眠れぬ夜にぼくらが選ぶいくつかのやり方 7

「う、巻ちゃん、だから……えーと」
 東堂はがしがしと長い前髪をかきまわしながら頭の中を整理する。
 自分のことを好きなのはわかった。でも、流されている面があることも否定はしないという。それは好き嫌い以前の問題、だと。
 なるほど、確かに巻島はリアリストなのだろう。どちらに転んでも感情に説明が付けられるくらいには、冷静にこの状況を見ているだけなのだろう。それは東堂にもよくわかる。
 わかるけれど、言葉の端々にどこか諦めの混じったような、それには少し、腹が立った。
「オレに反応するんだよな?」
「ああ」
「オレも巻ちゃんに反応するぞ」
「見てりゃわかる」
「巻ちゃんにだけだぞ。気持ちいいからだけじゃない。巻ちゃんだからだ」
「……ん…」
 巻島の顔がみるみる赤らんでいくのを見ていたら、東堂も照れくさくなって、うう、と小さく呻きながら立てた膝に顔を伏せた。
「さすがに照れるな……」
「……ショ」
 違う、と思った。現状と、自分の感情と。どちらも納得させられるようなうまい説明なんて簡単に見つかるわけがない。この気持ちが、そんなに簡単なことのはずがない。
 好きだと思うだけでどこまでも走っていける気がするのに、こんなに自由な広がりは他にないと思うのに、同じ言葉が違う現実を見せて、気持ちを縛ろうとする。
「でもま、なんでこんなことになってんだろうなァとはときどき思うショ」
 巻島が心底途方にくれた様子でため息混じりに呟いた。
「すまんな……」 
「バカ、あやまんな」
「はは、だがまあ、オレが言い出さなかったらきっとこうはなってないんだろう……?」
 事実巻島は流されていると認めている。東堂が考えを変えるならそれもかまわないとさえ言っている。自分を思いやって言ってくれているのもあるだろうが、そのほうが楽だという思いを、巻島自身どこかで感じているんじゃないだろうか。
「……かもナ」
 巻島は相変わらず笑うのがうまくなくて、口の両端を引きつらせて頬をわずかに持ち上げて歪める。その妙な顔つきを見ていると自然と口許が綻ぶ。
 隣でぎこちなく笑う男の肩に手を回し、きゅっと引き寄せた。巻島はさからわず、東堂の肩にもたれてくる。長い髪が頬に触れ、鼻先をさらりと流れた。
 顎を上げて巻島の頭に頬をよせる。まだほんのわずか湿り気の残る洗いたての髪から、いつもの巻島のにおいがした。目を閉じて、大きく息を吸い込む。
「だがもう、言ってしまったしな。言葉は戻せんし、オレはやっぱり巻ちゃんが好きだし、でもオレだって考えたんだぞいろいろ」
「何をショ」
「それはさておきわがままを言ってもいいだろうか」
「おめーがわがままじゃないときなんてあったか?」
「ハハ、そりゃないぜ巻ちゃん。だが思ってる事を全部言ったら事実かもしれんなあ」
 東堂はそこで言葉を切った。すう、と息を吸った。
「もっと会いたい」
 巻島がはっと息を呑むのがわかる。
「巻ちゃんと、もっと話したい。自転車のこともそれ以外のことも。巻ちゃんのことをもっと知りたい。……抱きたい。出来ればオレがしたいが、巻ちゃんがどうしても嫌ならそこは善処する。たくさん考えたが、オレはやっぱり巻島裕介が好きだ。巻ちゃんとずっといるってことがどうしても、オレにはそういうことになる。他の方法がわからない」
 巻島が見ているのはわかったが、東堂は少しの恥ずかしさと恐れとで、見返すことが出来ない。
「お前セックスしてえだけなんじゃねえの?」
 クハ、と笑いまじりに言われて、目の前が真っ赤になった。心臓はバクバク鳴りっぱなしで、頭がくらくらする。東堂は力の入らない腕を叱咤して伸ばし、横から体を抱きしめる。
「そうかもしれんが、巻ちゃんだけだ。なんでお前なのかと思うが止まらん。声が聞きたいし顔が見たいし、触りたい。いつもそう思ってた。もうずっと長い間、そう思っていたんだ」
「……インハイより前から?」
「……抱きたいまではな、思ってなかったけど。今振り返ると大差ねえよ。寝ても覚めてもお前との勝負の事ばかり考えてた。楽しみで楽しみで、そうだな。白状すれば、その事を思うと下半身に来てたな、たぶん。その頃はそこと結び付けて考えてはいなかったが」
 ハハ、と半ば嘲るような笑いを漏らすと、巻島はおめーばかショ、と消えそうな声で呟く。その頬や耳の先端は赤く染まっている。
「呆れたか?」 
 声に弱気が混ざったのを見透かしたみたいに、巻島はクハハ、と静かに笑った。
「会って登って、次がこんなに長いと思ったのは初めてだったぜ。箱根まで行っちまおうかと何度も思った」
 笑って、少し間を置いて、そう言った。まるで暗闇にしたたる水滴のような呟きだった。前触れもなくふりかかり、東堂は驚きのあまり体をかたく緊張させた。
「巻ちゃ……」
「くるのが遅えんだよ」
「巻ちゃん……」
 ああ、だめだと思ったら、もう視界がふるふるとぼやけていた。すん、と鼻を啜ると、泣くなショおめえはまた、とひどく優しい声で言われた。
「こうなるのだって巻ちゃんだけだ」
「ん……」
 巻島は立ち上がって机の脇に置かれたティッシュを取って、また隣に戻ってきた。差し出されたそれを二枚引き抜いて、東堂は目と鼻を拭った。
「おめえの話はわかった。けどまあ、気持ちはひとつじゃねえショ。離れてる分揺らぎ方もでかいし、会わない時間が長えと余計なことも考えちまう。お前だって覚えがあるだろ。ましてオレとお前じゃ、冷静に考えればおかしいことだらけだ」
「そんなことはない、巻ちゃん」
「オレもそう思う。けど、わからねえ、とも思う。考え始めると迷うばっかだ」
 今日好きだと思っても、明日は勢いだけかもと思う。会えないのが苦しいから、時にはやめたっていいとさえ思う。そのくせ近くにいる仮定の誰かを想像して、勝手に嫉妬している。
「おかしいことだらけなのにごちゃごちゃ考えるからますますわからなくなるショ」
 巻島は背後の本棚に背中を預け、天井を見上げて息を吐いた。
 東堂はその横顔を、かすかに開いた口許や長い睫を、じっと見つめた。
「オレの気持ちは変わらんよ」
「わかってる。……まだ始めたばかりショ」
「うん」
「お前こそわかってんのかヨ」
 そらせた首を今度は前に折り、そこから斜めに見上げてくる視線。からかい混じりの口許はにやけている。
 教室の真ん中で気持ちを告げてきた彼女の呆然と青ざめた顔がその上にうすく重なった。申し訳ないような切ない気持ちが込み上げて喉の奥が震えた。奥歯をかみ締めてこらえる一方、巻島に対する痛いくらいのいとしさで胸がつまる。宿敵を睨みつけるようなぶっきらぼうな上目遣いは、出会った頃からずっと、ほかの誰でもない、自分にだけ向けられるものだった。
「……もちろんだ、巻ちゃん。いやというほどな」
「クハ……ほんとかァ?」
「む。どういう意味だ」
 巻島は目を伏せ、口許を軽く緩めて笑っている。
「はじめに言ったとおりだ、興味本位や気まぐれで男相手に好きだなんて言わんよ。ましてや巻ちゃんに」
 大事な―――二年もの間、時にはチームメイトの誰よりも近くにいた大事な大事なライバル。代わりなんてどこにもいない、絶対に失いたくない存在。
 目を見て、顔を近づける。巻島が唇を突き出すみたいに歪めている。照れているのかな、と思いながら目を閉じる。互いの呼気がわずかな隙間にわだかまり溶け合って、鼻の下がちりちりする。熱いと思う間もなく唇が重なった。やわらかい舌が上顎から歯の裏側へと動くのを追いかけて絡ませ、吸い上げた。口を開けて、真ん中で押し合うみたいにしながら、唾液を交換し合う。
(オレとお前がこんなキスをする日が来るなんて、どうやったって想像出来るはずなかったじゃないか)
 腕をつかみ、手繰って肩を抱き、顔を挟み込んで、髪をかき上げる。東堂がする動きをそのまま、鏡の中にいるみたいに巻島が繰り返す。
 ぬるりと柔らかな甘い舌。頭の芯は熱をもったようにぼうっとしている。合間に合わさる視線で相手の気持ちや動きをさぐり、降りつもる呼吸に快感を煽られ、磁石で引き寄せられたように、お互いをつかまえて離すことができない。
「巻、ちゃん」
 巻島は答えず、東堂の頭を長い腕の中に抱え込むようにして、深く深く唇を合わせてくる。気持ちよくて頭の中がふわふわと空っぽになっていくのがわかる。
 はあ、とため息をつきながら離れると、頬を上気させた巻島は頭をひとふりして、横向きにくにゃりと倒れこんだ。
「ギブアップか巻ちゃん、だらしがないな」
「ギブでいいショ。もう、なんか……」
 しんどい、と、かすかな声がした。薄く開いた唇は濡れて赤く染まっている。そして額にかかった髪を指でかきあげ、けだるそうに瞼を落とし、
「ねみィ」
 と言った。
 確かに疲れているような気もするし、眠くもある。だがここで止めるのも少しつらい。東堂がそう声を上げようとするのを制すように、巻島は右手をさっと上げて、東堂の眼前でとどめるように開いた。
「……こっちの部屋に布団敷くから、お前はそこに寝ろショ」
 東堂は一瞬息を呑んだが、巻島はさっさと立ち上がり、背中を向けて寝室のドアを開けていた。言葉どおり、布団を取りにいったらしい。
 揺れる、と言った。そして、その幅も大きいのだと。
 熱くなった頭が冷えたときに、何一つ変わらない周囲を見渡して、そこだけが不自然に形を変えていることに気付く瞬間。つまりこれがあちらに振れている状態なのだと、そう東堂は思った。巻島自身、そうと自覚しているわけではないかもしれないが。
「自分でやるよ」
 東堂は立ち上がり、巻島のあとを追った。ドアのすぐ向こうに、寝具を一式抱えた巻島が立っていて、東堂の姿に気付くと丸ごと渡してきた。
「真ん中に敷けばいいか?」
「どこでも好きに」
「実は今日こそ巻ちゃんの近くで眠れるかと楽しみにしていたんだが」
「ばァか。ねえよ」
「ム。馬鹿とはなんだ」
「クハハ。いびきかくなよ。隣まで響くからナ」
「美形はいびきなどかかんのだ」
「こないだかいてた」
「えっ、うそだろ!」
 巻島は眉尻をやわらかく落とし、クハ、と口を開けて笑った。
「巻ちゃんの寝顔を見にしのんでいくからな」
「さすが忍者ショ」
「忍者言うな」
「寝顔だけでおさまんのかァ?」
「いや……無理だ。おさまらんな」
 巻島が横顔を向けたまま、ふと真顔になった。
「クハ、そうか」
 声は柔らかかった。だから、わかってしまった。
「……おやすみ、な」
 東堂は言いかけた言葉を飲み込み、かわりに笑って言った。思ったよりも無理なく笑えたことにほっとした。
 巻島は何か言いたげな様子で振り返ったが東堂のその表情につられてか、珍しくふわりとやさしげに笑んだ。
「おやすみ」
 ドアが閉じられたあとも、東堂は少しの間それが再び開くのじゃないかと期待して待ったが、隣室でかすかに聞こえていた物音は、ほどなく消え、室内は痛いほどの静寂に包まれた。
 風はいつの間にかやんでいた。 
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