レモンイエロー ストレンジャー 7
赤く腫らした頬に濡れタオルを押し付けられ、ゾロは顔を顰めた。口の中は派手に切れていて、歯に当たると体に電気が走ったように痛む。
タオルを渡してきたサンジも、右目の瞼から縁のあたりを青く染めて、同じく濡れタオルをあてがっている。
「くそ…このバカ力。筋肉だるま」
「先にふっかけてきたのはてめえだろうが」
再び出そうになる脚を懸命に押しとどめ、サンジはギリギリと唇をかむ。
二階の、洗面所のドア脇にぼんやりと立って、空を眺める。正面にある大きな窓の外にぽっかりと月が浮かんでいる。庭の草花は淡く照らされて、昼間とは違う奇妙な生命力を感じさせる。あの庭はおそらく、目に見えないほどの小さな生き物にとって楽園のような場所に違いない。人間にとって多少、害があろうとも。
ゾロは階段の手すりにもたれかかり、その光景にしばし見惚れた。濃藍色の空と、弱々しい光りをまとう家々の屋根がわずかなコントラストを生み出して空間を彩っている。
「てめえを拾ったのは俺の一生の不覚かもしれねえ」
「悪いが拾われたつもりはねえ。さっきのは言葉のアヤだ」
今度は本当に飛んできた脚を、ゾロは半身になって右手だけで受け止めた。威嚇の蹴りだ。本気ではない。
「足癖、悪いなんてもんじゃねえな」
「コックだからな。手は使えねえ」
ゆっくりと瞬きながら目を見開くゾロに、サンジは拍子抜けしたような顔で見入った。
「言ってなかたっけ?」
「初耳だ」
「そうか。まあ、そういうわけだ。今は無職みてえなもんだけど」
「そうなのか?」
サンジはどうでもいい事のようなそぶりでゾロを一瞥し、煙草に火をつけてだるそうに口を開く。
「店が出来なきゃ腕を振るう場所がねえ。あのじいさんが住んでたあそこを改装すんだよ、これから」
そこまで聞いてようやっと様々な事に合点がいった。ゾロはわざとらしく見せつけるように、大きな溜息をつく。
「お前、詮索しない干渉しないは結構だが、それくらいは言え」
「訊かなかったじゃねえか」
まったく怒る気も失せる。庭掃除は、だからか。なんとわかりにくい男だ。
サンジは手すりに腰掛け、斜めに大窓を見上げ、感慨深げに呟く。
「にしても、お前もあほっつうか…」
結局老人には金を渡した。ゾロの全財産に等しい額だ。これで部屋を借りるなり何なりしろと言って通帳ごとくれてやろうとしたら、おろせるか阿呆、とサンジが言って、残高分の現金をどこからか出してきた。怒りながらもその様子はどこか哀しげに見えて、抗う気も失せたので好きにさせた。
「文ナシじゃん。どうすんだ?」
「……当面食うには困らないみてえだしな」
サンジのてらてらした生地のパジャマが月光を受けて光っている。
「は…しょうがねえな。んじゃあ養ってやるか」
俯いて煙草を持った掌で口許を覆ったので、その表情は見えない。しかし声にはわずかに感情が漂っていた。
「食費は入れただろ」
「申し訳程度にな」
再びお互いの腕と脚をギリギリと抑えあう。どうやらこれが俺たちのペースらしい。悪くない、やっていけそうだ。ゾロは初めてそう思った。
「明日は庭掃除出来そうだな」
サンジは部屋から持ってきた灰皿に吸殻を押し付け、洗面所のドアを開けた。蛇口を捻り、軽く水に浸してゴミ箱に捨てる。
「ああ、そうだな」
「俺もやる。できれば早いとこ終わらしちまいたいんだよ」
洗面所のドアを閉め、サンジはもう一度ゾロの隣に立つ。ゾロは大きく伸びをし、寝る、と言って離れた。その背中をサンジがなあ、と呼びとめる。
「しずく、ちゃんと寝てっかな。あいつびっくりするぜ。降りられねえからって、飛び降りるか普通?」
しずくのダイブを思い出したサンジがくくく、とおかしそうに笑うのにつられて振り返り、ゾロも笑った。月に照らされた顔は青白く光って、別人のように見慣れない。正面から顔を合わせるのが気恥ずかしい感じがした。夜とは本来そういうものだと思う。
「あれだって考えた末の行動だろ、たぶん」
「あれでかよ」
サンジはげんなりと口許をゆがめて見せた。ちっとは学習してくれてるとありがたいぜ、とぼやく。ゾロは目を伏せ、唇の片側を引き上げる。
「あいつ、太ってきた。丈夫になってる気がする…お前のおかげだな」
サンジは驚きに瞬いて、そのまま鮮やかに笑んだ。陰影が深くなる。ゾロは柄にもないことを言ったと、小さく舌打ちした。
「まかせろ。お前だってきっちり太らしてやる」
「願い下げだ」
「はっはは!」
月は大きく丸く、二人を包むように冴えた光を投げかけている。
「ホントは」
サンジが再び口を開いた。
「誰かいてくれたらありがたいと思った。別に…」
ゾロは驚いてサンジの口許を凝視したまま言葉を待ったが、サンジはかぶりを振って俯くと、曖昧に笑って背中を向けた。その背中が寝室に消えるまで、ゾロは呆然と見送った。
結果的に借りた形になっていた金は、翌日銀行で引き出してサンジに渡した。
その日のうちに半額分が振り込まれていたのだが、ゾロはそれについては、ずいぶん後になるまで気付くことはなかった。
タオルを渡してきたサンジも、右目の瞼から縁のあたりを青く染めて、同じく濡れタオルをあてがっている。
「くそ…このバカ力。筋肉だるま」
「先にふっかけてきたのはてめえだろうが」
再び出そうになる脚を懸命に押しとどめ、サンジはギリギリと唇をかむ。
二階の、洗面所のドア脇にぼんやりと立って、空を眺める。正面にある大きな窓の外にぽっかりと月が浮かんでいる。庭の草花は淡く照らされて、昼間とは違う奇妙な生命力を感じさせる。あの庭はおそらく、目に見えないほどの小さな生き物にとって楽園のような場所に違いない。人間にとって多少、害があろうとも。
ゾロは階段の手すりにもたれかかり、その光景にしばし見惚れた。濃藍色の空と、弱々しい光りをまとう家々の屋根がわずかなコントラストを生み出して空間を彩っている。
「てめえを拾ったのは俺の一生の不覚かもしれねえ」
「悪いが拾われたつもりはねえ。さっきのは言葉のアヤだ」
今度は本当に飛んできた脚を、ゾロは半身になって右手だけで受け止めた。威嚇の蹴りだ。本気ではない。
「足癖、悪いなんてもんじゃねえな」
「コックだからな。手は使えねえ」
ゆっくりと瞬きながら目を見開くゾロに、サンジは拍子抜けしたような顔で見入った。
「言ってなかたっけ?」
「初耳だ」
「そうか。まあ、そういうわけだ。今は無職みてえなもんだけど」
「そうなのか?」
サンジはどうでもいい事のようなそぶりでゾロを一瞥し、煙草に火をつけてだるそうに口を開く。
「店が出来なきゃ腕を振るう場所がねえ。あのじいさんが住んでたあそこを改装すんだよ、これから」
そこまで聞いてようやっと様々な事に合点がいった。ゾロはわざとらしく見せつけるように、大きな溜息をつく。
「お前、詮索しない干渉しないは結構だが、それくらいは言え」
「訊かなかったじゃねえか」
まったく怒る気も失せる。庭掃除は、だからか。なんとわかりにくい男だ。
サンジは手すりに腰掛け、斜めに大窓を見上げ、感慨深げに呟く。
「にしても、お前もあほっつうか…」
結局老人には金を渡した。ゾロの全財産に等しい額だ。これで部屋を借りるなり何なりしろと言って通帳ごとくれてやろうとしたら、おろせるか阿呆、とサンジが言って、残高分の現金をどこからか出してきた。怒りながらもその様子はどこか哀しげに見えて、抗う気も失せたので好きにさせた。
「文ナシじゃん。どうすんだ?」
「……当面食うには困らないみてえだしな」
サンジのてらてらした生地のパジャマが月光を受けて光っている。
「は…しょうがねえな。んじゃあ養ってやるか」
俯いて煙草を持った掌で口許を覆ったので、その表情は見えない。しかし声にはわずかに感情が漂っていた。
「食費は入れただろ」
「申し訳程度にな」
再びお互いの腕と脚をギリギリと抑えあう。どうやらこれが俺たちのペースらしい。悪くない、やっていけそうだ。ゾロは初めてそう思った。
「明日は庭掃除出来そうだな」
サンジは部屋から持ってきた灰皿に吸殻を押し付け、洗面所のドアを開けた。蛇口を捻り、軽く水に浸してゴミ箱に捨てる。
「ああ、そうだな」
「俺もやる。できれば早いとこ終わらしちまいたいんだよ」
洗面所のドアを閉め、サンジはもう一度ゾロの隣に立つ。ゾロは大きく伸びをし、寝る、と言って離れた。その背中をサンジがなあ、と呼びとめる。
「しずく、ちゃんと寝てっかな。あいつびっくりするぜ。降りられねえからって、飛び降りるか普通?」
しずくのダイブを思い出したサンジがくくく、とおかしそうに笑うのにつられて振り返り、ゾロも笑った。月に照らされた顔は青白く光って、別人のように見慣れない。正面から顔を合わせるのが気恥ずかしい感じがした。夜とは本来そういうものだと思う。
「あれだって考えた末の行動だろ、たぶん」
「あれでかよ」
サンジはげんなりと口許をゆがめて見せた。ちっとは学習してくれてるとありがたいぜ、とぼやく。ゾロは目を伏せ、唇の片側を引き上げる。
「あいつ、太ってきた。丈夫になってる気がする…お前のおかげだな」
サンジは驚きに瞬いて、そのまま鮮やかに笑んだ。陰影が深くなる。ゾロは柄にもないことを言ったと、小さく舌打ちした。
「まかせろ。お前だってきっちり太らしてやる」
「願い下げだ」
「はっはは!」
月は大きく丸く、二人を包むように冴えた光を投げかけている。
「ホントは」
サンジが再び口を開いた。
「誰かいてくれたらありがたいと思った。別に…」
ゾロは驚いてサンジの口許を凝視したまま言葉を待ったが、サンジはかぶりを振って俯くと、曖昧に笑って背中を向けた。その背中が寝室に消えるまで、ゾロは呆然と見送った。
結果的に借りた形になっていた金は、翌日銀行で引き出してサンジに渡した。
その日のうちに半額分が振り込まれていたのだが、ゾロはそれについては、ずいぶん後になるまで気付くことはなかった。
2003.8.15発行(文庫再録/2008.8.15)
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