眠れぬ夜にぼくらが選ぶいくつかのやり方 2
2.(荒北)
箱根学園自転車部の部室はL字型の建物で、室内練習用のさまざまな設備が整っている。ほかに更衣室と、一番奥まった所にミーティングルームと呼ばれる小部屋があって、高校生の男ならば五人も入れば窮屈なくらいに狭い。一般的には物置と呼ばれるスペースだ。
古びた木製のテーブルが真ん中に置かれていて、そこに椅子が二つ。小さな棚がひとつドア脇の壁に据えられ、誰かが持ってきて放置した数週前のマンガや過去の部活ノートの束や、古くなった機材や道具類など、捨ててもいいようなものが適当に放り込まれている。
不用品見て来い、と先輩に指示されて下級生が探しに来るのがこの棚であり、先ほどから荒北がかき回している木箱も、棚に収められたそうした放置物のひとつだ。探しものらしく、周辺には中から取り出したらしいボロキレやガラクタが散らばっている。
「なんだァ、気が抜けてんのか」
荒北はしゃがんだまま、背後の男に声をかけた。
「あ?」
「電話すんならすりゃあいいだろ。鬱陶しいんだよお前」
「……鬱陶しくはないな」
「じゃあうぜえ」
「うざくもない」
テーブル脇の椅子に座っている東堂は、手の中の、携帯をじっと見つめる。その白い機械は、体温と同じくらいにぬるまっている。
「さっきから何をしている」
携帯をズボンのポケットにしまいながら、東堂は訊ねた。
「古いほうのロッカーの鍵が足りねんだよ。予備あったろ」
「……そうか。オレは知らんが」
「おめーに聞いてねえよ……それよか聞いたぜ。昼間教室のど真ん中でやらかしたらしいじゃねえか」
「その話か」
不機嫌を隠さない声に、荒北は呆れ顔で振り返る。
「ばっかじゃねえの。つきあっちまえばよかったんじゃねぇかよ。おめえ女ならなんでも好きだろ?」
東堂は顎を上げて威嚇するような目つきで荒北を見下ろし、うんざりと言った。
「ひどい言われようだな。まあでも、今回ばかりは否定はせんよ」
言葉尻に重くるしい溜息が混じる。
ひとづてに聞いただけで細かな状況までは想像しようもないが、どうもこれはいつものモテ自慢とは少し違うようだ。荒北は再度背を向け、ごそごそと木箱を探る作業を再開した。
「んだヨ、おめーらしくねえ。なんだってもっとうまくやらなかった。あれだろ、春ごろから噂あった」
三年になって早々、クラスの女が東堂に告白した話ならば、今ではおそらく全校生徒が知っている。東堂が、断ったような待たせているような、そういう状況になっていることまで、すべてだ。
「後回しにしてたことは認めるよ。忘れてたわけじゃないんだが、まさか新学期早々そういう話になるとも思わなくてな」
「そりゃ甘かったな。三年がのんびりできる時間なんかもうほとんどねえんだ、相手も必死だろ……あー、あった」
荒北は目当ての鍵を見つけた。針金を適当に巻いて作った鍵束から外れて、破れた布キレに絡まっていた。やれやれと箱を棚の一番下の段に突っ込む。立ち上がってドアノブに手をかけながら、相変わらず携帯を眺めている東堂を見下ろした。
「で、電話だかメールだかしらねえが、しねえの。謝んだろカノジョに」
「は?」
「違うのかよ、ならなおさらさっさと…」
荒北は言いかけて、ふと口を噤んだ。
さっさと電話できない相手、かどうかはわからないが、東堂が電話する相手であれば真っ先に思い浮かぶ顔がひとつあった。荒北は気づいて、口許を大きく歪めてあざ笑うような表情を作る。東堂は黙って見上げている。
「ま、好きにしな。おめーが鬱陶しいのなんか今更だ。山でも登ってくればァ?」
荒北は軽く言って、踵を返して外へ出た。
(千葉まで出かけてわざわざ喧嘩でもしてきたってのか?……わっかんねえ)
考えながらローラーを並べた練習室に向かう途中で、泉田とすれ違った。
「お、おまえ、これあいつに渡しとけ」
「は?え?あいつって誰です?」
「一年だよ!夏休み終わって入部してきたのんびり屋の分だっろ!」
「あー……」
「ったく。二年しっかりしろよぉ?」
新主将の泉田が面目ないといった具合に俯いて、頭をかくかわりに自らの両胸をひと撫でした。
二年唯一のインターハイメンバーだから順番からいって当然なのだが、荒北の目から見るとまだまだ周囲に目を配り慣れていない。いずれ肩書きどおりに振舞えるようになるだろうが、それまではこうしたことも仕方がない。
などとわざわざ言う必要もない言葉を飲み込んだところで、ジャージのポケットに入れていた携帯が鳴った。着信音は三年のチームメイト。見れば、泉田が慕う、東堂と同じクラスのスプリンターからだ。泉田に片手をあげてすれ違いながら、荒北は携帯を取り出し、耳に当てた。
「あー?」
『ちょっと話があるんだ。これから時間あるか?』
「いいけど何だよ」
『うん、電話じゃちょっとな。出てきてくれ。寿一の家に移動してる』
「福ちゃんそこにいんの?」
どうりで姿を見ないと思った。福富はインハイ後もほぼ休みなく部活に顔を出して自転車に乗っている。本人はトレーニングする為だけのつもりだろうが、さすがにそろそろ煙たがられているという声が荒北の耳にも届いている。それもあって、今日は新開が連れだしたんだろう。
「わかった、東堂は?部室にいるぜ?」
『いや、……出来ればオレたちが会うことにも気づかれないように頼む』
「なんだぁ…?」
新開に限らず、この面子でこんな面倒くさい話は珍しい。初めてではないだろうか。だがおかげで大体話の予想がつく。昼間東堂の身に起きたらしい出来事についてだろう。わざわざ勿体つけて呼び出すからには、自分達が知っておいたほうがいい何かがあるのに違いない。
「まあいいや、すぐいくわ」
『待ってるよ』
電話を切ると、わんわんと鳴く蝉の声に暴力的に取り囲まれた。周囲を埋め尽くす圧倒的な音の氾濫に、荒北は一瞬ぽうっと立ち尽くした。
右後方のミーティングルームのドアをゆっくりと振り返る。
東堂はまだあの中にいる。ひとりで。
電話をしているか。メールを打っているだろうか。相手が誰だろうと知ったことではないが、東堂がぼんやりと静かなのはどうにも不自然で、胸がざわつく。電話の相手の何かがあの煩い男をそうさせているのだと思えば、問い詰めて、らしくないと怒鳴りつけてやりたいような衝動にかられる。新開の話には、自分のこの違和感の答えも用意されているのだろうか。
「あー……たりぃ…」
部の一年が正面から歩いてきた。荒北の顔を認め、お疲れ様です、と大声で叫びながら会釈する。おう、と答えて自転車に向かう。
蝉の声はやまないまでも、遠のく距離が短くなりはじめていた。夕方になれば草のかげで虫が鳴く。箱根の秋は下界よりも、少しだけ早い。
福富の家に着いたときには、もう五時近かった。二人は福富の部屋にいると案内されて、二階に上がる。三年間何度も通った家であれば、福富の家族も慣れたものだ。
「早かったな」
ノックしてドアを開けると、正面窓下のベッドに座った福富が言った。新開はその横で畳の上に腰を下ろし、壁に背中を預けている。二人の間には小さなガラステーブルがあり、一・五リットルのポカリのペットボトルと、グラスが三つ置いてある。
「ちょっと急いだ。新開がもったいぶった言い方すっから……あー、あっちィ」
パタパタと顔をあおいでいると、新開が乾いたタオルを投げてきた。荒北は受け取り、顔から髪までをざっと拭った。
新開とガラステーブルを挟んで反対の位置に座り、勝手にポカリのキャップをはずして、自分の分を注ぐ。
「で?何の話だって?」
正面にある福富の顔を見上げると、福富は右の新開をちらりと見て、言った。
「オレもまだ聞いていない」
「あ、そ」
「うん、ま、大体想像はしてるだろうが、昼間の話だ」
新開が口を開いた。
「東堂が答え迫られて振ったっつー……」
「そうだ。まあ簡単に言えばな」
「珍しいな」
たしかに珍しいが、福富が言うとなぜだか重々しく、東堂がひどい失敗をしたみたいに聞こえる
東堂はそういった部分について実に如才ないところがあって、女好きと有名なわりに悪評が少ない。たまたまかもしれないが、それ自体が東堂という人間の一面をあらわしていると、荒北は思っている。
春に東堂に告白したという噂の相手は、在校生なら誰もが知っている校内でも一、二を争う美人だったのだが、インターハイが終わるまではレースに集中したいという東堂の意外にもまっとうな返答によって、有耶無耶なまま関係は宙に浮いていた。一部の女子からは相応の非難があったらしいが、胸を撫でおろした女子も同じくらい存在するはずだというのが傍観者達の結論だった。
ハコガク自転車競技部内はというと、それなりに荒れた。下級生の中にも彼女のファンはいたらしい。一方そんな彼女を待たせているという解釈から、東堂はおかしな風に株を上げたりもしていた。だが東堂は結局のところ東堂なので、噂の的になるのを喜びこそすれ多少のやっかみなどは平然と受け流し、内心ではどうあれ傍目には日々淡々とペダルを回していた。そのことがさらにまた別な意味で東堂の株を上げていて、その間実際に東堂の頭の中を占めていた人物の名を知る自転車部の三年たちは、知らないというのは幸せなことだと半笑いで眺めたものだった。
「んでも、そんなことべつに今更じゃねえか。ほかになんかあんだろ?」
荒北は口端を引きつらせ、新開を横目に見ながら言う。
「うん、まあそうだ」
「そうなのか?」
福富が今気づいたように言う。話聞いてたか寿一、と新開が諭すように返した。
「新学期に入ってさ、あいつ部活に来ないだろ。今日部室来てたって、乗りに?」
問われて、荒北は首を横に振る。
「ミーティングルームで携帯握ってため息ついて、うぜえのなんの。乗りにきた感じじゃなかったなァ」
「靖友、小田原で千葉から帰ってきた尽八に会ったんだろ?具体的にはどういう感じだった?何を話した?」
「あぁ?……どんなって、どんなだったかな」
やっぱり千葉が原因か、とうんざり思いながら、荒北は腕組みをして首を捻る。
「駅前に自転車組んでるやつがいるのが遠目に見えて、近づいたらあいつだったってだけで」
「巻島に会って何を話したとか、なにがあったとかは聞いていないのか?」
「ああ。千葉かよって聞いたら、そうだって言うから、飽きねえなあお前らって言っただけだぜ?……それがどうかしたのかよ」
新開は顎先を指で摘んで考え込んでいる。
「寿一、一昨日って言ってたよな。夏休みが終わる前に話したとき」
「言ったな」
「オレが尽八をけしかけたのは、その前々日だった。あいつの性格からして、やると決めたら次の日朝イチで出かけると思わないか?現に、部活では見なかった」
荒北は口を開けて宙を見上げてみたが、そのあたりの細かい日にちまではあやふやだ。
「それにしたってもう半月前の話だ。べつに泊まりくらいあいつら今更なんじゃねえの?夏休みだし、知らねえやつじゃないんだから、巻島だってべつに……」
「たぶんな」
「それよか東堂が女振ったって話は?そっちじゃねえのかよ」
「……それもあるんだが」
新開は膝を軽く開いて立て、両手をその上にだらりと置いて壁に寄りかかった姿勢のまま、首を伸ばしてはあっと息を吐いた。
「新学期始まってから、あいつずっとヘンでさ。気づかなかったか?」
福富は首を左右に振った。
「そもそもあまり顔を見た覚えがない」
「部活こねえしな。自転車も、乗ってんだかどうだか」
「部活に出ないだけならそんな心配したりしないんだが」
「心配ィ?」
「教室でさ、いっつも席に着いたまんま、携帯弄ってる。あのうるさい奴がだぜ?メールしてんのか電話待ってんのかって周りから見てて丸わかりで、さすがに彼女、痺れを切らして問い詰めたって感じだったんだ。他に誰か好きな相手がいるのかって」
「ちょい待て。話が見えねえ」
荒北は手のひらを開いて新開に見せる。
「それと千葉行きがどう繋がるんだ?」
荒北の疑問を福富が口にした。それだよ福ちゃん、と指差して叫ぶと、福富の口許がわずかに綻ぶ。見慣れたものでもほとんどわからないほどかすかな動きではあるが。
赤く照らされた室内が徐々に暗くなり始めていた。福富の部屋は西向きで、夕日が大きく見える分夏は暑い。エアコンは最大にきかせてあったが、背中には汗が滲んでいる。
新学期が始まって二週目が終わろうとしている。夏休みの余韻を引きずって浮き足立っていた喧騒もおさまり、教室内には漸く見慣れた風景が戻ってきていた。
いつまでも非日常のテンションを持続させてはいられない。わかっていても、そこから自分を切り離すことを躊躇う。そういう彼らの脳裏にはきっと、残り時間のことだって刻まれている。
時間がないと思えば、焦る。昼間の出来事は、そんな流れの中で起こった瑣事だ、と新開自身は思う。
「夏休みにな……」
どういうふうに言えばいいのか。考えながら、新開は宙を見上げた。
「夏休みに、花火に行くとか海に行くとか、インハイ後にクラスでそういう話があって、何回かメールが回ってきてたんだ。オレは花火も海も先約があって行けなかったんだが、尽八も行ってなかったと聞いて驚いた。海なんていったらあいつ、普段なら真っ先に行くだろ?」
これには福富も荒北もこくこくこくと何度も頷き返す。
それらの企画はほぼ、「彼女と東堂をはっきりさせる」という意図のもとに立てられていた。おせっかい焼きはどこにだっている。
「オレはまあ、べつにそれについて話したことはなかったけど、尽八は彼女と付き合うんだろうとなんとなく思ってたんだ。一学期の頃の様子なんか見てても、なかなか自然だったし。オレが思うってことは、他にもそう思ってる奴が大勢いるってことで、ま、クラス中がわりと、な」
「暇だな」
「言うなよ」
新開は荒北の言葉に苦笑で答える。
「クラスは大体彼女の味方。しょうがないよな、それに関しては。夏休み中に何度かはっきりさせる機会をもらってんのに尽八はまったく行動してない。はっきりいって分が悪いぜ……その中でのことだからな」
「んじゃあれ、ほんとなんだ。教室の真ん中で『誰ともつきあう気はない』つったの」
新開がゆっくりと頷いた。
「もったいねー!」
荒北は頭の後ろで指を組んで、背中からごろんと寝転んだ。
「ああ、あの尽八がな。ヘンだろ?」
「たしかにヘンだな」
荒北はミーティングルームでの会話やそこでの東堂の表情を思い出す。
「携帯、ねェ。たしかに」
「で、だな。まあ、ここからが本題といってもいいんだが」
新開は口許にこぶしを当て、人差し指を折り曲げてかみ締めた前歯をこつこつと叩いて、どこか言いにくそうな様子だ。
荒北は体を起こして新開のほうに向き直った。福富も前かがみになって、体を新開に斜めに向けた。新開は二人の顔を交互に見、それでもまだ迷っているのか、目を伏せてふっくらとした唇を尖らせ、右手をあげてがりがりと側頭部をかいた。
手のひらが汗ばんでいる。荒北はいちど開いてぎゅっと握り、こすった。ポカリの入ったグラスに手を伸ばす。こくこくと飲み干し、新たに注ぎなおした。ついでに福富と新開の分のコップも満たしてやる。ふたりともグラスを手に取り、それぞれ喉を潤した。
新開は空になったグラスの底でこんとテーブルをたたく。ぺろりと唇を舐めて、それからきゅっと下唇を軽く噛んだ。
「昼休み、ちょっとそれで騒動みたいなことになって、彼女と一緒に女子がごそっと出てって、若干尽八、針のむしろ的な……」
「あー」
「だから、あいつを誘って外に出た。屋上か、理科棟か、部室かって人のいなさそうなところ考えて、結局ウサ吉の小屋の前で餌やりながら少し話したんだけど、その内容がな……、」
新開はそこで再び言葉を切り、どう言ったらいいかな、とひとりごちた。
箱根学園自転車部の部室はL字型の建物で、室内練習用のさまざまな設備が整っている。ほかに更衣室と、一番奥まった所にミーティングルームと呼ばれる小部屋があって、高校生の男ならば五人も入れば窮屈なくらいに狭い。一般的には物置と呼ばれるスペースだ。
古びた木製のテーブルが真ん中に置かれていて、そこに椅子が二つ。小さな棚がひとつドア脇の壁に据えられ、誰かが持ってきて放置した数週前のマンガや過去の部活ノートの束や、古くなった機材や道具類など、捨ててもいいようなものが適当に放り込まれている。
不用品見て来い、と先輩に指示されて下級生が探しに来るのがこの棚であり、先ほどから荒北がかき回している木箱も、棚に収められたそうした放置物のひとつだ。探しものらしく、周辺には中から取り出したらしいボロキレやガラクタが散らばっている。
「なんだァ、気が抜けてんのか」
荒北はしゃがんだまま、背後の男に声をかけた。
「あ?」
「電話すんならすりゃあいいだろ。鬱陶しいんだよお前」
「……鬱陶しくはないな」
「じゃあうぜえ」
「うざくもない」
テーブル脇の椅子に座っている東堂は、手の中の、携帯をじっと見つめる。その白い機械は、体温と同じくらいにぬるまっている。
「さっきから何をしている」
携帯をズボンのポケットにしまいながら、東堂は訊ねた。
「古いほうのロッカーの鍵が足りねんだよ。予備あったろ」
「……そうか。オレは知らんが」
「おめーに聞いてねえよ……それよか聞いたぜ。昼間教室のど真ん中でやらかしたらしいじゃねえか」
「その話か」
不機嫌を隠さない声に、荒北は呆れ顔で振り返る。
「ばっかじゃねえの。つきあっちまえばよかったんじゃねぇかよ。おめえ女ならなんでも好きだろ?」
東堂は顎を上げて威嚇するような目つきで荒北を見下ろし、うんざりと言った。
「ひどい言われようだな。まあでも、今回ばかりは否定はせんよ」
言葉尻に重くるしい溜息が混じる。
ひとづてに聞いただけで細かな状況までは想像しようもないが、どうもこれはいつものモテ自慢とは少し違うようだ。荒北は再度背を向け、ごそごそと木箱を探る作業を再開した。
「んだヨ、おめーらしくねえ。なんだってもっとうまくやらなかった。あれだろ、春ごろから噂あった」
三年になって早々、クラスの女が東堂に告白した話ならば、今ではおそらく全校生徒が知っている。東堂が、断ったような待たせているような、そういう状況になっていることまで、すべてだ。
「後回しにしてたことは認めるよ。忘れてたわけじゃないんだが、まさか新学期早々そういう話になるとも思わなくてな」
「そりゃ甘かったな。三年がのんびりできる時間なんかもうほとんどねえんだ、相手も必死だろ……あー、あった」
荒北は目当ての鍵を見つけた。針金を適当に巻いて作った鍵束から外れて、破れた布キレに絡まっていた。やれやれと箱を棚の一番下の段に突っ込む。立ち上がってドアノブに手をかけながら、相変わらず携帯を眺めている東堂を見下ろした。
「で、電話だかメールだかしらねえが、しねえの。謝んだろカノジョに」
「は?」
「違うのかよ、ならなおさらさっさと…」
荒北は言いかけて、ふと口を噤んだ。
さっさと電話できない相手、かどうかはわからないが、東堂が電話する相手であれば真っ先に思い浮かぶ顔がひとつあった。荒北は気づいて、口許を大きく歪めてあざ笑うような表情を作る。東堂は黙って見上げている。
「ま、好きにしな。おめーが鬱陶しいのなんか今更だ。山でも登ってくればァ?」
荒北は軽く言って、踵を返して外へ出た。
(千葉まで出かけてわざわざ喧嘩でもしてきたってのか?……わっかんねえ)
考えながらローラーを並べた練習室に向かう途中で、泉田とすれ違った。
「お、おまえ、これあいつに渡しとけ」
「は?え?あいつって誰です?」
「一年だよ!夏休み終わって入部してきたのんびり屋の分だっろ!」
「あー……」
「ったく。二年しっかりしろよぉ?」
新主将の泉田が面目ないといった具合に俯いて、頭をかくかわりに自らの両胸をひと撫でした。
二年唯一のインターハイメンバーだから順番からいって当然なのだが、荒北の目から見るとまだまだ周囲に目を配り慣れていない。いずれ肩書きどおりに振舞えるようになるだろうが、それまではこうしたことも仕方がない。
などとわざわざ言う必要もない言葉を飲み込んだところで、ジャージのポケットに入れていた携帯が鳴った。着信音は三年のチームメイト。見れば、泉田が慕う、東堂と同じクラスのスプリンターからだ。泉田に片手をあげてすれ違いながら、荒北は携帯を取り出し、耳に当てた。
「あー?」
『ちょっと話があるんだ。これから時間あるか?』
「いいけど何だよ」
『うん、電話じゃちょっとな。出てきてくれ。寿一の家に移動してる』
「福ちゃんそこにいんの?」
どうりで姿を見ないと思った。福富はインハイ後もほぼ休みなく部活に顔を出して自転車に乗っている。本人はトレーニングする為だけのつもりだろうが、さすがにそろそろ煙たがられているという声が荒北の耳にも届いている。それもあって、今日は新開が連れだしたんだろう。
「わかった、東堂は?部室にいるぜ?」
『いや、……出来ればオレたちが会うことにも気づかれないように頼む』
「なんだぁ…?」
新開に限らず、この面子でこんな面倒くさい話は珍しい。初めてではないだろうか。だがおかげで大体話の予想がつく。昼間東堂の身に起きたらしい出来事についてだろう。わざわざ勿体つけて呼び出すからには、自分達が知っておいたほうがいい何かがあるのに違いない。
「まあいいや、すぐいくわ」
『待ってるよ』
電話を切ると、わんわんと鳴く蝉の声に暴力的に取り囲まれた。周囲を埋め尽くす圧倒的な音の氾濫に、荒北は一瞬ぽうっと立ち尽くした。
右後方のミーティングルームのドアをゆっくりと振り返る。
東堂はまだあの中にいる。ひとりで。
電話をしているか。メールを打っているだろうか。相手が誰だろうと知ったことではないが、東堂がぼんやりと静かなのはどうにも不自然で、胸がざわつく。電話の相手の何かがあの煩い男をそうさせているのだと思えば、問い詰めて、らしくないと怒鳴りつけてやりたいような衝動にかられる。新開の話には、自分のこの違和感の答えも用意されているのだろうか。
「あー……たりぃ…」
部の一年が正面から歩いてきた。荒北の顔を認め、お疲れ様です、と大声で叫びながら会釈する。おう、と答えて自転車に向かう。
蝉の声はやまないまでも、遠のく距離が短くなりはじめていた。夕方になれば草のかげで虫が鳴く。箱根の秋は下界よりも、少しだけ早い。
福富の家に着いたときには、もう五時近かった。二人は福富の部屋にいると案内されて、二階に上がる。三年間何度も通った家であれば、福富の家族も慣れたものだ。
「早かったな」
ノックしてドアを開けると、正面窓下のベッドに座った福富が言った。新開はその横で畳の上に腰を下ろし、壁に背中を預けている。二人の間には小さなガラステーブルがあり、一・五リットルのポカリのペットボトルと、グラスが三つ置いてある。
「ちょっと急いだ。新開がもったいぶった言い方すっから……あー、あっちィ」
パタパタと顔をあおいでいると、新開が乾いたタオルを投げてきた。荒北は受け取り、顔から髪までをざっと拭った。
新開とガラステーブルを挟んで反対の位置に座り、勝手にポカリのキャップをはずして、自分の分を注ぐ。
「で?何の話だって?」
正面にある福富の顔を見上げると、福富は右の新開をちらりと見て、言った。
「オレもまだ聞いていない」
「あ、そ」
「うん、ま、大体想像はしてるだろうが、昼間の話だ」
新開が口を開いた。
「東堂が答え迫られて振ったっつー……」
「そうだ。まあ簡単に言えばな」
「珍しいな」
たしかに珍しいが、福富が言うとなぜだか重々しく、東堂がひどい失敗をしたみたいに聞こえる
東堂はそういった部分について実に如才ないところがあって、女好きと有名なわりに悪評が少ない。たまたまかもしれないが、それ自体が東堂という人間の一面をあらわしていると、荒北は思っている。
春に東堂に告白したという噂の相手は、在校生なら誰もが知っている校内でも一、二を争う美人だったのだが、インターハイが終わるまではレースに集中したいという東堂の意外にもまっとうな返答によって、有耶無耶なまま関係は宙に浮いていた。一部の女子からは相応の非難があったらしいが、胸を撫でおろした女子も同じくらい存在するはずだというのが傍観者達の結論だった。
ハコガク自転車競技部内はというと、それなりに荒れた。下級生の中にも彼女のファンはいたらしい。一方そんな彼女を待たせているという解釈から、東堂はおかしな風に株を上げたりもしていた。だが東堂は結局のところ東堂なので、噂の的になるのを喜びこそすれ多少のやっかみなどは平然と受け流し、内心ではどうあれ傍目には日々淡々とペダルを回していた。そのことがさらにまた別な意味で東堂の株を上げていて、その間実際に東堂の頭の中を占めていた人物の名を知る自転車部の三年たちは、知らないというのは幸せなことだと半笑いで眺めたものだった。
「んでも、そんなことべつに今更じゃねえか。ほかになんかあんだろ?」
荒北は口端を引きつらせ、新開を横目に見ながら言う。
「うん、まあそうだ」
「そうなのか?」
福富が今気づいたように言う。話聞いてたか寿一、と新開が諭すように返した。
「新学期に入ってさ、あいつ部活に来ないだろ。今日部室来てたって、乗りに?」
問われて、荒北は首を横に振る。
「ミーティングルームで携帯握ってため息ついて、うぜえのなんの。乗りにきた感じじゃなかったなァ」
「靖友、小田原で千葉から帰ってきた尽八に会ったんだろ?具体的にはどういう感じだった?何を話した?」
「あぁ?……どんなって、どんなだったかな」
やっぱり千葉が原因か、とうんざり思いながら、荒北は腕組みをして首を捻る。
「駅前に自転車組んでるやつがいるのが遠目に見えて、近づいたらあいつだったってだけで」
「巻島に会って何を話したとか、なにがあったとかは聞いていないのか?」
「ああ。千葉かよって聞いたら、そうだって言うから、飽きねえなあお前らって言っただけだぜ?……それがどうかしたのかよ」
新開は顎先を指で摘んで考え込んでいる。
「寿一、一昨日って言ってたよな。夏休みが終わる前に話したとき」
「言ったな」
「オレが尽八をけしかけたのは、その前々日だった。あいつの性格からして、やると決めたら次の日朝イチで出かけると思わないか?現に、部活では見なかった」
荒北は口を開けて宙を見上げてみたが、そのあたりの細かい日にちまではあやふやだ。
「それにしたってもう半月前の話だ。べつに泊まりくらいあいつら今更なんじゃねえの?夏休みだし、知らねえやつじゃないんだから、巻島だってべつに……」
「たぶんな」
「それよか東堂が女振ったって話は?そっちじゃねえのかよ」
「……それもあるんだが」
新開は膝を軽く開いて立て、両手をその上にだらりと置いて壁に寄りかかった姿勢のまま、首を伸ばしてはあっと息を吐いた。
「新学期始まってから、あいつずっとヘンでさ。気づかなかったか?」
福富は首を左右に振った。
「そもそもあまり顔を見た覚えがない」
「部活こねえしな。自転車も、乗ってんだかどうだか」
「部活に出ないだけならそんな心配したりしないんだが」
「心配ィ?」
「教室でさ、いっつも席に着いたまんま、携帯弄ってる。あのうるさい奴がだぜ?メールしてんのか電話待ってんのかって周りから見てて丸わかりで、さすがに彼女、痺れを切らして問い詰めたって感じだったんだ。他に誰か好きな相手がいるのかって」
「ちょい待て。話が見えねえ」
荒北は手のひらを開いて新開に見せる。
「それと千葉行きがどう繋がるんだ?」
荒北の疑問を福富が口にした。それだよ福ちゃん、と指差して叫ぶと、福富の口許がわずかに綻ぶ。見慣れたものでもほとんどわからないほどかすかな動きではあるが。
赤く照らされた室内が徐々に暗くなり始めていた。福富の部屋は西向きで、夕日が大きく見える分夏は暑い。エアコンは最大にきかせてあったが、背中には汗が滲んでいる。
新学期が始まって二週目が終わろうとしている。夏休みの余韻を引きずって浮き足立っていた喧騒もおさまり、教室内には漸く見慣れた風景が戻ってきていた。
いつまでも非日常のテンションを持続させてはいられない。わかっていても、そこから自分を切り離すことを躊躇う。そういう彼らの脳裏にはきっと、残り時間のことだって刻まれている。
時間がないと思えば、焦る。昼間の出来事は、そんな流れの中で起こった瑣事だ、と新開自身は思う。
「夏休みにな……」
どういうふうに言えばいいのか。考えながら、新開は宙を見上げた。
「夏休みに、花火に行くとか海に行くとか、インハイ後にクラスでそういう話があって、何回かメールが回ってきてたんだ。オレは花火も海も先約があって行けなかったんだが、尽八も行ってなかったと聞いて驚いた。海なんていったらあいつ、普段なら真っ先に行くだろ?」
これには福富も荒北もこくこくこくと何度も頷き返す。
それらの企画はほぼ、「彼女と東堂をはっきりさせる」という意図のもとに立てられていた。おせっかい焼きはどこにだっている。
「オレはまあ、べつにそれについて話したことはなかったけど、尽八は彼女と付き合うんだろうとなんとなく思ってたんだ。一学期の頃の様子なんか見てても、なかなか自然だったし。オレが思うってことは、他にもそう思ってる奴が大勢いるってことで、ま、クラス中がわりと、な」
「暇だな」
「言うなよ」
新開は荒北の言葉に苦笑で答える。
「クラスは大体彼女の味方。しょうがないよな、それに関しては。夏休み中に何度かはっきりさせる機会をもらってんのに尽八はまったく行動してない。はっきりいって分が悪いぜ……その中でのことだからな」
「んじゃあれ、ほんとなんだ。教室の真ん中で『誰ともつきあう気はない』つったの」
新開がゆっくりと頷いた。
「もったいねー!」
荒北は頭の後ろで指を組んで、背中からごろんと寝転んだ。
「ああ、あの尽八がな。ヘンだろ?」
「たしかにヘンだな」
荒北はミーティングルームでの会話やそこでの東堂の表情を思い出す。
「携帯、ねェ。たしかに」
「で、だな。まあ、ここからが本題といってもいいんだが」
新開は口許にこぶしを当て、人差し指を折り曲げてかみ締めた前歯をこつこつと叩いて、どこか言いにくそうな様子だ。
荒北は体を起こして新開のほうに向き直った。福富も前かがみになって、体を新開に斜めに向けた。新開は二人の顔を交互に見、それでもまだ迷っているのか、目を伏せてふっくらとした唇を尖らせ、右手をあげてがりがりと側頭部をかいた。
手のひらが汗ばんでいる。荒北はいちど開いてぎゅっと握り、こすった。ポカリの入ったグラスに手を伸ばす。こくこくと飲み干し、新たに注ぎなおした。ついでに福富と新開の分のコップも満たしてやる。ふたりともグラスを手に取り、それぞれ喉を潤した。
新開は空になったグラスの底でこんとテーブルをたたく。ぺろりと唇を舐めて、それからきゅっと下唇を軽く噛んだ。
「昼休み、ちょっとそれで騒動みたいなことになって、彼女と一緒に女子がごそっと出てって、若干尽八、針のむしろ的な……」
「あー」
「だから、あいつを誘って外に出た。屋上か、理科棟か、部室かって人のいなさそうなところ考えて、結局ウサ吉の小屋の前で餌やりながら少し話したんだけど、その内容がな……、」
新開はそこで再び言葉を切り、どう言ったらいいかな、とひとりごちた。