桜 〜花色の瞬き〜 1

 この道を通い始めて、もう半年になる。
 首都圏から高速で一時間、おりて更に一時間、春まだ浅い雪山を間近に見ながらうねる林間の道をだらだらと登った先に、目指す建物は見えてくる。ゾロは掌にすっかり馴染んだハンドルの感覚をあらためて確認しながら、慎重に山を登った。
 物寂しいこの山には不自然なほど小奇麗な、真新しい建物が、くいなのいる療養所だった。
ベッド数こそ多くはないものの、民間の施設としては申し分無い規模と質を備えており、しかも低価格でそれを提供しているということで、紹介をうけて入所した。
 幼馴染のくいなが発病して、もう二年が過ぎた。この療養所に入院してからの半年間、ゾロは毎週、片道二時間の距離を通い続けている。幼馴染といっても、身寄りがなく同じ施設で育った二人には、お互いがかけがえのない肉親以上の存在だった。くいなにとって家族と言える人間はゾロ以外にはおらず、それはゾロにとっても、同様なのだった。
 しんとした病院の中に時折、ぱたぱたという看護婦の軽い足音が響く。ロビーに二、三の人影を見つけ、目を馳せると見知った顔があり、軽く頭を下げた。そして正面玄関でスリッパに履き替え、ゾロは二階の、くいなのいる病室に向かった。
 病棟は区切られておらず、とても開放的だ。入院患者の病状はさまざまだが、その人に合った、その人が望むケアを施すことを目的とした施設だ。
 くいなの病は完治の見込みがない。現在は薬と療養によって、痛みを和らげる治療を、ここで行っている。科学的な治療を行えば、多少は永らえると聞かされてはいるものの、くいな本人がそれを希まなければどうにもならないことだった。一年以上に及ぶ闘病生活の果てにくいなが選んだのが、この病院だったのだ。
 ゆるやかに命が力を失ってゆくのをただ見ていることしか出来ないという無力感は、絶え間なくゾロを襲う。共に過ごすはずだったずっと先に存在している時間や、常に側にあったぬくもりを失うという恐怖は、胸の奥の方でひそやかに、しかし徐々に体力を削ぐようなやり方でゾロを苛んだ。
 くいなの方が苦しいのだ。そう思うことでこの半年、なんとか過ごしてきた。くいなの心の安定を願い、症状が落ち着けば喜び、少し悪いと聞けば不安に胸を曇らせる。くいなの発病以降、ゾロの生活の大半を占めていたそんな生活も、おそらくもうそれほど長くは続かないだろう。そんな予感を、ゾロはうっすらと感じている。だから、最近は時間の許す限りそばに付き添うようにしていた。
 入り口の戸を引き開けると、ベッドに横たわったくいなは目を閉じて静かに眠っていた。窓には落葉樹の寂しげに佇む姿が、カーテンの隙間からわずかに覗いて見える。白い病室はまるで命の色が無いようで沈みこむような息苦しさを感じ、ゾロはその圧迫感に軽い眩暈を感じた。眠っているくいなを起こさないよう、病室には足を踏み入れずそのまま戸を閉め、来客用のロビーに向かった。
 入院患者のいる二階には、プレイスペースや来客用の宿泊施設、家族談話室など、配慮の行き届いた設備が整っている。誰もが気軽に利用できる図書館やチャペルなどもあった。
 職員はみな一様に穏やかな笑顔で患者に接し、さまざまな部分に配慮の行き届いているこの療養所では、患者の心を解し、不安を取り除く事を第一に考える。国立ではこうはいかないのだと、同じように入院患者を抱える家族から聞かされた事があった。
 一階には外来に来客用ロビー、喫茶室やラウンジなどがあり、ゾロはくいなが目覚めるまでそこで時間をつぶそうと足を向けたのだが、折り悪く空席が見つからず、仕方なくロビーのすぐ脇にあるエレベーターで屋上に上がった。
 ゆっくりとノブを回して半分だけ非常口のドアを開けると、隙間から猛然と風が入り込んでくる。無音の状態からの急激な変換に、ゾロは咄嗟に首をすくませ、目を塞いだ。外はまだ冬の名残の空気が重く、乳白色の深い空が寒々しい。コンクリートは北からの強風に晒され、触れれば氷の様に固く冷たかった。
 灰色の風景の中に、ゆらめく白いたなびきを見つけ、ゾロはゆっくりとそれに沿って視線を移す。手すりにもたれた白衣の男が、酔狂にもこの寒空の下で煙草を吸っていた。風に煽られる軽やかな金色の髪が曇り空の鈍い光でくすんで見えた。
その男を、ゾロは知っていた。最近新たに加わったくいなの担当医師だった筈だが、咄嗟には名前を思い出すことが出来なかった。
「あれ、お見舞いですか?」
 白衣の男がゾロに気付いて、気安い調子で声をかけてきた。
「はあ。でも眠っていたので」
「そっか、丁度薬が効いてる頃だなァ。夕べはちょっと眠れなかったみたいですから」
 男はそう言ってかすかに笑顔らしきものを作る。
 夕べ、調子を崩したと言うのだろうか?そんなときのくいなの様子は、ゾロも幾度か見て知っているが、それはとても正視できない苦しみようであった。
「どんな…?」
 男は目を眇めて煙を肺に送り込んだ。そしてゆっくりと口を開いて吐き出すと、俯いて口許だけで微笑んだ。そして、上目遣いにゾロの立つドア付近にちらりと視線を送った。
「そう、それで話があったんですよ。ちょっと待って、これ吸っちゃってから」
 ゾロはふう、と溜息をついて足を心持ち開いて体を楽に保ち、首を傾げて問うた。
「いつもここで?」
「時々。喫煙スペースで患者さんにそうしょっちゅう交じるのもなんだしねえ?これだけは大目に見てもらってんです。俺、すごいチェーンスモーカーなんですよ」



 簡素な部屋には、かすかに煙草の香りが沁みついていた。普通の病院に比べれば消毒液の匂いは薄いのだが、それだけにこの空間は部屋の主のまとう空気を意識させた。
「どうぞ、かけてください」
 椅子を指して言いながら、男はくいなのカルテを手に取ると、胸ポケットから銀縁の眼鏡を取り出してかけた。
「ここ一週間ほどの間、ずっと高熱が続いています。体力も落ちてきているし、食欲もあまりないようです。結果、投薬の効果が薄れている」
「そうですか」
「今の治療では正直限界です。科学療法に切り替えなければ…」
「切り替えなければ?」
 医師はそこで口をつぐんだ。唇を固くむすび、紙面をじっと見つめている。
「ずいぶん冷静だな。くいなさんが言っていたとおりだ」
「は?」
 ゾロは訝しんで、眉をひそめる。
「普段は凪の海みたいに静かだって」
「なんの話ですか」
 医師は苦笑して握った拳を口許に当てた。そして、会話の内容に不適当な表情だと気付いたのか、こほんとわざとらしい咳をひとつし、居住まいを正した。
「くいなさんには、あなたには言わないようにと言われています」
「どういうことだ」
「悪いんですよ。しかもかなり。もう、あまり猶予が無い」
 そんなことはゾロもとうにわかっている。この病院の性質を知って、ここに入ることをくいなと共に決めてから、ずっとその日だけを見つめてきたのだから。
「猶予なんか、ここに入った最初っから無いんだ、今更……正確には、あとどれくらいなんです?」
 医師は気付かないほどごく僅かに目元を歪めて、一呼吸おいて言った。
「春までもつかどうか…」
「そんなにすぐか」
 ゆっくりと息を吐き出し、医師は顔をあげてゾロを見た。
「あなたのことばかり心配していますよ。痛々しいほどにね」
 いつか来るとわかっていたその日が、もう、目前に迫っていた。おぼろげに見えていた輪郭が、気付けば細部までつぶさに見て取れるほどに。
 ゾロは医師の言葉を聞きながら床の一点をじっと見つめて、じわじわと胸に侵蝕してくる恐怖に耐えていた。そして大きく息を吐き出すと、両手で顔を二、三度擦り、そのまま口許を覆った。窓の外で、梢が一際大きく、ざわりと揺れた。明かりのともされていない自然光だけの薄暗がりの部屋で、ゾロはしばらく医師と向かい合ってそうしていた。
 山の春は、まだ、当分先のことのように思われた。
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