸だと思っていないだけなんだ。
人の決めた基準なんか関係ない。ゾロは…。
 サンジは流れる涙を手のひらですくうように拭う。
「ゾロ…」
「なんだ」
「お前、俺と来い」
「……」
 ゾロのゆったりとした呼吸が、胸に置いたサンジの手のひらに伝わる。
「家に来てさ、家から学校に通えばいい。ジジイは頑固でどうしようもねえけど細かいことは言わないし、たぶん、お前の事をすごく気に入ると思う」
 サンジは右手でゾロの額を撫でる。ゾロは気持ちよさそうに目を瞑り、その手に甘えるように頬をこすりつける。
「飯は文句なく上手いぜ。俺がいくらだって作ってやる。お前は好きな事をやればいい。勉強でも、剣道でも、なんでもさ」
「……冗談、だろ?」
「こんなこと冗談で言うかよ」
 拗ねたように言い返すと、ゾロがくすぐったそうに笑う。ゾロはこうやって笑っているべきだ。サンジは胸が熱くなってゾロの顔を見ることが出来ない。
「十分だ…」
 そう言って笑ったゾロの真意は、サンジには良く分からなかった。    
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