ペパーミント スカルセッション 1

 じいじいと耳障りな蝉の鳴き声が降り注ぐ坂道を、ゾロは大股でかけあがっていく。
 その坂道の先にある境内の石畳、上の森へと伸びる階段。仰ぎ見れば鬱陶しいほどの緑。三十分前に通りすぎたそこへと、再び戻る道のりだ。
 もう十分以上も走りどおしだ。さすがに息が上がる。Tシャツはすっかり濡れそぼって、吸い取りきらないどろりとした汗が皮膚を覆うように流れる。
 梅雨明け宣言が出て数日たった乾いた土の地面は、軽く蹴るだけで砂が舞いあがる。汗に濡れた肌は埃だらけだ。
「ゾロ!」
 前方にサンジの黄色い頭が見えた。ゾロは速度を緩めて大きく息を吸う。肺が痛んだ。
「見てきたけどいねえぞ。どうだった?」
「いねえ」
 はあーっと、サンジが疲れたように息を吐き出し、膝に手を当てて体を折った。
 しずくがいなくなった、と、ゾロがサンジの携帯に電話を入れてから二十分ほどたっていた。サンジはすぐに家を出て、いつもの散歩コースを順路どおりにやって来たのだが、しずくはいなかった。
「なんでリード放したんだよ」
「……悪い。不注意だった」
 ゾロはまだ息が荒い。汗ですっかり色の変わったTシャツを見て、サンジはさらに出かかった言葉を飲み込み、唇を引き絞った。
「とにかく探すぞ。事故にでもあってからじゃ遅い」
「ああ」
「そんなに遠くにいけるわけはねえんだから、大丈夫。そこらに絶対いるよ」
 ゾロはぐい、と顔に浮いた汗を手の甲で拭ったが、あまり効果はなかった。サンジはタオルを持って出ればよかったと思ったが、何も言わず、かわりに軽い調子でそう言った。
ゾロは下唇を軽く噛んで引き上げ、苛立ったように左右に一度、大きく首を振った。汗が飛び散った。サンジは労しげな目で汗にまみれた横顔を盗み見た。
 電話越しの声は驚くほど狼狽していた。最近しずくはリード無しでもついて歩くのだと嬉しそうに話していたのは、つい昨日のことだ。サンジは、それでも危ないからなるべくそういうことはするなよ、と言ったばかりだった。
「それ見たことかと思ってるだろう」
「あ?」
 頬がこわばっている。サンジはゾロの背中にそっと掌を当てて、軽く押すようにして促した。
「今そんなこと言うかよ。行くぞ」
「あっちは今見たぜ」
「もう一回行くんだ。お前、走ってきたんだろ?今度はゆっくり、名前呼びながら行こう」
 声の調子がやや変わったことに気付いたのか、ゾロはサンジをじっと見て、そのまま俯いた。
「悪い…、仕事してたんだろ」
「いいって。早く見つけてやろうぜ」
 散歩はおもにゾロの仕事だ。もともとゾロの飼っている犬だから当然なのだが、学校からそのままバイトに出て家に戻り、その後散歩に連れ出そうとすると、すでにサンジがすませてしまっていることも多い。サンジはわりと楽しんでそういったことを引き受けてくれていたので、ゾロはこれまであまり深く考えたことはなかった。
 そういうことの一切が、自分が暮らす上でサンジにかかる負担の一切が、サンジの好意によるもの以外の何物でもないという事をだ。
 犬が好きなのだろう、程度にしか思っていなかったかもしれない。こうやって、ゾロの不注意で起きた事にさえ、嫌な顔を見せずに手を貸してくれるのを見れば、それだけでは済まない事などすぐにわかるというのに。
 あの時、ただ通りすがっただけの出会いがこんな形にまで変化している状況に、ゾロは時々切ないような気持ちを味わう事がある。今のこれがまさにそうだ。サンジが隣にいることがなぜか辛い。手を貸せと言って自分で呼んだにも関わらず。そんなふうに動かされる心は、自分でもどうしようもない。
「いや、お前戻れ。俺ひとりで…」
「無理だろ」
 サンジはゾロの言葉を遮るようにしてあっさりと却下した。
「お前に任せてたら二次災害が出る。散歩の途中で電話してきて、何度俺にナビさせたと思ってるんだ」
 煙草に火をつけて一息つき、そう言うとにやりと笑った。
 道を覚えるのは昔から苦手だが、別に困った事だとは思っていないゾロは、うるせえ、とだけ言って前を向いている。
 確かに仕事中だった。店のオープンに向けて新作レシピを開発していたところだ。それを中断させられたのだから普段ならば憤慨ものだが、内容が内容だったので、サンジは慌てて駆けつけたのだ。だからせめてもの意趣返しのつもりでいやみを言ったのに、ゾロはあまり堪えていない様子だった。真っ赤になって言い返す様を想像していたサンジとしては、肩透かしを食らったような気分だ。
煙草の先端を噛んでつまらなそうにしているサンジを一瞥し、ゾロは背中を向けて歩き始めた。サンジは舌打ちし、携帯灰皿をあけて煙草を消して落とすと、それを追った。    
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