オレンジスカイ 4
一階に下り、ゾロは冷蔵庫から缶ビール数本を取り出す。サンジはワインも出すか、と言って、店にある大きい方の冷蔵庫に向かったので、ゾロは一足先に自室に戻ると、ベッドに腰掛けて、一本目のビールをひといきに空けた。
「だからさ、最初にお前が幽霊屋敷の話を聞いて来たとき、俺はてっきりそっちの事だと思ったんだよ。んな噂になるほどかって、ちょっと吃驚した」
ワインを持って戻り、グラスをベッドサイドのテーブルに置いてゾロの横に腰掛けると、サンジはそう言って笑いかけた。
最初の晩は朝方少し眠っただけだったのでわからないが、翌晩、ゾロは見たのだ。壁の隅に白い影が浮かんでいるのを。
ひんやりとした冷たい空気が流れたあとですぐに消えてしまったので、最初は気のせいだと思った。でもすぐに体が動かなくなった。これが金縛りってヤツか、とのんびり思ったりもしたのだが、やはり不気味ではある。サンジの野郎は毎晩こんな部屋で寝ていたのかと思ったら、何かサンジ自身得体の知れない感じがした。そのうちに一度眠ってしまい、目が覚めると全身汗だくだった。
それで、ゾロは部屋を出てリビングに向かったのだ。そしてしずくを抱いて、そのままそこで眠った。
翌朝、サンジによほど言おうかと迷ったのだが、自分自身、実際自分の見たものについて、今ひとつ確信が持てなかった。リビングで眠っていた理由がそれかと笑いの種にされるのがオチだと思って、黙っていた。
だからウソップを誘って訊いてみたのだが、ウソップは逆に興味津々で、カメラを貸すから写真を撮ってこいとまで言ってきたので、ゾロは埒があかないと諦めて、それ以上この話はしなかった。
「で、帰ってこなかったのは、怖かったからなワケ」
その言い方が癇に障るのだ。ゾロはサンジを軽く睨んで、すぐに足元に視線を落とす。
「そんなんじゃねえけど、…悪ィ、なんか気味悪くてよ。とりあえず一晩は考えてみようかって、そんくらいの」
それで、ウソップの家に泊めてもらった。ウソップの家は古い木造の一軒家で、小さな雑貨屋を営んでいる。ウソップの母親は病弱なので、店の経理以外のことは、ほとんどウソップが担っていた。
久々のゾロの訪問をウソップの母親は意外なほど喜んでくれた。夜食やつまみを用意してくれ、ウソップをお願いね、と何度も言われて困ってしまった。
そこまで言って、ゾロは手に持ったワイングラスに口をつけた。サンジが持って来た白ワインは少し辛口で、よく冷えていて美味かった。
「一晩、何を考えた?」
隣に座る、見る限りは異国の男を、ゾロはまじまじと見つめた。
「あれ、おふくろさんか?」
ぽつりと呟いたせりふに、サンジは小首を傾げて笑う。
「さあ。俺はそうなのかな、くらいにしか思ってないけど。毎日見るわけじゃねえし、何か言ってきたりしてきたりするわけでもねえしな」
ぼんやりと浮かんだ白い影は、人の形をしていたように見えたけれど、そうでないようにも思えた。
窓から差し込む青白い月の光だけが照らす部屋。こうして薄闇の中に無言でいると、二人のかすかな呼吸音だけが響いていて、世界の中から切り取られたように感じる。目を閉じたらそのまま気持ちよく眠れそうな静寂だ。
この家はほんとうに静かだ。これはサンジの家なのだから、多分、サンジという人間が、こういう静けさを持っているのだとゾロは思う。そして、自分はそれをいつのまにかこんなにも気に入っている。ここにいる理由がもしなくなったとしても、できれば居たいと思うくらいには。この部屋もすでに離れがたい空間として、胸の中に位置付けが定まっている。
「だとしたら多分、お前の事を心配して出てきてんだよな。お前が帰ってきてくれて嬉しくて、顔を見たいんだ」
「そうなのかね」
サンジは俯いて唇の両端を軽く引き上げ、照れたような笑いを浮かべる。その顔が幼いの頃の表情を思わせるようで、ゾロは少し胸が痛かった。
子供の頃に親を一度に亡くすというのはどういう気持ちなのかと考えた。ゾロの両親は故郷に健在だが、もし今、どちらもいなくてここにひとりきりでいるのだとしたら?
九つだったといっていた。その頃に味わったサンジの恐怖を思った。
「だったら、別に心配いらねえから、早く楽になって欲しいなあ。どうもひとりだけみたいだしさ。あれじゃ片方は先に行っちまって、待ってるんだろうにな」
親を思って泣いただろう子供の、その面影は、ゾロには実際に見て取る事が出来ない。ゾロの知らない昔のサンジの姿だ。
飲み干したグラスをテーブルに戻し、ゾロはベッドに体を倒した。シーツが擦れる音が響く。
「俺、ここで寝てもいいのかな」
「エアコンが直るまでな」
サンジは嬉しそうに笑って、ゾロの左隣に勢いよく体を倒しこんだ。ちょうどいい位置にあるのでゾロの胸の上に手を置くと、ゾロはすぐに持ち上げて払いのける。サンジはおかしくて笑いながら何度も繰り返した。そのうちにゾロが怒って、その腕を取って手首を掴むと、右側から覆い被さるようにサンジを押さえつけてきた。
サンジはそれでどうするつもりかと思いながら、目の前にあるゾロの顔を静かに見上げた。ゾロはしばらくそうして押さえつけたあと、決まり悪そうに憮然とした表情を見せて、手を離して退いた。離れる時に、しつけえんだてめえは、とうざったそうに言った。
例えるなら、小学生の時にはじめて友達の家に泊まった時の感じだ。友達の真っ暗な部屋でくすくすと笑いあいながら、数人で蒲団を並べてこんなふうにじゃれあった。その感覚と大差がない。
けれど自分達は小学生の年齢ではもはやなく、ベッドも眠るためだけの場ではなくなった。
ゾロは隣にいるサンジを見つめる。サンジも同じようにゾロを見ていた。
肩の脇に置いた左手にゆっくりと伸ばされたサンジの右手を、今度は払いのける事はしなかった。サンジはその手を包むように強く握り、目を閉じてそっと唇を寄せた。月が薄雲に紛れて隠れ、室内は一瞬、闇に染まった。
サンジはゆっくりと顔を近づける。ゾロの上唇を挟むように啄ばみ、閉じられたままの隙間をそっと舌でなぞった。
ゾロは目を閉じて、その感覚を追った。これはまさに子供がじゃれあうようなそれに近い、戯れのキスだと思った。互いの唇の形は笑っている。サンジの左手の指が頬を滑るように触れていく。嫌悪はなかった。ただ、胸を締め付けるような甘い感情だけがあった。
ゾロも右手を伸ばして、サンジの髪に触れてみた。やわらかな息が肌にかかる。
「気持ちいい。やべえくらい」
サンジはゾロの首筋に顔を埋め、耳元で吐息だけで囁いた。ゾロ、とかすかに名を呼ぶ声に背を震わせて、ゾロは瞼をぎゅっと閉じる。サンジはふわりと笑って、その上に唇を触れさせる。
ゆっくりと弄り逢っていた腕が背中に回ったのを合図にして、二人はぎゅっと抱き合った。力まかせに縋るサンジに、ゾロも負けじと力をこめて、背中を抱き寄せた。あははと声をたてて笑いながらシーツの上を行ったり来たりして転がって、サンジが上になってもう一度、今度は深く唇を合わせた。
折り重なったまま、夜通し話した。母親の話をした。それから、父親の話、祖父の話、子供の頃怖かったもの。はじめて好きになった女の子。そんな話を、時々口づけを交わしながら続けた。ちゅ、と軽く音を立ててくっついたり離れたりしながら、サンジは今まで語らなかった分を埋め合わせるように語り、ゾロは時折笑ったり頷いたりした。
ずっと離れないで、朝までそうしていた。
やがて、月の光は染まり始める空のかすかな光に追いやられて薄らぎ始める。暁の空が天頂の紫から東へと徐々に赤みを帯びてゆき、地表との境い目が明るいオレンジに染まっていた。
ゾロは体を起こして、窓からそれを眺めてみた。この窓からは、始めて見る空の色だ。きれいな朝焼けだった。サンジが隣で同じように眺めて、すげえな、と言った。顔が光を受けて薄赤く染まっていた。髪も。
今日もいい天気だ。しずくは庭を駆け回りたいとせがむだろう。ゾロはそう思いながら再び横になる。
だけど、もう少しこうしていよう。もう少しだけ眠って。
「いまさら眠くなってきた」
サンジが隣で呟いたので、ゾロは安心して笑って、ゆっくりと瞼を閉じた。
「だからさ、最初にお前が幽霊屋敷の話を聞いて来たとき、俺はてっきりそっちの事だと思ったんだよ。んな噂になるほどかって、ちょっと吃驚した」
ワインを持って戻り、グラスをベッドサイドのテーブルに置いてゾロの横に腰掛けると、サンジはそう言って笑いかけた。
最初の晩は朝方少し眠っただけだったのでわからないが、翌晩、ゾロは見たのだ。壁の隅に白い影が浮かんでいるのを。
ひんやりとした冷たい空気が流れたあとですぐに消えてしまったので、最初は気のせいだと思った。でもすぐに体が動かなくなった。これが金縛りってヤツか、とのんびり思ったりもしたのだが、やはり不気味ではある。サンジの野郎は毎晩こんな部屋で寝ていたのかと思ったら、何かサンジ自身得体の知れない感じがした。そのうちに一度眠ってしまい、目が覚めると全身汗だくだった。
それで、ゾロは部屋を出てリビングに向かったのだ。そしてしずくを抱いて、そのままそこで眠った。
翌朝、サンジによほど言おうかと迷ったのだが、自分自身、実際自分の見たものについて、今ひとつ確信が持てなかった。リビングで眠っていた理由がそれかと笑いの種にされるのがオチだと思って、黙っていた。
だからウソップを誘って訊いてみたのだが、ウソップは逆に興味津々で、カメラを貸すから写真を撮ってこいとまで言ってきたので、ゾロは埒があかないと諦めて、それ以上この話はしなかった。
「で、帰ってこなかったのは、怖かったからなワケ」
その言い方が癇に障るのだ。ゾロはサンジを軽く睨んで、すぐに足元に視線を落とす。
「そんなんじゃねえけど、…悪ィ、なんか気味悪くてよ。とりあえず一晩は考えてみようかって、そんくらいの」
それで、ウソップの家に泊めてもらった。ウソップの家は古い木造の一軒家で、小さな雑貨屋を営んでいる。ウソップの母親は病弱なので、店の経理以外のことは、ほとんどウソップが担っていた。
久々のゾロの訪問をウソップの母親は意外なほど喜んでくれた。夜食やつまみを用意してくれ、ウソップをお願いね、と何度も言われて困ってしまった。
そこまで言って、ゾロは手に持ったワイングラスに口をつけた。サンジが持って来た白ワインは少し辛口で、よく冷えていて美味かった。
「一晩、何を考えた?」
隣に座る、見る限りは異国の男を、ゾロはまじまじと見つめた。
「あれ、おふくろさんか?」
ぽつりと呟いたせりふに、サンジは小首を傾げて笑う。
「さあ。俺はそうなのかな、くらいにしか思ってないけど。毎日見るわけじゃねえし、何か言ってきたりしてきたりするわけでもねえしな」
ぼんやりと浮かんだ白い影は、人の形をしていたように見えたけれど、そうでないようにも思えた。
窓から差し込む青白い月の光だけが照らす部屋。こうして薄闇の中に無言でいると、二人のかすかな呼吸音だけが響いていて、世界の中から切り取られたように感じる。目を閉じたらそのまま気持ちよく眠れそうな静寂だ。
この家はほんとうに静かだ。これはサンジの家なのだから、多分、サンジという人間が、こういう静けさを持っているのだとゾロは思う。そして、自分はそれをいつのまにかこんなにも気に入っている。ここにいる理由がもしなくなったとしても、できれば居たいと思うくらいには。この部屋もすでに離れがたい空間として、胸の中に位置付けが定まっている。
「だとしたら多分、お前の事を心配して出てきてんだよな。お前が帰ってきてくれて嬉しくて、顔を見たいんだ」
「そうなのかね」
サンジは俯いて唇の両端を軽く引き上げ、照れたような笑いを浮かべる。その顔が幼いの頃の表情を思わせるようで、ゾロは少し胸が痛かった。
子供の頃に親を一度に亡くすというのはどういう気持ちなのかと考えた。ゾロの両親は故郷に健在だが、もし今、どちらもいなくてここにひとりきりでいるのだとしたら?
九つだったといっていた。その頃に味わったサンジの恐怖を思った。
「だったら、別に心配いらねえから、早く楽になって欲しいなあ。どうもひとりだけみたいだしさ。あれじゃ片方は先に行っちまって、待ってるんだろうにな」
親を思って泣いただろう子供の、その面影は、ゾロには実際に見て取る事が出来ない。ゾロの知らない昔のサンジの姿だ。
飲み干したグラスをテーブルに戻し、ゾロはベッドに体を倒した。シーツが擦れる音が響く。
「俺、ここで寝てもいいのかな」
「エアコンが直るまでな」
サンジは嬉しそうに笑って、ゾロの左隣に勢いよく体を倒しこんだ。ちょうどいい位置にあるのでゾロの胸の上に手を置くと、ゾロはすぐに持ち上げて払いのける。サンジはおかしくて笑いながら何度も繰り返した。そのうちにゾロが怒って、その腕を取って手首を掴むと、右側から覆い被さるようにサンジを押さえつけてきた。
サンジはそれでどうするつもりかと思いながら、目の前にあるゾロの顔を静かに見上げた。ゾロはしばらくそうして押さえつけたあと、決まり悪そうに憮然とした表情を見せて、手を離して退いた。離れる時に、しつけえんだてめえは、とうざったそうに言った。
例えるなら、小学生の時にはじめて友達の家に泊まった時の感じだ。友達の真っ暗な部屋でくすくすと笑いあいながら、数人で蒲団を並べてこんなふうにじゃれあった。その感覚と大差がない。
けれど自分達は小学生の年齢ではもはやなく、ベッドも眠るためだけの場ではなくなった。
ゾロは隣にいるサンジを見つめる。サンジも同じようにゾロを見ていた。
肩の脇に置いた左手にゆっくりと伸ばされたサンジの右手を、今度は払いのける事はしなかった。サンジはその手を包むように強く握り、目を閉じてそっと唇を寄せた。月が薄雲に紛れて隠れ、室内は一瞬、闇に染まった。
サンジはゆっくりと顔を近づける。ゾロの上唇を挟むように啄ばみ、閉じられたままの隙間をそっと舌でなぞった。
ゾロは目を閉じて、その感覚を追った。これはまさに子供がじゃれあうようなそれに近い、戯れのキスだと思った。互いの唇の形は笑っている。サンジの左手の指が頬を滑るように触れていく。嫌悪はなかった。ただ、胸を締め付けるような甘い感情だけがあった。
ゾロも右手を伸ばして、サンジの髪に触れてみた。やわらかな息が肌にかかる。
「気持ちいい。やべえくらい」
サンジはゾロの首筋に顔を埋め、耳元で吐息だけで囁いた。ゾロ、とかすかに名を呼ぶ声に背を震わせて、ゾロは瞼をぎゅっと閉じる。サンジはふわりと笑って、その上に唇を触れさせる。
ゆっくりと弄り逢っていた腕が背中に回ったのを合図にして、二人はぎゅっと抱き合った。力まかせに縋るサンジに、ゾロも負けじと力をこめて、背中を抱き寄せた。あははと声をたてて笑いながらシーツの上を行ったり来たりして転がって、サンジが上になってもう一度、今度は深く唇を合わせた。
折り重なったまま、夜通し話した。母親の話をした。それから、父親の話、祖父の話、子供の頃怖かったもの。はじめて好きになった女の子。そんな話を、時々口づけを交わしながら続けた。ちゅ、と軽く音を立ててくっついたり離れたりしながら、サンジは今まで語らなかった分を埋め合わせるように語り、ゾロは時折笑ったり頷いたりした。
ずっと離れないで、朝までそうしていた。
やがて、月の光は染まり始める空のかすかな光に追いやられて薄らぎ始める。暁の空が天頂の紫から東へと徐々に赤みを帯びてゆき、地表との境い目が明るいオレンジに染まっていた。
ゾロは体を起こして、窓からそれを眺めてみた。この窓からは、始めて見る空の色だ。きれいな朝焼けだった。サンジが隣で同じように眺めて、すげえな、と言った。顔が光を受けて薄赤く染まっていた。髪も。
今日もいい天気だ。しずくは庭を駆け回りたいとせがむだろう。ゾロはそう思いながら再び横になる。
だけど、もう少しこうしていよう。もう少しだけ眠って。
「いまさら眠くなってきた」
サンジが隣で呟いたので、ゾロは安心して笑って、ゆっくりと瞼を閉じた。
2003.8.15発行(文庫再録/2008.8.15)
[TOP]