レモンイエロー ストレンジャー 1

 ゆらゆらと地面から立ち上る暑さを身に受けながら、ゾロは途方にくれていた。道の真ん中に立って、今来た方角を振り返り、ため息をつく。
 手元には少量の荷物と、安いビニール製のリード。その先端には黒い小さな犬が一匹。
 こいつが元凶だ。
 夏を間近に控えていまだ厚い雲が覆う六月の空を見上げ、ゾロはこの先に進むべき道筋のいくつかを思い描いてみた。
 金はあまりない。となると、選択肢は限られる。優先すべき事柄から順に考えていかなくてはならない。うんざりだが、どうしようもない。
 まずは、寝床の確保だ。雨露をしのげる屋根さえあれば、この際贅沢は言わない。時節柄野宿で死ぬことはないはずだが、如何せん、この時期、日本にいるかぎりは雨から逃れられない。
 バイトは二日か三日、休む必要がある。下手をすればクビだろう。身辺が落ちつくまでは仕事すらままならないということだ。
 幾人かの友人の顔を思い浮かべてみる。
 一番あてになりそうなのはナミだが、あのワンルームマンションに犬は無理だ。ウソップの家には病気のおふくろさんがいる。ルフィのひとり暮しの家は、スペース的に自分が入り込むことさえ無理だ。他にもいくつかあてはあったが、どれも似たり寄ったりだった。そもそも、犬と一緒に置いてくれ、などと無理を言える友人など、そう多くはない。
「まいったな」
 ゾロはもう一度大きく溜息をつき、足下の子犬に話し掛けた。子犬は自分に関心が向いたのがわかって、黒くて丸い目を輝かせ、千切れんばかりに尾を振っている。屈んで右手に抱え上げると、触れた部分にじくじくと汗が浮いてきた。太陽は雲に覆われたままだが、気温はおそらく三十度を超えているだろう。
 ナミの住む街までなら電車で一駅分。歩けば一時間弱の距離だ。空気は体に纏いつくように生暖かく湿っている。歩いて行くのは気が滅入る所業だったが、犬をつれていてはそれすらも選択の余地が無い。たとえ、顔を見せて如何な罵詈雑言を浴びせ掛けられたとしても。
 暑さにゆらめく視界の隅、右手に折れる手前に見える角の家の庭先に、金糸梅の黄色い花が鮮やかに咲き誇っている。その先に紫陽花のうす青いこんもりとしたかたまり。さらに先を見るとそこで道路は途切れ、正面に見える線路に沿って、金網の柵がずっと真横に伸びている。わき道には姫女苑の小さな花が咲いていて、電車の通るたびになびいてゆれていた。
 ここを伝っていけば隣の駅には簡単に辿りつける。以前この先にあるコンビニでしばらくアルバイトをしていたので、だいたいの様子は見知っていた。
 空はもったりと次第に暗さを増してきている。やがて雨になるのかもしれない。
 歩き出す前に子犬に少し水を飲ませた方がいいだろうと思い、どこか良さそうな場所はないかと、ゾロはきょろきょろとあたりを見渡した。
 一軒のやや古びた洋館の茶色い屋根が目に留まった。アルバイトに通っていた頃はよくその前を通ったので、その家の事は覚えていた。
 切石を積んだ上に白い鉄製の柵がめぐらされていて、高さはゾロの背丈を超えていた。中央の、同じく白い門扉は、針金で固くくくられて閉ざされ、中には入り込めないようになっていたが、隙間から覗けば、向かって正面から右手にかけてL字型になった建物に囲まれて、荒れ果てて草がぼうぼうに繁った庭があった。その様子は今もすんなりと思い浮かべる事が出来る。
 当時、あの家はたしかに無人だった。けれどどうも、先ほどから塀の隙間にちらちらと人の影が見える気がする。ゾロは少し離れたところからじっと様子をうかがった。
 庭は相変わらず荒れたままのようだ。家にも人の住んでいる気配は感じられない。けれど、門扉に巻かれていた針金はすっかり取り除かれていた。門から正面に見える建物は全体に白い覆いがかけられている。取り壊すのかもしれない。
 鉄柵の隙間から見えていた人物はどうやら男で、身長はまあまあ高めで、細身だが均整の取れた体つきに、斜めにストライプの入った鮮やかな色合いのシャツがよく合っている。髪が金色なのには首を傾げたが、年はゾロとそう変わらないように見えた。
 男は庭の真ん中に立って建物を見上げている。門から入って右手の建物の方だ。その建物の玄関ドア脇にある水道が目に入った。あれを使わせてもらえればと思いつき、ゾロは門の外から思い切って声をかけた。 「すいません」
「あ?」
 男が振り返った。目が青いのに内心で驚く。なんの疑問も持たず日本語で話し掛けたが、はたして通じるのだろうか。そう思って見ていたら、男の方から声をかけてきた。
「何?なんか用?」
「…ああ。すまねえが、そこの水道、使わせて貰えねえか?こいつに水をやりてえんだが」
 男はじろりと子犬に視線を送る。煙草を銜えた口許がかすかにほころんだ。
「いいぜ、入れよ」
 丈の高い草を長い足でかき分けるようにして、男は門扉に歩み寄ると、内側から開いてゾロを招き入れた。ゾロは軽く頭を下げて礼を言い、水道に向かった。
 肩に担いだボストンバッグを下ろし、中からエサ用に使っていた小さなボウルを取り出す。水を入れて目の前に差し出してやると、犬は小さな尾を左右に振り、ぴちゃぴちゃと音をたてて勢いよく飲み始めた。
「ちっちぇえなあ。名前は?」
「しずく」
「そりゃまた…えらく可愛いお名前で」
 声が笑っている。何がおかしいのだろう。可愛い?とゾロは首を傾げた。そんな事を考えてつけた名ではなかった。
「こいつの入ってたダンボールにでかでか書かれてたんだ。日本酒かなんかの箱で」
「捨て犬だったのか…」
「雨ざらしでな、見つけちまったもんは仕方ねえし」
 ボウルから顔を上げたしずくがぷるぷると顔を振ったので、飛沫がはねてゾロのTシャツに小さなしみを作った。男が、ふうーん、と低い声とともに煙を吐き出す。
「しかし、つれ帰った安アパートはペット厳禁、まんまと見つかって追い出されて途方にくれつつ歩いていて、たまたまこの前を通りがかったってとこか?当ってるだろ」
 ゾロはむすりと目を座らせる。男は背後に立って吸いさしの煙草を口許に運びながら、上から子犬の仕草を眺めている。興味があるのかないのか、表情からは読み取れない。悪意は無いのだろうが、それにしても癇に障る物言いだ。
 しかし、実際そのとおりなのだった。隣に住んでいた神経質なサラリーマンが大家にクレームをつけたのだ。子犬だからそれほど鳴いたりもしなかったのだが、匂いがダメだ、敏感なのだとか言っていた。ルール違反は承知していたので、ゾロは文句を言い返すことも出来なかった。
 拾ってきてまだ三日だった。まったく、飼い主を探すひまも無かった。
「馬鹿だな、そんでお前、黙って追い出されたのかよ」
「別に…どうせ次の更新で出るつもりだったし」
 これは嘘だった。古かったが日当たりもよく格安で、交通の便もよかった。なかなかの掘り出し物だったのだ、あのアパートは。考えれば落ち込むのでなるべく考えないようにしていたのに、男の言葉で思い出してしまった。
 あまり飲ませすぎてもいけないので、水はすぐに流した。子犬…しずくは満足そうに口許をぺろぺろ舐めてゾロの足下に蹲った。雑草がかさこそと乾いた音をたてた。
「あてはあるのか?」
 背後からかかった声を無視して立ちあがり、ボウルを振って水気を払うと、再びボストンバッグの中にしまった。男は煙草を足下でにじり消し、足を開いてリラックスした姿勢で、そのゾロの様子を眺めている。
 かたんかたんと、電車のゆく音が、暑さに濁った大気を伝わってかすかに響く。ゾロは線路脇に押し出される熱い空気にさらされた姫女苑を思った。
 振りかえれば男の背後には荒れるにまかせて生い茂った草木が庭全体に広がっている。圧迫感のある緑。じりじりと、脇のあたりに汗が滲んでくる。
「まあ、なんとかなる。水を有難うな」
「うちでバイトしねえか?」
 片手を上げて去ろうとしたとたん、男は後ろからそう言った。ゾロの足が止まる。
「報酬はガス水道光熱費家賃タダ、なんてどう?もちろんペットOK」
 ゾロの眉がぴくりと動く。なにか今、非常に魅力的な言葉を聞いたような気がする。
「当面の仕事は、この庭の掃除と手入れ。その後のことはまあ…」
「のった」
 振り向くと、顎を指で擦りながら考えるような素振りをみせつつも、わかっていたけどね、と言わんばかりの男のにやついた顔。不快感を煽るようなその表情が頭の隅にチラつく。 
 なんでこんなことをあっさり口に出来るのか、ゾロとしては理解に苦しむところだった。早まっただろうか。自分を不審に思ったりはしないのだろうか。
 ゾロの方とて、ついさっき初めて言葉を交わした得体の知れない男に対し、警戒心がないわけはない。しかしものは考えようだった。間借りするときに家主の性格や性癖などをしつこく吟味する店子もいまい。ましてや、雨露さえしのげればいいという自らの今の立場を考えれば、これほど良い話はないように思える。渡りに船といっても良かった。
 立ったままぐるりと庭を見渡す。オオバコにタンポポ、クローバーやつゆ草などが地面をはいつくばるように覆い、そこにやや背の高い雑草が勢いよく伸びている。えのころ草、あざみ、すいば、以前からそのまま放置されていたのだろう、蔦の類や、薔薇、その他の草や花。
「最低限の家賃は払うぜ。こんなの、本気でやれば三日くれえで終っちまう」
 ゾロは言った。男は、商談成立、と言ってにやりと笑い、ゾロに向かって手を伸ばした。ゾロもつられて、その手を握り返す。
 しずくが地面の匂いを嗅ぎながらうろうろと草叢の中に入り込み、かさかさと小さな音を立てていたが、しばらくすると、隅の方にひょこひょこと進んで行ってしゃがんみこんだ。犬の方はすっかり住みつく気でいるようだ。
 人間に比べて、なんと簡単な。
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