夕立つ八月 5

 薄暗い照明で照らされた店内は、壁に沿った長いソファと、八個あるボックス席、そしてカウンター席で構成されている。
 カラオケ用のスペースもあるが、気まぐれに歌いたいものが歌えばいい、という程度で、あまり気にかけるものもいない。
 飲み会に使う店はだいたい決まっていて、今日のような大人数の時はいつもこの店だった。ちなみに昨年、ゾロの誕生日パーティーをやったのもこの店だ。
「ビビ、こっちこっち」
 二階の新人、ビビは同じ二階の社員達と一緒に店にやってきた。二階に配置された新人はビビだけだったので、彼女は他の新人バイトとはまだ馴染みが薄かったせいもあった。
 ナミの呼ぶ声に嬉しそうに笑顔を見せ、ゆっくりと近づいてくる。
「ごめんねー、先に来ちゃって。この迷子、ほっといたらどこかにふらふら行っちゃいそうだったから」
「俺のせいにするな」
「いえ、先に行くってちゃんと聞いてましたから」
 ビビは笑いながら近づき、ゾロの横に腰を下す。ゾロはふとサンジに視線を送った。目があって、そしてお互いに逸らす。
(なんなんだよ、ちくしょう。気分悪ィ)
 ゾロは苛立って、乾杯と同時に一息にジョッキを空にした。ナミが何を思ったのか「負けないわよ」と対抗してきて、気がつけば飲み比べが始まっていた。
 いくら飲んでも酔わないのは元からだが、いつにも増して頭が冷えている感じがする。何杯か空けたところでナミが言った。
「ああ、まだまだ全然だけどおなかがすいてるわ。ビビごめん、なにか食べるもの取って来てもらえる?」
「ええ」
 ビビは、バイキング形式で軽食が用意されているカウンター席に、ゾロとナミのために料理を取りに立った。立つと同時に、別席にいた何人かがビビに向かって近づいてゆく。
「なあなあ、こっちおいでよビビちゃん」
「あ、はい、でも、これをナミさんに」
 ビビは手に持った皿に料理とつまみを数種類のせ、ナミの元に戻ろうとしていた。
「ああ、そんなの、ほら」
 ひょい、と横から皿を奪われたかと思うと、人手づたいにそれは運ばれ、ナミ達のいるテーブルに届いた。
「あ…」
「はい、こっちね」
 そう言って背中を押してくる幾人かに捕まり、ビビは苦笑と共にそちらに向かう。ウソップが気付いてその集団についていくのをナミは見届け、安心した様にふたたびジョッキに手を伸ばす。
「こういうとこで皆と親交を深めなくっちゃね」
「姉貴面しやがって」
「あら、いけない?」
「いいや、せいぜい面倒見てやれよ」
「ふふ、あんたも良いお兄さんじゃない」
「うるせえ」
 言いながらジョッキにふたたび口をつけると、サンジがじっとこちらを睨むようにしている。ゾロは何かと思い、見返した。相変わらず両脇に女の子を据えて(しかも増えている)ご満悦だろうに、なんだってそんな目で見られなければならないのか。
 嫉妬、なのだろうか?ナミに?それは今更だろうとゾロは思う。そのうち、サンジが手招きでゾロを呼んだ。
「あら、お呼びみたい」
 ナミの方が先に気付いてゾロを促す。ゾロはなんとなく今のサンジに近づきたくなくて、そのまま無視しようとした。
「行かないの?」
「なんで」
「行きなさいよ」
「うるせえ」
「もう、どうしてそうなんだろ、あんた達」
「お前が怒ってどうするんだよ」
「私には怒る権利があるわよ」
 そう言ってナミは胸の前で腕を組んで、どん、と背もたれに体を預けた。ゾロはそれを見てしぶしぶ席を立つ。
 サンジの座っている席に向かうと、サンジは女の子達をどかせて、ゾロを隣に座らせた。
「なんだよ?」
 サンジに問うが、サンジはことさらゆっくりと煙草をすってみせ、黙る。
「ロロノアさん、ビール?」
「あ?…ああ」
 隣に座っていた女が声をかけた。ゾロと同じカウンターの新人だ。だいたい、この女も、むこうのサンジの隣にいる女も、喋ってばかりであまり仕事をしない、ゾロにとっては迷惑な仕事仲間だ。カウンターで世間話をする程度ならともかく、隣にいて酒を飲みながら話すこともそれほど無いし、気も進まない。
「なんだよ?用なら言えよ」
「その子がね、お前と付き合いたいんだって」
「……あ?」
「やだあー!サンジさん、なに言ってんの!?」
 女は口ではそういいながら嬉しそうに目をぎらつかせている。ゾロはそっと腰を浮かせたが、サンジが右側から腕を掴んでひき下した。
「てめえ、どういうつもりだよ」
「つもりもなにも、決めるのはお前」
「サンジ…?」
 嫌な汗が背中をつたう。頭はさらに冷えてゆく。
「ロロノアさんて、ナミさんと付き合ってるわけじゃないんですよね?」
「あ?ナミじゃねえよ、つきあってるのは」
 そう言うと、ゾロの手に置かれたサンジの指がぴくりと揺れた。
「え?え?じゃあ、でもだれか付き合ってる人いるんですかー?」
 暗い気持ちになったのは一瞬で、すぐにそれは怒りに変わった。何をしたわけでもない、この仕打ちはいったいなんだ。
 ゾロはサンジに向き直る。同時に、サンジが少し怯んだ。目が暗く淀んでいた。またひとりで、いったい何を考えているんだろう、このバカな男は。ゾロはサンジの衿を掴み、ゆっくりと耳元に唇を寄せる。
「その手にはのらねえよ、バカヤロウ」
 ゆっくりと息を吹きかけるように囁いた。サンジが小さく震えた。ゾロは少し力を入れてサンジを離し、席を立った。そのままナミの脇もすりぬけて行く。
 何故こんなくだらないことでいがみ合わなければならない?何が楽しくてサンジ相手に腹の探り合いなんて馬鹿げた事をしなければならないというのだ。胸糞が悪い。酒は一気に冷めた、もう帰って寝てしまおう。そう思ってゾロは、ずんずんと出口に向かう。
「ゾロ、帰るのか?」
 ウソップの声につい足を止めた。ふりかえると、ソファにぐったりと座り込んだビビの姿があった。
「だったら、ビビを送ってやってくれねえか?俺が行こうかと思ったんだが、一応幹事だしなあ、抜けるのも…」
「飲ませたのか」
「第一カウンターの連中がこぞってなー、こいつも妙に付き合いがいいから、俺も気をつけて見てたんだけど」
 そう言うウソップの後ろで、その連中が誰がビビを送るかで揉めているのが目に入る。ナミに視線を向けると、社員達と何やら話しこんでいるようだった。
 サンジが追いかけてくるかもしれない、とちらりと思い、そちらを伺ったが、ゾロの方を見もせずに、相変わらずの様子だ。仕方がない、とゾロは踵を返す。
「どこだ?こいつんち」
「歩いてもそんなかからねえはずだけど、寝ちまってるからなあ。タクシーつかまえたほうがいいか?」
「まあいい、とりあえず起こすか。おいビビ」
 ウソップが心配そうに声をかけるのを余所に、ゾロはビビの肩を揺する。
「起きろ、送ってくから」
「ん…」
 ビビは薄く目を開け、眩しそうに目を瞬かせる。
「ゾロ先輩?」
「送るぞ。歩けるか?」
「え、ええ。すみません…」
 ビビはゆっくりと立ちあがり、ゾロの後ろに続いた。
「ナミさんは、いいんですか?」
 ビビが、遠慮がちに訊ねてきた。振りかえって見ると足元がふらついていて、やはりちょっとひとりで帰すのは不安だ。
「ああ、誰かが送っていくだろ。あいつなら平気だ」
「そうですか、すみません」
「近いのか?」
「ええと、歩きだと十五分くらいかかるんです。タクシーを拾っていただければひとりで帰りますから」
 背後で、「ふざけんなゾロてめえ、ビビちゃんまで!」などと怒鳴る声が聞こえたが無視した。あんな酔っ払いにビビを送らせたらとんでもないことになるに決まっている。
「ま、いいからよ」
 そう言ってゾロは出口へ向かってビビの背中を押した。ドアを開けるとむっとした空気が身を包む。昼間の熱を湛えたアスファルトはまだ冷めないままで、夜気を燻し続けていた。
 店を出て駅方面に少し歩くと、運良く空車のタクシーが向かいからやって来るのが見えた。ゾロは歩み出てそれを止め、ビビを乗り込ませる。行き先を告げるビビの様子を見ながら少し考えて、後に続いて乗り込んだ。
「先輩、私…」
「大丈夫には見えねえよ。このまま店に戻ってもナミに怒鳴られるだけだ」
 そう言って、ゾロは小さく笑いかけた。ビビはすっかり恐縮して、隣で小さくなっている。
「すみません、私、こんなに飲んだことなくって…」
「これくらいどうって事ねえよ。もっとひでえのいくらも面倒見てるからな」
 苦笑まじりにそう言うゾロに向かって、ビビはまた「すみません」と頭を下げた。
 一方、店に残った者の中からもひとりふたりと帰る者が出始め、ナミはウソップを手伝って会計の準備をしていた。
「ゾロはちゃんと送っていったのね?」
「ああ、タクシー拾ってつれてったぞ」
「そう、なら大丈夫ね。第一の奴ら、あとで文句言っておかなくちゃ」
 ナミは大声で絡み合いながら店を出ていく連中に冷ややかな視線を向ける。
「ナミさん、これ俺の分ね」
 横からサンジが一万円札をにゅっと出した。ナミは少し驚いて、斜めに見上げる。
「はい。ちょっと待って」
「うん。ねえ、ゾロは?」
「……何があったか知らないけど、サンジくん、やりすぎよ」
「は?」
「なんで追いかけなかったのよ?ゾロ、怒ってたわ」
 ナミの言葉にサンジは肩を竦めて、小さく鼻から息を吐く。
「怒られる筋合いはないね。たまにはあいつもそういう気分を味わってみればいいんだ」
「サンジくん?」
 少し語気を強めると、サンジは唇を尖らせてナミから目を逸らす。
「電話してみるといいわ。ビビを送っていったの。送ったはいいけど、あいつ駅まで戻ってこられるのかしら?そういえば。はい、おつり」
 手渡された額が少ない気がして、サンジが目で問いかけると、ナミは、ゾロの分よ、当然でしょう、とにっこり笑っていった。曖昧に笑い返し、よろよろと扉のほうに向かうサンジの背中を、ナミは溜息と共に見送った。
 サンジは俯いて、なにかを迷っているようだった。意地を張るのもいい加減にしてもらいたいとナミは思いながら次々差し出される手に応えているうちに、いつのまにか姿が見えなくなっていた。
 きっとゾロを迎えに行ったのだろうと、その時のナミは簡単に思い込んでいたのだ。
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