眠れぬ夜にぼくらが選ぶいくつかのやり方 9

7.(山のあと)


 心臓が奇妙に落ち着かないのは、久しぶりに限界まで回したからばかりではなかった。
 前を行く巻島の日が当たると不可思議に偏光する髪はタイヤが路面を掴む音に合わせ、さらさらと風に逆らうことなくなびいている。
 見慣れた背中に浮かぶ優美な陰影が手招くように揺れている。背骨、腰、サドルの上の丸み。爛れきった脳みそに下半身は容易に扇動され、峰ヶ山の山頂からここまでの間、すでに丸一日かけて難コースを走りきったような疲労を感じている。
 巻島が減速を開始するのにあわせてペダルを緩め、車体を傾けてスムーズに角を折れると、右手前方に、屋敷まわりの樹木と塀、さらに頭ひとつ突き出るような高い屋根が見えた。
 肺いっぱいに空気を吸い込み、ひといきに吐きだす。胸の痛みに変化は無い。口の中は乾いてカラカラだし、もうずっと息苦しい。それでも近づいてくる風景に励まされ、あと少しと言い聞かせながら走った。到着するのにもうどれだけもかからないとわかっていたけれど、ジリジリと背中が焦げ付きそうな苛立ちに急きたてられて、何をかはさておき、もう待てないとそればかりが頭の中にしきりにこだましていた。
 巻島邸の広々とした前庭に入り、右手の、車が三台入っても余裕がありそうな広々としたガレージの片隅に置かれたスタンドに、先に巻島が自転車をかけた。あとについて東堂も横に並べた。
 隣に立つ巻島との距離はわずか数十センチ。人差し指をベルトにかけてもどかしい思いでヘルメットを取り去り、ケージからボトルを引き抜き、残ったドリンクをごくごくと飲み干す。
 巻島もヘルメットを脱いだ。顔を左右にひとふりして髪を膨らませる。東堂は、誘われるようにそれに手を伸ばす。
 汗に濡れた髪がつるりとした感触で指先に絡んだ。ふらふらと吸い寄せられるように顔を近づけると、巻島は振り切るように首を振って長い髪をばさりと翻し、顎を上げてハ、と苦しげに息を吐いた。
 上向いたまま横に流された視線をとらえた瞬間、東堂の胸の中を明確な衝動が突き上げた。
 それでもまだ言葉は見つからないままだった。それは巻島も同じようだった。山を登り続けて限界に近づいたときの、体が千切れそうな痛みに耐えるそれと同じ表情を浮かべて、歯を食いしばっている。きっと今自分も同じ顔をしていると東堂は思った。
 ガレージの中は薄暗く、四角く切り取られた出口の外側に広がる真昼の光が、そこに広がる景色が、まるで別の世界のもののように映る。どこか作り物めいて現実感が乏しく、これが夢ならなにひとつ躊躇わずにすむのにとこの期に及んで怖気づきそうな心を自覚しながら、東堂は巻島と向き合った。
 覗き込んだ巻島の目の中は揺らいではいなかった。東堂が息を飲んだ瞬間、同じように東堂の目の中を覗いていた巻島が突然、東堂の左手首を掴んで駆け出した。
 思い切り引かれて前につんのめりながら、東堂は引き摺られるように後を追った。
 太陽の下に出ると、目の前が一瞬真っ白に輝き、中心に巻島の緑の髪が浮かび上がって左右に揺れていた。見慣れた背中。違うのは、冷たいのか熱いのかよくわからない体温が強く手首に巻きついていることだ。
 玄関ドアにたどり着くと、巻島はポケットから鍵を取り出した。カチカチと金属のこすれる音がして、見ると、鍵を持つ手がかすかに震えていた。
 自由にならない手をそのままに、巻島の肩に顔を伏せて、小さく名前を呼んだ。巻ちゃん。巻島がさらに強く手首を握った。触れたところが汗で湿っている。
 上空から木の葉を揺らしておりてくる風が首筋に触れて流れていく。揺れる枝葉の影が視界をふいに翳らせるのに気持ちを漂わせた刹那、手首をぐいと引かれた。正面に開いたドアの内側には薄暗くてつめたい、静かな空間が広がっていた。巻島は振り返って東堂を見た。その目が、逸らすな、と言っている気がした。
 不恰好に体を傾がせながら玄関で片足づつシューズを脱ぎ、靴下のままフロアに立った。無関係な動作を一つ挟むたびに引き戻されそうになる時間や感情を繋ぎとめようと気ばかりが焦る。待ちきれない思いを吐き出す呼吸は荒く弾んでいる。
 巻島に再び手首を掴まれた。引かれて、脚をもつれさせながら可能な限りの速さでどたどたと走った。階段を上がる間際、振り返った目の端に、乱雑に転がったままのシューズが映った。
 手首を掴む指先から皮膚の内側をじわじわと這い登ってくる熱が、一分一秒を惜しむ巻島の心情をつたえていた。余裕がないのは東堂も同じで、だからよくわかった。汗と砂埃にまみれた髪や体を気にしている暇などなかった。
 少し開いたドアの隙間から体を捩じ込み、足をもつれさせて部屋になだれ込んだ。体勢を崩した巻島が片手をついたのに引き摺られて、東堂も床にくず折れた。
 言葉は相変わらずなかった。一瞬の間に見交わしあい、東堂は膝立ちで、巻島は立ち上がりながら、ジャージの胸元に手をかけた。はりついて肌に絡むのをなんとか剥ぎ取り、床に放って、先を争うように寝室のドアにむかった。
 寝室は笑いたくなるほど明るかった。壁側に大きく取られた窓から眩しいほどの光が差し込んでいる。
 巻島は足を止めた東堂を咎めるように振り返ると、苛立たしげに歯をむいて、カーテンを引いた。らしくない乱暴な仕草だった。すばらしく遮光のきいたカーテンのおかげで室内は薄暗くなった。ドア口に戻り正面に立った巻島に、吸い寄せられるようにキスをした。両手で頬を包んで、柔らかく食むように何度も繰り返す。足を一歩踏み入れると、東堂の背後でぱたりとドアが閉じた。
 じっとりと窺うようにときどき開かれる目が、だんだん甘く溶けていくのを見ながら、なんて大切なんだろう、と強く思った。巻島がいとおしかった。好きだとか、愛しているとか、かわいいとか、そういうものと同じようで、どこか違うような気もする。そして、そのどれもを含んだ一番強い感情として、抱きたいという強い欲望が、東堂の胸の中には、はちきれんばかりに膨らんでいる。
 キスをしたままでまだ履いたままのレーパンのふちに指をかけると、背中を抱いた左手に緊張がつたわった。かまわず後ろから差し入れて、腰から尻の部分を撫でる。巻島は眉根を寄せて俯いた。東堂は耳元に唇を寄せながら二歩、三歩と前に出る。巻島がベッドにぶつかって仰向けに倒れこんだ。
 片手を顔の横について体を支えて上に乗り上げ、もう片方の手でレーパンをおろし、自分のも無理やりにずりおろす。巻島はぎゅっと硬く目を瞑り、東堂の肩に両手を置いて抵抗するように押したが、それは流れの中の仕草以上の意味を持たず、覆いかぶさって唇を塞ぐとその手は探るように髪の中に入り込み、東堂を強く引き寄せた。
 荒く息をつぎ、角度を変えてさらに密着を深める。ひそやかな水音に煽られながら夢中になって繰り返す。
 太ももの辺りで引っかかったままのレーパンのせいで動きづらい。それは巻島も同様だったようで、片膝を立てて横にずらしながら手を伸ばし、自分で片方だけ引き抜いた。
 もうギリギリまで近づいた。そう思って、東堂は巻島の目の中を至近で覗き込む。焦点の合わないぼやけたその中には熱でふやけたあきらかな欲望がたゆたっている。
 目を合わせたまま表面だけくっつけ、離れる。舌を突き出して舐めあう。口の中は暗くて深くて、とても熱い。その中に入っていきたかった。巻島の手が東堂の頭から首へ、頬へと滑って、首でとまる。長い腕が首筋から背筋へと這うようにおりて、またのぼり、後ろから頭を包み込むように回され、髪をくしゃりとかき混ぜる。一連の指先の感触に、体の一部がどこかへ流れ出しそうになる。とどまって、離れては吸い付き、また離れるのを繰り返した。それが精一杯だった。
 ハッハッと子犬のようにせわしない呼吸が隙間を埋めるように膨らんでいく。吐息の熱さが肌につたわって汗が噴出してくる。
「巻ちゃん、……巻ちゃん」
 呼んで、キスをする。発しかけた返事を飲み込み、巻島がそれにこたえる。
 前髪をかきあげて額をあらわにして、そこに唇をおしあてる。髪から汗の匂いがする。肌も。こめかみから耳元に唇を滑らせると、巻島が張り詰めた声で、東堂、と言った。言って、そして、いつもの不器用な笑みをそっと浮かべた。東堂は目を見開き、ぐ、っと腹筋に力をこめて、巻島の胸元に額を押し当ててうめいた。
「ちょ、巻ちゃん、待った……」
「な、に…っ」
「余裕ねえ、んだ……いかんよそれは…、いて」
 ぱちんと頭を横から叩かれ、さっさとしろ、というように巻島の足がどんと上から腰を叩いた。その気になった巻島は意外と乱暴なようだ。だが、そらせた首筋や髪の隙間から覗く赤らんだ耳たぶを見ているだけで十分煽られている自分も、相当なのだと思う。
 肌を探りながら下半身へ手を伸ばすと、巻島はふっと顔をそむけながら、触れやすいように腰を浮かせてゆっくりと脚を開く。
 目の前に繰り広げられる現実についていききれない部分が気持ちのどこかにあって、眩暈を起こしそうだ。
 なぜならこれは巻ちゃんなのだ。あの、登りの巻島なのだ。東堂は目を閉じてぷるぷると首を左右に振った。巻島が飛び散った汗に顔を顰める。
 巻島は背後に肘をついて体を上にずり上げ、枕に背中を押し付けて上半身を斜めに起こし、長い脚で東堂の体をはさむようにする。近い高さで視線を交わすと、東堂はなんとなく泣きたくなって、巻島の胸に顔を伏せてぐりぐりと擦りつけた。巻島がぽんぽんと、まるであやすみたいに頭に触れる。嬉しいけれど少し悔しい。気持ちをごまかすようでしゃくだったが、強引に深くくちづけ、触れたままだった先端を親指で擦った。
 巻島が一瞬ふっと息を詰め、手が遮るように両肩に置かれた。東堂は自分の先端をくっつけて一緒に擦った。触れ合ったそこはとても熱くて、下腹がやわらかくどろどろに蕩けてしまいそうだ。気持ちがいい。小刻みに息を吐きながら、巻島の伏せた睫や、高潮した頬や、唇からのぞく歯に煽られていくのがいっそ爽快だった。そういったものが頭の中で水を吸った綿みたいにどんどんぺっとりと重くなっていって、重みに沈むように、首すじに頭を押し当てる。息を弾ませながらぐにぐにと触るうちに、巻島の手が上に重なって、一緒に動きはじめる。呼吸にまざって耳元を掠めるひそやかな声に背筋が震える。
 しだいに互いの手の動きが強くなる。東堂は巻島の仰け反った首筋にくちづけ、舌を這わせる。手を動かしながら、少し塩辛いそこを夢中で舐めているうちに、巻島がこらえ切れない様子で、あ、あ、と声をあげはじめ、顎を上げて顔を隠すように横に向け、震えながら達した。東堂も腰を震わせ、低く呻きながら、巻島のこぼしたものの上に吐き出した。
 巻島のその顔を見ているだけで頭がぼうっと熱くなってくる。大事にしたいと思う一方で、めちゃめちゃにしてしまいたいという少しばかり後ろめたい欲望が沸々とわいてくる。
 そっと後ろに触れると、巻島の瞑ったままの瞼が微かにぴくぴくと動いた。緩く開いた唇の隙間にかみ締めた歯が覗いている。
 襞の部分や周辺を押したり浅いところを引っかいたりする。そうしていじる手はそのままに、覆いかぶさって抱きしめた。だんだん解れて柔らかくなっていくのにしたがって、巻島からは取り繕う余裕が消えていく。きれぎれの息遣いの下から漏れる声。目は閉じて口を開いた、その顔は次第に赤みをまして、見下ろす東堂の胸をぎゅうぎゅうと締めつけた。いつだって、いつまでだって見ていたい顔だった。
「とう、ど」
 巻島が苦しげに言って薄目を開ける。ちゅ、と宥めるように唇をあわせ、そっとあてがい、少しづつ入っていく。巻島が、は、は、と息を逃がしながら力を抜こうとしているのがわかって、鼻の奥がつんとなる。
 頬をさすり、鼻先をくっつけ、重ね、キスをして、触れるところすべてをいとおしみながら、埋め込んだそれが馴染むのを待った。巻島が、「も、いい」と小さく耳元で言ったのを頼りにゆっくりと腰を動かすと、巻島は歪んだ顔を両手で隠した。
 ゆっくり浅く、ときどき深く入り込んで奥を突くと、巻島があっあ、と声をあげた。頭の中が瞬間的に沸騰したみたいになり、東堂は強く抱きしめたままでがつがつと動いた。一緒に動きながら手と足の両方を東堂に巻きつかせてくるその顔を見ていたら、なぜだか初めて会ったときの、「蜘蛛だ」と言った、その表情が脳裏をよぎった。それだけで、胸の中を満たすふるふるとした緩い水分が溢れ出してしまいそうになる。
「巻ちゃん、まき、ちゃん、まきちゃん」
 呼べば、巻島も短いあえぎの間に、じんぱち、と返す。
(またお前はって言われてしまうな……)
 上半身を起こし、ふう、と息をつく。巻島が片目を開けて、髪をかきあげる。東堂は人差し指を立てて顎の下をつつくと、そこから胸元、腹と掠めながら下ろしていき、最後に巻島のそこをやわく握りこんだ。突きあげながら撫でるように扱くと、巻島の背中が弓なりにしなった。
「く、あ」
 深く奥を突きながら擦り続けると、巻島は両手で口元を覆ってぶるぶると震えながら吐精した。ほとんど同時に、東堂も中で達した。
 天にも昇るような気持ちでくったりと上に倒れこむ。荒い息の下から、クハハと吐息で繰り返す巻島のいつもの笑い声が聞こえ、はりついた胸がひくひくと上下に波打つ。
「い、ってえ」
「痛かったか」
「いてえっショ、あほ」
「気持ちよくなかったか?」
「……なくは、ねえ」
 あははと笑って、ぎゅうっと抱き合った。入れたまま密着すると、巻島が笑いつつも複雑に顔を顰めた。
「中……」
「悪いな」
「余裕ないにもほどがあるショ」
「人の事は言えんだろう、巻ちゃんだって」
 そう言うと、巻島は上気した顔でニヤァ、と笑った。憎らしいやら可愛らしいやらで胸の中がモヤモヤして、ただ、腹の底に残る快楽が刺激されたのは確かだった。
「あああー、もー……!」
「なんだヨ」
「もう一回」
「……風呂いきてえ。体、埃っぽいまんまだしベタベタする」
「風呂でやってもかまわんよ」
「ふ、……」
 あとに続くはずだった「ざけんな」は、口を塞いで吸い取った。
 時間がくればイヤでも離れなければならない。そうしたらまた、次はいつ会えるかわからない。
 でも、会おうと思えば会える。
 会おうと言えば、巻島は必ず答えてくれる。
 ここへ来るまでなんとなく揺らぎがちだった確信が今確かに、東堂の胸には芽生えていた。抱き合ったからそう思うわけではないけれど、でもそうだろうと言われたら否定は出来ないかもしれない。自分でもよくわからない。
(これじゃあやっぱりやりたかっただけと言われてもしょうがないな)
 けれど東堂の舌を絡め取るように動く巻島の薄い舌が、そればかりじゃないはずだと思わせる。
 自分が抱いていた気持ちと同じものをそこから感じ取れるだけの余裕が生まれたのは多分、抱き合ったからこそだ。
「巻ちゃん」
 くちづけの合間に呼ぶと、ん、と鼻を鳴らして答える。
「オレの巻ちゃん」
「のぼせあがんな」
 長い脚が腰に絡まったと思うと、すぐに離れて上からごんと叩いた。
「痛いぞ」
「そうかヨ」
「大丈夫だ、オレだって巻ちゃんのものだぞ……」
 そして、顔を近づけてこつんと額をくっつけ、少し考えながらそっと言った。
「……だから、…やめたきゃやめていいなんてもう言うなよ……泣くからな」
 何が大丈夫ショ、といつもの憎まれ口が返ってきても平然としていようと思ったのに、巻島は何故だか泣き笑いみたいな顔をして、ショ、と小さく言った。胸を衝かれ、また鼻の奥がつんとなったけれど、東堂は奥歯をかみ締めて堪えた。
「今のショならわかったぞ」
「だからそのドヤ顔をやめるっショ」
 首に巻きつく手に引き寄せられながら首筋にキスを落とすと、吐息が耳元に熱く絡みついた。巻島の匂いと体温で満たされることは東堂にとってひどく心地のよいことだった。自分を受け入れ肯定するものの深みに癒やされていると感じられ、とてもとても、幸福だった。
 東堂がそのとき胸にポツリと残る一点の黒い染みについて初めて意識したのは、だからだろう。
 教室の真ん中で見た、青ざめた顔。忘れているつもりでも、その小さな引っかき傷はずっとじくじくと東堂の胸の中で膿み続けていた。
「巻ちゃん、オレ……、オレな、実は」
「なんショ」
「最近ちょっと、落ち込むことがあってな……、うまく言える気がしないし今はちょっと言いたくないんだが、そのうちきっと言うから、その時は聞いてくれ」
 巻島は何も言わなかった。まわした腕でポンポンと東堂の肩を、ただ優しく叩いただけだった。
 差し込んだままのものが再び熱を持ち始めていた。軽くゆすると巻島がぱっと顔を仰のかせて体を固くする。手を伸ばして触れると巻島のそこも兆していた。
 カーテンの隙間から微かに漏れる光が床に細いラインを引いている。窓の外にそよぐ緑の音を遠くかすかに聞きながら、東堂は今が真昼であることに感謝した。
 理由はわからないけれど、今が昼でよかったと、心から思ったのだった。
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