夕立つ八月 1

 何も考えず飛び出してみたら、外はいつのまにかどしゃぶりだった。夕立だ。バケツをひっくり返したような、というやつだ。
 雨は球体のまま太さを増してアスファルトを叩き、熱を孕んだ空気が足元からたちのぼる。
 息が切れた。走りどおしだった。サンジが追って来ない。声が名を呼んだと思ったが空耳だったのか。
 それとももう、追う気などなかったか。
 行くあてはひとつしかない。ゾロの家はここから電車に乗ってふた駅だが、まず濡れた体を拭い、息をつける場所が欲しかった。だから自然とそちらに足が向いた。ナミの家なら、サンジの家から歩いて十分ほどだ。
 ドアを開けたナミは軽く目を見張り、無言でゾロを招き入れた。だいたい、こんな風にゾロが自分を訪ねてくる理由などひとつしか思い当たらない。
「……喧嘩?」
「違う」
 喧嘩じゃなくてその様子はなんなの、とナミは思ったが、あえてその場では訊かずにおいた。ゾロは部屋に入るとぶるっと一度体を震わせ、腕を抱えた。
「とりあえずお風呂使ったら?あんたのTシャツとか、何枚かあったと思うわ」
「悪ィ」
 ゾロはナミの差し出したタオルで足元を拭うと、洗面所に向かった。
 ナミの家のユニットバスは少し大きめで、ゾロは自分のアパートのそれと比べて広いのを気に入っていた。今ではもっと広いサンジの家のものを頻繁に使っているから、ここにはめったにこない。…ひとりでは。
 サンジとゾロがつきあいだしたのは昨年の十一月で、ゾロの誕生日がきっかけだった。それから数ヶ月、最初のうちは自分よりもずっと付き合いの長いナミに遠慮してか、ゾロがナミと二人ですごすことに何も言えずにいたサンジだったが、いつのまにか、ゾロはここへくる時には、サンジを伴うようになっていた。サンジが何か言ったのか、それとも、ゾロがサンジに対して気を遣うようになっていたのか、そのあたりの理由はナミにはわからない。
 ナミにはむしろ、ゾロ自身は、ナミと自分との間柄を気にしていながら何も訊けずにいるサンジを面白がっているように見えていた。それでそれにつきあって、時に見せびらかすようにしたり、サンジの知らないゾロとの過去の思い出話などをこれ見よがしに語って聞かせたりしたものだ。そういうときにサンジの目の中にうっすらと浮かぶどうにも頼りない嫉妬心を憐れみ、それを楽しんでいる間は、ゾロのことをすべてわかっているという自信のようなものがまだ、ナミにはあったのだ。
 そんなものは、今ではほとんど見当らない。
 ナミは溜息をつき、ユニットバスのドア前に置いている小さなチェストにバスタオルとゾロの着替えを置いた。ドアの向こうからぱしゃぱしゃと水の跳ねる音が聞こえた。キッチンでコーヒーをセットし、部屋に戻ってソファに腰をおろす。水音がやんだ。
「いきなり来てすまなかった」
 ナミは頭からバスタオルをぶら下げて部屋に入ってきたゾロに視線を向ける。
「えらく殊勝ね。そんな言葉、あんたの口から聞いたの初めて」
 そう言ってナミはキッチンに立ち、いれたてのコーヒーをゾロに差し出す。
「そうだったか?」
「そうよ」
「…そうか」
 ひとくち啜って、心を解すように、ふう、と溜息をついて、ゾロは笑う。その顔があまりに寂しそうで、ナミは胸に込み上げるものを感じた。ゾロにそんな顔をさせているサンジに問いただしたい気持ちと、怒りがわく。
「訊かせてもらっていいのかしら…でもその前にご飯食べに行かない?お腹すいたわ」
 それを聞いたゾロが顔をあげて笑ったので、ナミは少し安心して、わからないようにそっと握り締めた拳を開いた。けれど、そうして笑い返した顔は強張ってぎこちない表情になってしまったようで、ゾロがそれを見て少し変な顔をした。
 雨は、そろそろやむ頃だろうか。



 開いた瞬間、ざあっと、降りしきる雨の音が聞こえた。ゆっくりと狭まっていくドアの隙間に、ゾロの背中が見えなくなっていった。傘も持たずに出て、ゾロはきっとしとどに濡れただろう。ちゃんと迷わずに駅まで走れただろうか。
 考えれば考えるほど、自分の愚かさに吐き気がする。サンジは呆然と、ドアを見つめたまま立ち尽くしていた。
 ゾロを傷つけた。いくら後悔してもしたりない。ゾロはもう、この部屋を訪れることはないかもしれない。
「……泣きてえ」
 口元を抑えてその場にふらふらとうずくまる。けれど、涙は出なかった。泣きたいのに涙が出ないのは悪いのが自分だとわかっているからだ。それで自分を可哀相がろうなんて、いくらなんでも出来ない。むしろ殴りつけて、自分に対して自分を土下座させたいくらいだ。
 二人のバイト先であるディスカウントショップに最近入った女性が原因といえば原因だが、どうしてこんなことになってしまったのかと、考えても何故かわからなくなるばかりだ。こうなる前に、どうして二人で話さなかったのだろう。
 最後に見せた泣いているようなゾロの小さな笑顔がずっと網膜に焼きついていて苦しい。
「俺はゾロしか好きじゃねえのに」
 頭を抱えたまま、声を絞り出すように呟く。
「なんで、こんな…」
 ゾロは駅に向かっていない、とふいにひらめいた。ナミの家に行ったに違いないとサンジは思った。それは全く正しいが、サンジはゾロの中の、ナミの位置付けというものを正確にわかっていない。だからまた、妙な嫉妬心を持て余して苦しむ羽目になる。手におえない。  思えばそれが、間違いの原因だったのだ。
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