深海にて 1

 望むと望まざるとに関わらず広大な海にも出会い頭というのはあって、その日も、たまたま行き合った海賊船が勝手に戦闘態勢を整え、問答無用に船を襲ってきたために戦端は開かれた。ゴーイングメリー号の面々は当たり前にそれを迎え撃っただけの事だ。
 白兵戦なら大抵の船には負けない自信があるけれど、だからといって油断するなど問題外だ。
 そんな気持ちで敵に臨んだことは一度だって無いが、多勢に無勢の状況が多すぎることも事実で、数にものをいわせて来る敵には多少てこずる時もあるし、めくら撃ちの一発くらい、腹を掠める事があったって不思議はない。
 そういった状況が軽くおとずれただけの事だ、今。
 わき腹のあたりに皮膚の焼ける痛みを感じ、サンジは一瞬のうちにそう結論付けた。
 そして、そのままふらつくに任せて甲板に倒れこんだ。すでに敵の数も残り少なく、すぐに起きあがるのも面倒で、しばらく伏せて、うずくまったままでいた。命に関わるような傷ではなかった。
 板越しに伝わる足音がごつごつと体に響く。
「……起きろクソコック」
 徐々に速度を落として近づいた足音の主は、いかにも不機嫌そうな声を頭上から降らせてきた。
 この男が自分の負傷を気に掛けるなんて珍しい事もあるものだと思いながら、サンジはそれでもまだ動かないままでいた。固いブーツの先が腿のあたりをつついたが、起きあがらずにじっとしていた。伏せた顔に、かすかに笑みをはりつかせて。
 後方ではルフィとロビンが戦っていた。敵が何か意味をなさない雑言を浴びせながら引き上げていく。足音と声で、その様子は手に取るようにわかった。時間にしてわずか十分ばかりの戦闘は、そうしていともあっさりと終結した。
「…おい?」
 ゾロが声を発するのと同時に、サンジの背中がひくひくと小さく波打つ。
「くく…っ。くっくっく…」
 幾分苦しそうな呼吸とともに、その笑い声はかすかだがゾロの耳にも届いた。ゾロは気付かれないように装いながらほうと息をつく。
「…てめえ、やっぱり演技かよ」
「騙されやがって。バーカ……」
 ごろん、と仰向けになって真上にゾロの表情を見たサンジは、驚く。怒りまじりの口調とは裏腹の、切迫を引き摺る目許に本気の心配を見て取って、ふざけてすぐに起き上がることをしなかったことを少しだけ悔いた。
「ワリィ…」
 肘を支えにして体を起こそうとするサンジをゾロは苦い表情で一瞥すると、背後に置き去りにし、すたすたと歩き出す。
「おいゾロ」
「……」
「悪かったって…てて」
 声の調子が変ったのに気付いて、ゾロは軽く振り返る。サンジは立ち上がって、わき腹のあたりを抑えていた。口許には笑みを浮かべているが、黒いスーツの生地にまで染みとおって、そこから溢れた血が数滴、足元に零れている。ゾロは立ち止まり、目を見張った。
「…油断するからだ」
「へへ。大丈夫、かすっただけだ。んな顔すんな」
 薄笑いを浮かべてそう言いつつも、こころなしか足元をふらつかせ、やや呼吸を乱している。ゾロは動かずに待った。
「…へ。本当に珍しいな」
 顔色ひとつ変えず、それでいて視線はサンジが腹を押さえている左手のあたりに注がれている。サンジは戸惑いつつも笑ってみせた。己が流す血には呆れるほど無頓着なくせに、他人のそれは気になって仕方が無いらしい。
「大丈夫だって。らしくねえなあ、調子狂うぜ」
 目の前に立って、わざと声を高くしてそう言いい、もう一度笑ってやった。
 ゾロはハッとしたように目を開き、すぐに視線をはずした。何か言おうと思うのに言葉が出てこない。言いたい言葉と言うべき言葉と、いつもなら言っているであろう言葉が重ならない。ゾロがそんな表情を見せる事は多くは無い。
 それに惑ったのはせいぜい、一秒か二秒の間の事だ。呆けていたといえるほどの間ではないが、目の前が翳って唇を柔らかく合わせるだけなら、充分に足りただろう。
 ……キスだ。
 そう思った瞬間に離れていった。ゾロは驚いて一瞬頭が真っ白になったせいで次の態度を決めかね、結果、サンジを怒鳴りつけるタイミングを逃した。不思議なほど行為には嫌悪を感じなかった。ただ、驚いた。
「何する…」
 低く言って、ぐいっと左手の甲で唇を拭った。サンジはゾロの顔を驚いたように見つめている。
「何って…ここはそうだろ」
 と、呼吸まじりの声で呟くように言ったが、まるで夢でも見ているような口ぶりだ。
「…なんでだ?」
 そう言って首を捻る。
 訊きたいのはこっちの方だ。ゾロはひたひたと胸の奥から湧き出して暴れる熱の存在を感じながら、片手を伸ばし、わき腹を抑えるサンジのその手の上に重ねて置いた。サンジの手が、ピクリと反応する。
「なんだよ?」
「男に手ェ出すほど血の気が豊富なら」
「んなわけねえ…」
 サンジは目の前の男が、いったい何故男なのかわからない、と混乱したふうに首を二、三度横に振る。とたんに脇腹にずきりと痛みが走った。ゾロがそこを、上から強く抑えたのだ。じわりと新たな血が流れ出る。
「寝ぼけてんじゃねえ、阿呆」
 吐き捨てるようにそう言って上目遣いに睨んでくるゾロの頬が、ほんの少しだけ紅潮していた。サンジは息を飲み、決まり悪そうに頭をかいた。
「あー…、…チョッパーんとこ、行ってくる」
 そう言って、サンジの方から離れた。ゾロはキッチンの方へ向かうその背中を少しの間目で追って、それから足を反対方向に向けた。ウソップが船の修復をはじめているのが目にとまり、声をかけてそちらへ歩く。
 敵船が去った方角から砂埃が塊になって流れてきて頬を打った。塵は存在の名残だ。それの触れた部分にそっと指を這わせ、顔を上げる。
 開けた視界に真っ白な雲が、空を切り裂くような早さで流れていた。
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