眠れぬ夜にぼくらが選ぶいくつかのやりかた 4

3.(東堂)


 荒北が勢いよく閉じたドアの残響が消えると、誰もいない室内はしんとなった。外に面した窓は開いているが風はなく、熱がこもってこめかみから汗が滴った。
 昼休み以降人の顔を見てはにやにやする連中に不快にさせられてばかりで、東堂はそれに辟易して部室へ逃げ込んだようなものだった。知った顔知らぬ顔問わず、おまけに変に因縁を付けてくる奴までいた。女がらみで恨まれることはこれまでにもなかった訳ではないが、今回ばかりは残念ながら分が悪い。自覚しているだけに不機嫌なまま黙りこくるしかない。そういう忍耐は、東堂のもっとも苦手とするところだった。
 校内には落ち着ける場所がない。巻島に電話をしたいけれど今日の事は絶対に話せない。しかし察しの良い男だから、なにか普段と違う雰囲気を感じ取って何かと問われてしまうかもしれない。そうなったらうまく取り繕える自信がない。
 だいたいここのところはいつだって声を聞いただけで走り出したいようなむずがゆさに胸の内を擽られて、平静でいられないのだ。そういう自分をさらけ出して平気な場所が、全然思いつかない。
(会いたいなあ)
 教室から部室へ向かう間、つきあっている者同士で下校する姿などを目にして、少し落ち込んだ。
 そもそも東堂は、ここのところずっと落ち込んでいるようなものだ。教室の中で冷たい視線を浴びようとそれすら気にかからないくらい、巻島と思うように会えない境遇に、絶望すら感じていた。
 千葉に巻島に会いに行ってから、すでに半月以上たっている。
 出かけていく前はまさかこんなことになるなんて想像もしていなかった。山頂を競ったあの日ことを簡単に過去のことにしてしまうのを惜しむあまり巻島とその日のことについて語り合うことすら出来ずにいたというのに、あの苦悩はいったいなんだったんだろうか。
 男をそういう意味で好きになれるなどと思ったことはなかったが、触れてしまえば垣根はあっさり崩れさった。切なげに顰められた眉や、強く閉じた瞼や、食いしばる口許や――、隙間から漏れる吐息、汗のにおい。思い出すだけで体が熱くなる。熱のやり場に困って、呆れるほど何度も繰り返して、懊悩を深める毎日だ。
(巻ちゃんはそんなことないんだろうか……まさかな。でもいや、わからんぞ巻ちゃんは……)
 巻ちゃんは、いったいいつから、オレのことを好きだったんだろう。
 ほとばしる感情のままに好きだと告げた自分を、巻島は不思議なほどあっさりと受け入れてくれた。ような気がする。
 気がするだけで実際は違うかもしれない。だがノーマルな嗜好の持ち主なら、そんな事態になれば普通は引くだろうに、拍子抜けするほど容易かった。何も変わっていないのじゃないかと不安になるくらいに。
 逆だったらどうだったろう。もしも自分が巻島に告白されていたとしたら。
 見上げた天井の煤けたパネルが眼前にぐんぐん迫ってくるような心地がして、東堂は目を閉じた。
 好きで好きで、好きで。声が聞きたくて顔が見たくて。
 会いたい、抱き合いたいと、芽生えたばかりの若い欲望は自分でも戸惑うほどにとどまるところを知らない。けれどもそれが一方的な押しつけになっていないかどうか、東堂は最後のところで自信が持てずにいる。
 つきあおう、一緒にいようと言って笑った。それは事実だけれど、こうして毎日鳴らない携帯を手にしていると自分ばかりが好きなような気がして焦る。
 カチューシャからこぼれた前髪をくしゃりと掴んで額を押さえ、肘をついて顔を伏せる。食いしばった歯の隙間から息が漏れる。急激に昂ぶる気持ちが抑えきれず涙が出そうだ。
(つらいな……)
 山頂で隣にいた、あの時は最高の気分だったのに、あの気持ちを一瞬でも忘れるくらいにまるきり別の熱で胸の中を焼かれる。爛れて、腫れ上がって、ひりひりしている。
 いろんなものがとても遠い気がする。
 後輩たちが部室で回すローラー音が、壁越しにずっと聞こえている。一分です、という掛け声が響く。その音に耳を傾けるうちに、昂ぶった気持ちがゆっくりと静まってくる。
 はじまったのだな、という感慨が胸をよぎった。秋の新人戦に向けて部内で凌ぎを削りあっている後輩達は、すでに来年の夏を目指して走り始めている。
 去年の今頃のことを思い出して、またいっそう遠くへ来たことを実感する。
 あたりまえだ。ライバルだったのだ。
 憎しみめいた対抗心を抱いたことはなかったけれど、いつだって絶対に負けたくない相手だった。巻島に勝つのは自分でなければならなかったし、自分を負かす相手は巻島以外考えられなかった。お互いがお互いでなければならない、そういう相手だ。それは今も変わらない。
 告白をした日のことを何度もはじめから思い出している。何度想像しても、共にあろうと思えば、後追いする気持ちは常に恋に近づいていくばかりだ。
 もしかすると初めからずっと、恋だったんだろうか。巻島に対して持ち続けた強い執着が行き着く先は、どう転んでもここだったんだろうか。
 と、頭ではそれなりにいろいろ考えるのだったが、東堂の巻島への感情は肉体的な欲望と強く結びついていて、現に今も、不意によみがえる余韻のような感覚が体の奥底をせつなく揺さぶっている。東堂は鳩尾あたりを締め付けられるような苦しさに大きく息を吐き出した。
「あーあ」
 千葉から戻ってからずっとこんな調子だ。自転車に乗っても今ひとつ集中できない。なのに教室では女子達の視線に痛めつけられてたりして、これで落ち込まない方がどうかしている。
 窓の外が何かの反射できらきら光っている。薄いガラスは汚れて白く濁り、空の色すら曖昧だったが、光は鮮明だった。狭い室内全体が光を受けて白く膨張する。東堂は目の上に手をかざし、光を放つものの正体を見極めようと試みたが、眩しすぎて何も見えなかった。
 ただ、巻島に会いたい、と思う。
 ふとしたときに頭の中に浮かぶのはいつもそればかりだ。
 会いたいときに会えない。一緒に山に登っていた頃とは違う意味でそのことがひどくもどかしい。自分達の間に横たわる距離や、時間や、高校生という中途半端な不自由さや、そういった諸々が積み重なって、とても高い壁になって聳えている。巻島との恋は初めから手探り過ぎて、先行きはずっと不透明だ。
「なにしろ巻ちゃんだからな……」
 無愛想で不器用でぶっきらぼうで、そのくせ人を良く見ていて、お人好しでやさしい。笑うのが苦手で、でも自然に笑った顔は目許が柔らかなカーブを描いて、見ているとほっとする。
 きっとずっと前から、この気持ちは体のどこかに潜んでいたんだろう。インターハイが終わったことによって、今まで通りでいることが困難になったのだとしたら、この形に変わったのはたぶん、自然なことなのだ。
 巻島にとっても、きっとそうだ。
 東堂はカチューシャをはずしてざっと前髪をかきあげ、付け直した。鼻から息を吸って肺を膨らませ、大きく吐き出す。室内に蟠った汗と埃のにおいが、すでに懐かしいもののような気がした。
(よし)
 携帯を握り締める親指に力を込めて数をかぞえる。いち、に、さん。耳に当てた瞬間、もしもし、と声がした。
 平坦な、抑揚のすくない声。つれないようだが、これは多分、感情を抑えて相手の出方を伺うための、いわば擬態だ。
 それでよかった。嬉しくてたまらないなんて声を上げられたら、それこそ驚いて心臓がどうかしてしまう。
「元気か巻ちゃん」
『昨日も喋ったショ』
 声を聞いているだけで顔が熱くなってくる。心臓も山を登っているときみたいにバクバクとうるさく鳴って苦しい。
 こうなるのがわかっているから簡単に電話なんか出来ない。メールは返事がなかったらつらいし、とにかくあらゆる場面で今、東堂には、巻島に対する耐性がまったくない。声が聞きたい一心でかける電話だからたいして話題もない。インハイ前はいったいどうやって、何を喋っていたんだろう。全然思い出せない。
 そうして結局、場当たり的にお茶を濁すことになる。
「今日は、学校どうだった?」
『べつにいつもと変わりねえよ。顔ぶれも同じだしな。ああ、鳴子が今朝派手に落車して、自転車ちょっと壊したとか、そんくらい』
 鳴子というのはたしか赤頭のスプリンターだな、と頭の中で確認する。
「大丈夫なのか?」
『体はな。自転車はなじみのとこに預けたし大丈夫だろうけど、乗れねえで落ち込んでる。気持ちはわかるショ』
「巻ちゃん、今日部活出てるのか?」
『いや。もう家だ』
「オレ今、部室」
『……誰かいんの?』
「いや、ひとりだ。建物の一番奥に物置のような部屋があってな、そこにいる」
『ふうん』
「巻ちゃん」
『なんだヨ』
「会いたいな」
 巻島が口を開いてそのまま無言で閉じたのを、かすかな吐息が知らせる。
「今すぐ。あー、なんでここは千葉じゃねえのかな」
『……バカ言うなショ』
「なあ久しぶりに登ろう巻ちゃん。場所はどこでも。こっちでもいいし、オレがそっちに行ってもいい。全然違うところだってかまわない。来週か、再来週。どうだ巻ちゃん、都合は?」
 巻島は明らかに息を呑み、ん、と小さく飲み込みそこねた声が喉を鳴らした。
『再来週のほうが都合がいい』
 すぐにでも会いたい気持ちを抱えてさらに二週間というのは今の東堂にとっては苦行以外の何ものでもなかったが、あとに続いた巻島の言葉を聞いてしまえば、もう頷くしかなかった。
 二週間後。千葉。巻島の家。
 親いねえし泊まればいい、と。
 巻島が、普段よりも少し細い声で言った。
「あ、そ、そうか。巻ちゃんがいいなら、オレはそれでかまわんよ」
『ん、じゃあそれで……あ、来た』
「なに?」
『悪ィ。田所がDVD借りて家に来るって言ってたんだよ。来たみてえ』
「え?」
『悪いな』
 電話口で、クハ、と小さく笑う声がした。
『夜電話する。遅くなるかも知れねえけど』
「いや、大丈夫だ。無理しないでいいぞ。うん、また」
 電話は巻島のほうから切れた。全身から力が抜けて、東堂は大きくため息をつきながら背もたれに体を預けた。息が詰まったようになって、胸が苦しい。ドキドキと早鐘を打つ鼓動にあわせて、血の巡る音が耳打ちでざあざあと聞こえるようだ。
「……少し、の、乗るか」
 こんなときは走るに限ると、東堂は経験によって知っていた。まだ荒北がいるかもしれない。それとも真波を連れ出そうか。無論ひとりで登るのだっていい。
 日が落ちるまではまだ間がある。東堂はいくつかのコースを思い浮かべながら、埃まみれのミーティングルームをあとにした。
[TOP / NEXT]