愚か者の春(Z)

(※Holy&Brightのその後の話です)




 真っ白だったゲレンデも土くれが端にのぞき、ところどころ穴が開いたように地肌が見え始めている。日が照っていれば冗談ではなく暑いのでウエアなど着ない。空気はまだ冷たいが、その清しさが肌に心地よい。
 冬の間、幾度も嵐は訪れ、吹雪に閉じ込められる夜を過ごした。勝ち誇った様に姿を現す性悪な太陽に背を向けてしまいたいという願望は常にあったが、やはり冬の山にはそんな太陽しか似合わないという敗北感にも似た気持ちを表情に貼りつかせ、その下に凍りついた身を晒す。そんな冬を、結局ゾロは嫌いではないのだ。
 思えば、ずっと安定を欠いていたような気がする。サンジと別れてからのこの三ヶ月は。考えれば考えるほど有り得なく思い、ゾロは考えることをすでに止めていた。サンジを好きなのか、と、面と向かって問われてそうだとはっきり言い切れるのかどうか、自分でも自信はない。
 もうすぐ週末は山だと言ってかわすことは出来なくなる。山にも春の足音は聞こえ始めていた。性悪な(繰り返さずにはいられないほど憎々しい)太陽は春の暖かなそれへと変貌を遂げ、刺すような痛みは柔らぎ、かわりに包みこむような大らかさを得ていた。
 サンジのことを思うと、胸から胃の辺りがきゅうと縮むような感じがする。曖昧な会話ばかり繰り返して待たせたままで、ゾロは未だサンジに何一つ告げていない。太陽を見ていると、サンジを思い出して仕方がなかった。
 待つという言葉は、いったいいつまで有効なものだろう?あの男はそんなに気の長いほうではないはずだ。そろそろ良い女でもみつけて、こっちからのこのこ出ていけばいつの昔の話しだという顔であしらわれてもおかしくない。
 そのこと自体は別段怖いとは思わなかった。それならそれで、この有り得ない事態が別の形に変化を遂げるだけだ。いっそ、気が楽だ。ただ、サンジに対して抱いた自分の気持ちを確認する機会を失うだけで済む。
 ゾロは東京に向かう列車の中で、窓の外に広がる早春の山々を眺めながらつらつらとそんなことを思っていた。俺もあいつも、なんて馬鹿なんだろう。何遍同じ科白や行動を繰り返したって、俺達が男同士であるということは変わらないのに。
 この時点ではまだ、会おうか会うまいか、ゾロは決めかねていた。




 冬休みが終わってバイトが一段落し、東京に戻った時に一度、ゾロの方から連絡をした。駅でサンジと別れて、二週間ほどたった頃だ。
 半ばサンジの挑発に乗ったようなものだったが、その腹いせもあって、期待を持たせるようなことは何一つ言わなかった。住む場所が近いと喜ぶサンジに、嬉しいと感じながらも同意はせずに、週末はまだ山に通うからと突き放すように言った。照れもあったが、それよりも素直に喜びを表すサンジに対して意地の悪い気持ちが働いたせいだ。
 サンジは気落ちしたように、「じゃあ、ひまが出来たら」などともぞもぞした声で言った。電話を切ったあと、泣きそうなほど悲しい気持ちになって困った。自分はなんて馬鹿だと思った。
 きっと、サンジは泣いただろう。





 雪景色の中で見たサンジの表情は、どれも、やわらかな光とともに瞼の裏に浮かぶ。
 怒って怒鳴り散らしたり、甘えた様に長い前髪のすきまから上目遣いで見上げてすねたりした。子供みたいに笑う時もあれば、何もかも受け入れるような湿り気を帯びた笑みをそっと浮かべ、あろうことかゾロが好きだといって泣いてみせさえした。思い出すたび、ゾロは瞼を抑えて長い溜息を付く。どうしても、どうしても嫌いにはなれなかった。それどころか、出来ることなら望むことに少しでも応えてやりたいと思わせた。サンジはゾロが笑うと嬉しそうにしていた。そういう顔を見るのは好きだと思った。
 春には花見に行こうと言ったのに、もたもたしているうちに春はやってきて、そして行ってしまった。山桜もとうに満開の日を迎え、山麓を覆う紅色は賑やかな彩りを空に添えていた。それをゾロは遠くから眺め、無駄にした時間や言えなかった言葉などを思って、少しだけ辛いと感じる。時間は過ぎていくものだし、消えた言葉のどれもが決して正解ではないと知った上で、ただ、サンジに会うことをどうしてか怖いと思う、そんな感情を抱えている事実が、辛いのだ。
 結局、お互い男だということだけだ。小さいことなのかもしれないが、気持ちが有る分、一歩前に進むことにどうしても躊躇いを覚える。どこまでゆけば、この何かを畏れるような気持ちが無くなるのだろうか。
 そんなことが、有るのだろうか。




 本格的に東京に戻ったその夜、ゾロは久しぶりにサンジに電話をした。サンジからは何度か電話を貰っていたが一度も誘いに乗ったことは無く、その間ゾロから電話をしたのは、結局最初の一度きりだ。
 電話の向こうのサンジは声だけでわかるほど嬉しげだった。声は上擦って、あきらかにゾロからの提案を待っていた。ゾロが抱いていた「もしかしてもうサンジは忘れてしまったかもしれない」という不安と希望が入り混じったような複雑な気持ちはすべて杞憂であったのだとわかり、幾分胸が軽くなったのは確かだったが、かといって会ってどうするのだ、という考えが消えて無くなったわけではない。
「じゃあ、週末とか、もうずっとこっちにいるんだよな?」
「ああ」
「あー…ああ、そうか。じゃあ、ゆっくり出来て、いい、な」
「そうだな」
「だな」
 会話は途切れて、室内の静寂が耳の中に煩く入り込んでくる。その数秒に全身を駆け巡った行くべきか戻るべきかという逡巡の嵐は、ゾロに冷たい汗をかかせた。
 言えばいいのだ、ひとこと、会おうと。こんなものは駆け引きでもなんでも無い。意気地が無いだけだ。しかも二人揃って、なんて滑稽なことだ。笑う気にもなれない。
「…もう、あっちも随分あったけえよ」
「そうかよ。ジジイも商売上がったりだな。ざまあねえ」
「春は春で、オーナーは忙しいさ。相変わらず週末は予約が入ってたしな」
「へえ、世の中案外物好きは多いな」
 ゾロの脳裏に、ダイニングの大窓から入る日差しと、そこに真っ直ぐに立つ横顔のゼフの姿が浮かぶ。サンジも、同じように思い浮かべているような気がした。
「ヨサクとジョニーはまだしばらくいるらしい」
「そっか」
 再び会話が途切れた。サンジも言い出せないでいることがわかる。ゾロは唇を噛んだ。
 いったい俺は、サンジに何を求めているのだろう。そばにいてくれと言いたいのか、言わせたいのか。こんなものは駆け引きでもなんでも無い。じゃあなんだというのだ。
「そろそろ、寝るわ、また連絡する」
 サンジが沈黙を打ち破って言った。ゾロは、ほっと溜息を付く。
「ああ。じゃあまた」
 おやすみ、と言って、電話は切れた。声に感情はなかった。
 これで良いんじゃないのか。もともと、自分がサンジに求めていたのはこういうたわいない話を適当に交わすような、そんな間柄だったはずだ。そうやってゾロはまた、振り出しに戻ってしまう。どうどう巡りの終わりはまったく見えてはこない。
 考えることは止めていたはずだ。それはつまり、サンジに答えを出させようとしているのだ、という自覚はある。逃げていると言われればゾロは苦々しくも笑うしかない。
 自分がどうしたいのかを迷い、決めあぐねることなど、今まで生きてきてはじめての経験だ。ゾロは携帯電話をクッションに放り投げて畳にごろんと寝転び、天井を見上げた。格子の間に渡る板の目を数えながら冷蔵庫の唸るような音を聞いていたが、すぐに疲れて目を閉じた。
 会いたい、ような気がした。




 翌日、起きだして窓を開けてみると、ぼやけた空気が厚ぼったい薄ぐもりの空に、やわらかな太陽が浮かんでいた。春の陽気というには初夏の色が混じり、ゾロは暑さで目を覚ましたほどだ。
 シャワーを浴びて風呂場から出ると、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルをを取り出して一息に飲んだ。庫内に食べるものは何も入っていなかった。時計を見れば午後二時、二度寝して、朝食どころか昼食も食べ損ねてしまった。空腹を感じたので、外に出て何か食べようか、と思いながら、ゾロはまたベッドにだらりと寝転がった。
 せめて疑い様のない晴天だったならば。
 またそうやって踏み出せないことへの言い訳を考えている自分にはいい加減嫌気が差してくる。こんなにも臆病な男だったか、考えてもいいことなどないのだから止めようと、何度思った?
 会いたいか、と自分に問う。答えはひとつだ。
 会いたいと思った。顔が見たいと。サンジは自分の顔を見てきっと笑うだろう。その顔が見たい。ゾロは仰向けになって目を腕で覆い、次第に早まる鼓動に耳を澄ました。
 会いに行こう、会いに。こんなくだらない煩悶にはさっさとけりをつけて、失いそうな自分の姿を取り戻さなくては。こんなにも、らしくない自分に動揺するのはもう、これきりにすべきだ。すると言葉は、会いたい、から、会わなければ、に変わった。
 会わなければ、時間はどんどんゾロを置き去りにして、自分の手ではどうしようもないところでまったく別の未来に変化してしまうだろう。それが嫌だと思うなら、自ら動き出すしかない。
 体を起こして窓から空を眺めた。雨にはならないだろうと思った。適当に服を着て部屋を飛び出した。
 サンジの住む町までは電車を乗り継いで三十分から四十分の距離だ。
 ゾロは窓外を走る景色を見ていたが、瞳は何も映さなかった。サンジに連絡するのは駅に着いてからにしよう。とにかく、サンジの住む街を一度見てみたいと思った。
 改札を抜けると、目の前をすこし強い風が、周囲の空気を巻き取るようにして通りすぎていった。ゾロはその中に街の匂いをかぎとる。排気ガスの匂い、商店の店先に並ぶ果物の匂い、アーケードの入り口にある蕎麦屋の匂い、駅の並びにあるコーヒーショップの匂い、そこに混じる、僅かばかりの緑の匂い。深く吸って、はいた。そして携帯の液晶画面に視線を落として番号を確認すると、通話ボタンを押した。


「も、もしもしっ」
「サンジか?」
「…ああ…」
 息が弾んでいる。どうやら外にいるようだった。まさか出掛けているのかと、ゾロは少し不安になる。
「今お前ン家の駅まできてるんだけど」
「おま…マジで?え?今おれ、駅に行くところで」
 やはり、と思った。何か別の用があって、それで。心臓が鈍器で打たれたように痛み出した。
「なんだ、出かけるのか?」
 思わず息を吐き出しながら言ってしまった。サンジは落胆を読み取っただろうか。ゾロは目を歪めた。サンジが、慌てたように少し声を大きくして言った。
「じゃなくて、お、おれもお前のとこに行こうかと…」
 それを聞いて、すとん、と肩から力が抜けた。何のことはない、やはり、俺達は同じように馬鹿だったのだ。ゾロは腹の底からこみ上げてくる笑いを噛み殺しながら、額に手を当てて俯く。堪えても口元が笑ってしまう。
「ふーん。…じゃあちょうどいいからそのまま迎えに来いよ」
 サンジが電話口で息を飲んで黙り込んだ。どんな顔をしているのかが見えるようで、ゾロは表情だけで深く笑った。

「てめえは!クソ解りにくいんだよ、このアホ!」

 その瞬間、ためこんでいた笑いが弾けた。そして言った。こっちの科白だ、このアホ眉毛。背後を通りすぎる女子大生風の二人連れが驚いた様に振り返った。母親に手をひかれた子供も、同じような顔で見上げている。
 サンジはやはり、サンジだった。すぐそこまで来ているはずの気配を思いながら、ゾロは、なぜサンジに会うのをあんなにも怖く感じたのかがわかったような気がした。
 そばにいてくれと、言いたいのでも言わせたいのでもなくただ、自分がそばにいたいのだと、そんな、後戻りの出来ない感情への恐怖だ。ゾロは駅の出口にある大きな柱にもたれて、自分を抱くように腰に腕を回し、前に首を折る。
 今度こそもう、考えるのは止めた。俺は動いた、後はお前が決めろ。そんなふうに勝手に委ねて、ゾロは眉根を寄せて目を強く絞り、俯いたまま、サンジの足音が聞こえてくるのをただ待った。
 ふと顔を上げ、遠くにゆれる金色の髪を見つけた。その時口元に浮かんだ笑みは、今この自分の内にあるどの感情を湛えていただろうか。


 サンジが笑っていた。
Holy&Brightその後。ゾロ視点。
(2002年12月発行「Holy&Bright」書き下ろし)
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