周期的な振動 9

(現在)




 どうすればその線を越えられるだろう。方法ばかりを考えていて、ふと気付く。
 越えるというのはどういうことなんだろう。そう思うと怖かった
 ずっと怖かった、ゾロの存在が。
 

 戻ってきて隣に座ったゾロは、まったくサンジを見ようとしない。サンジも無理にこちらを向かせようとは思わなかった。
 つまみに手を伸ばし、口に運ぶ。その見慣れたしぐさをじっと眺め、なあ、と小さく声をかけてみる。
 ゾロは振り向かない。ビールを飲み込み、喉がわずかに鳴る。
 左耳の裏を見つめる。首筋に暗い影を落とし、その首筋はなだらかに肩へと降りていく。俯いた顎の線、かすかに頬の向こうに見える睫の揺らぎ。
 サンジにはとうに分かっていた。とっくにもう、ただの幼馴染みだとか友人だとか、そんな在り来たりな表現を間に挟んでゾロを見る事など、出来なくなっていたのだ。
 けれど、その表現を失う事から逃げていた。
 サンジは無理に女に走り、ゾロは、そういったことから一切身を引き、ストイックさに拍車をかけた。この十ヶ月ほど、そうやって背中合わせに、お互いが相手のそばにいる方法を模索し続けていたのだ。
 ゾロの静かな横顔に、胸が締め付けられるようだった。
 そっと近寄り、その耳の裏に指を這わせる。ゾロは驚いて、弾かれたように体を退かせた。
「何…」
 サンジは言葉を発しないまま、そっと手を離し、振り返ったゾロのその見開かれた瞳を覗き込むようにみつめた。
「お前が女作んないの、俺のせいかと思ったりして、そういうの探るのも疲れてきたし、お前がなんにも言わないから、俺、お前が俺にどうして欲しいのかとか、ホントにもうわかんねえんだよ」
「俺の事なんか気にしてるからだろ。俺にどうしようなんて、考える必要は無いだろうが」
「本気で言ってんの」
 ゾロは落ち着き無く手にしていたビールを飲み干し、震える左手を伸ばして次の缶を持ち上げる。その手を掴んだ。
「あ、たり前だろ」
 払いのけようと振る手を、サンジは力づくで引き寄せた。ゾロはバランスを崩してサンジの膝に倒れ掛かる。慌てて体を起こそうと右手を突っ張ち、仰向けになって向き直る。
「馬鹿、てめ…」
 その瞬間、サンジは上から覆いかぶさるようにゾロを抱きしめた。口元をサンジの肩に塞がれ、ゾロは大きく喘いだ。
「俺たちは、こうやってくっついてんのが一番良いんだよ。前にも言ったろ」
 サンジ、と、下でもがきながら、ゾロが呟く。サンジは逃がすまいとさらに体重をかけて押さえた。
「離れると思ったけど、相変わらずお前は隣にいるし、女は作らねえし、俺何回も紹介したのに全部ふって来やがるし、だから俺はこうやってますます混乱しちまって、ほんとにもう、お前…お前って…」
 少し力を緩めてみた。ゾロは動かずじっとしている。
「お前を傷つけるの、俺、本当にやなんだよ。だけど、お前に一番酷い事すんの、いつも俺だ」
 首筋にそっと顔をうずめてみた。ゾロは動かず、ただそっと唇を震わせた小さな吐息が、サンジの耳を擽った。石鹸の匂いがする。ゆっくりと吸って、肺に含ませた。


 不思議な事に、お前が俺を拒むはずが無いと、それだけは多分、ゆるぎなく思っていた。おかしな自信だ。だから、踏み越えるのは簡単だった。その事を、お互いが理解していた。だからこそより強い鍵が必要だった。一方が開けそうになれば、片方が新たにかけ直す。そうして長年をかけて幾重にも巻かれた鎖が今、たった一本の鉄線を残して千切れそうになっている。軋みをたてるその音を、ゾロは聞いた。そう思った。
「そんな事はねェ……サンジ」
 お前になら何をされても良かった。そう簡単に声に出来ていなたらどんなに良かっただろう。 
 ゾロはサンジの肩を掴み、首筋に鼻を押し付けた。これが精一杯だった。これでわかれと、心で念じた。
 サンジが顔を上げた。そっと距離をとって上からゾロを見下ろし、優しい声音で愛しげに呟く。
「なんで泣いてんだ馬鹿。見ろ、また俺じゃねえか」
 掌を広げて、ゾロの頬を覆う。親指で目の縁に溜まった涙を拭い、そのまま唇を落として吸い取るしぐさを見せた。
「サンジ…俺は」
 全部言い切る前に、サンジの唇がゾロのそれに重なった。
 触れさせるだけの、短い、臆病なキス。
 それがサンジには多分精一杯で、ゾロは離れたサンジの真剣な眼差しを見上げる。乾いた目から残っていた涙がしずくになって頬を伝った。
「お前、これでもう、逃げ場がねえな」
 そう言って笑ってやると、サンジがようやくほっとしたように息を吐き出し、胸元に頭を押し付けてきた。
「うん。でももうこれで、お前を誰かに盗られちまうとか、そんな事考えねえで済むし、いい」
 もう疲れたから、観念する。そう言って、サンジも笑った。俺も疲れたとゾロが言うと、あほだな俺ら、とサンジがまた笑った。吐息が胸の上で跳ねた。
「正月、家にいろよ」
「わかった」
「その女とは切れろよ」
「うん」
 ゾロはサンジの髪をなぜ、そのまま肩から背中へと手を滑らせる。サンジが気持ちよさそうに大きく息を吐いた。
「今まで悪かった」
「まったくな」
「本当に悪いのはお前だけどな」
「なんだと?」
 物騒な声音でそう言いながら、跳ね起きたサンジの顔は笑っていた。両手を伸ばしてゾロの髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
 やめろとサンジの手を両手で掴んで引き剥がすと、サンジはあっさり引き下がった。手を下げて表情を改め、ゾロの顔を見つめる。
「今夜は泊まって行ってもいいですか」
 平然と言っているようでそうではないと、ゾロにはサンジの落ち着き無く唇をなめる仕草でわかっていた。長い付き合いだと、こういう事にごまかしが利かない。
「いいけど、おめえ、ちゃんと出来るのか?」
「まかせろ馬鹿」
「ははっ」
 破顔したゾロの、その声を耳にして、サンジは深く目を閉じる。
「好きだ」
 その声には、抱きしめる腕を強める事で答えた。サンジが再び覆いかぶさって、深くくちづける。
 静かな夜は、この日のためにあったと気付いた。直接には触れずとも、そばにいてお互いを感じあう行為。その形が少し変わるだけだ。恐れる事など何も無かった。気付くのが遅すぎたくらいだ。
「お前は俺のなんだ」
 ゾロが問う。サンジは笑って、ゾロの鼻に小さくキスを落として、そっと答えた。

――― 恋人になりてえな。
2003年12月発行「周期的な振動」再録。
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