愚か者の春(S)

(※Holy&Brightのその後の話です)




 春の存在は希薄だった。花々が芳香を漂わせ、空に水でのばしたような青色が広がる頃には、季節はもう次の準備に入ってしまっていたようだ。
 それが、サンジには気に入らない。ことに近頃の、もはや梅雨を思わせるはっきりとしない空模様には閉口する。あんなにも待ち侘びた春だったというのに。サンジは憮然とした表情でベッドに横たわり、頭上の窓から上目遣いに空を見上げた。
 ゾロが本格的に雪山から東京に戻ってきたのは春休みが終わってからだった。それまでは週末だけ山に戻る日が続き、ゆっくり会って話す機会を探すことも出来なかった。無理に都合をつけることも不可能ではなかったが、できない理由があった。サンジ自身が残してきた言葉のせいだ。
 待つだなんて、なんて似合わないことを言ったものだと、あの日の自分の行動を思い出しては歯噛みする。体を起こして壁に立てかけてある鏡をのぞきこみ、どうもしわが増えたような気がして眉間を軽く擦ってみる。何度バラティエに電話してゾロを呼び出そうとしたか知れない。けれど、やはりずっと、そう出来ないでいた。
 頭の中に生まれる思考の雲は、もくもくととりとめもなくひとしきり育って、それからぽん、と弾けて消える。さっきまで、俺はいったい何を考えていたんだっけ?と思い出そうとしても、ちりぢりになった雲の欠片は、積もって層になっている過去のそれに混ざってしまって、見つけ出すのは困難だった。考えているつもりで、実は何も考えていないからだ。サンジは傍らのマグカップに口をつけて、ごくん、と喉を鳴らした。コーヒーはすっかり冷めてしまって、少し苦味がきつかった。
 ゾロの東京の家はサンジの住む町から電車で三十分ほどの所で、ターミナルにあたる駅が同じだった。それを知った時は嬉しくて、どんなふうにして会いに行こう、どこで会おう、何をしよう、と、様々に思いをめぐらせた。めぐらせた数だけ叶うなどとまさか思っていたわけではないが、何一つ叶っていないというのはいったいどういうことなのか。サンジは飲み干したマグカップをベッド脇のテーブルに置き、そのまま再び、体を叩きつけるようにして横たえた。ベッドのスプリングがサンジを撥ね退けようとするように軋んだが、サンジは上から抑えつけ、枕に顔を埋める。


 ゾロからの電話は二度あった。一度目は冬休みがおわって、一旦東京に戻った時だ。その時は連絡先を教えあって、バラティエの様子なんかをとりとめもなく話して、じゃあそのうち、などと言って電話は切れた。時間にして十五分ほど、サンジはあまりのあっけなさにしばし受話器を見つめて呆然とした。それがゾロなのだとわかったような振りをしてみたが、すぐさまダメだと打ち消した。久しぶりに声を聞いて舞いあがっていた自分と、そうではなさそうなゾロの声音とを比べて、軽い失望を感じずにはいられなかった。
 二度目は、つい昨日のことだ。一度目の電話からはなんと二ヶ月以上も間があいている。信じ難い。まったくここまでの自分の忍耐力に対しては、褒めて褒めて、褒めちぎってやりたい。あの馬鹿野郎。
 もちろん、一度目の電話のあとは、サンジからも何度か連絡をした。会いたいと。顔を見て話がしたいと、そう言った。ゾロはそう言うときまって無言になる。電話の向こうで、困った様に首を掻いたりしている姿が目に浮かんで、慌ててサンジは言うのだ。
「あ、でも忙しいよな。まだシーズン中だしな」
 ゾロは気乗りのしない声で「ああ」と答えるだけだ。サンジはそれ以上を乞うのは自分の我侭なのか、好きなのはやはり自分ばかりなのかと悲しくなって、「ひまが出来たら電話してよ」と告げて会話を終わらせるしかなかった。
 ときには怒りに任せて忘れてしまえばいいとすら思った。実際試みた。けれど思いに反して気持ちが前を向いていかず、たとえば女の子を前にしていても慣れきった条件反射の美辞麗句はどうしようもなく空虚で、口にしているだけで徒労を感じた。こんな自分はありえないと落ち込んだ。実際、綺麗な女の子は慰めにはなったけれども、けっして満たされはしなかった。
 天井を眺めながら煙草をくわえた。寝煙草は良くないと思いながら、火をつける。
(会いてえなあ……)
 昨日の電話は、週末山に行くのはもう終わったから、という断りのようなものだった。それ以上何も言ってこないゾロに腹が立って、会おうと言えなかったのはサンジが悪いのだ。今更後悔しても遅い。もう三ヶ月も顔を見ていないのだ。本当に信じられない。
(このまま会わずにいたら、どうなるんだろう)
 連絡をくれるのは、きっとゾロも少しは会いたいと思ってくれているからなんだろうと思ってみる。だったら、会おうといってくれれば良いのだ。サンジは、その言葉さえあればどこまででも行ける。なのに、それがないというだけで、せっかくの日曜の午後をこんなふうにだらだらとひとり自室で過ごすしかない。他に会いたい人間もおらず、特に予定も入らなかった。
 否、入れなかったのだ。ゼフから、ゾロのアルバイトは終わったと聞いていた。今週末からは、ゾロが山に戻ることは無いのだと、サンジはとうに知っていたのだ。
 会いに行こうかな、と、ふいに思った。ゾロの住む町まで出かけていって、駅に着いたら電話をする。ゾロが家にいれば来ていると告げ、いなければ、どうしてるかと思って、とか、言葉を濁せば良い。そこまで行ってしまえば、動いてさえしまえば言えるかもしれない、会いたいと。
 頭で考えをまとめるより先に体が動いた。適当にジャケットを引っ掛け、サンジは家を飛び出した。鍵をかける手が震えてぎこちなく、情けない自分を叱咤しながら走り出した。空には刷いたような雲が薄く広がり、晴れているのか曇りつつあるのか判別がつかない曖昧な色合いで、午後の街はまるで作り物のように薄っぺらだ。駅に向かって走っている自分も、手足がギクシャクして、おもちゃのようだと思った。
 二つめの角を曲がって、あとは駅まで一直線の道程だ。サンジは速度を緩め、少し乱れた髪を手で整える。
 と、ブルル、と尻ポケットに突っ込んだ携帯が震えた。足を止めて、サンジは道端によりながら携帯を取り出す。画面を見て固まった。慌てて通話ボタンを押す。
「も、もしもしっ」
「サンジか?」
「…ああ…」
「今お前ン家の駅まできてるんだけど」
 息をのんだ。まさか、ゾロが、
「おま…マジで?え?今おれ、駅に行くところで」
 まさか、会いに来てくれるなんて。
「なんだ、出かけるのか?」
 ゾロの声が少し低く小さくなる。サンジは慌ててそれを追った。
「じゃなくて、お、おれもお前のとこに行こうかと…」
「ふーん。…じゃあちょうどいいからそのまま迎えに来いよ」
 来いよ。なんて言葉に、また、腹にぴりりと冷たい物が走ったが、心臓から上はずっと火照りっぱなしだ。好きだ、好きだ、好きだ、と、煩いほどに脈打つ。サンジは目を閉じてゆっくり息を吐き出し、大声で怒鳴った。


「てめえは!クソ解りにくいんだよ、このアホ!」


 ああもう、降参だ。これからも俺は、あんな風にゾロの押し殺した感情や言動を読んで読んで読みまくって、痛む胸を抱えてそれでも思い切れないで、ずっとそうやっていくのかもしれない。
 駅に着き、ロータリーの周囲を見まわすとすぐに緑色の頭は見つかった。ゾロもサンジを見つけて穏やかに笑った。まだ声が聞こえるほど近くはない距離で「ひさしぶり」と唇が動いたのが解った。あの日、雪山で別れて以来のゾロ。切ることは簡単だったのに、切らずに手を握り返してくれた。サンジはぼやけかけた視界に焦れて瞬きを繰り返しながら、駆け寄った。
「元気だった?」
「ああ、そっちこそ」
「うん」
 向き合って、それ以上言葉が出ない。サンジは促すように歩き出した。ゾロはゆっくりとそれに合わせた。やがて肩を並べて、少し触れ合うそれに、サンジは安堵の息を吐いた。好きだ、と思った。
「花見、行けなかったな」
 ゾロがぽつりと言った。サンジの家に向かう通り沿いにはずっと、桜並木が続いていた。すでに花は八割方散って、初夏の色を作り始めている。時折横を過ぎてゆく車が巻き上げる砂埃に混じって、小さなピンクの花弁が舞った。行ってしまった春を思う。
「ああ」
「あんなに早く咲くとは思わなくてよ」
 東京の桜が満開になった頃、ゾロはまだ週末は山に通っていたのだ。
「ま、次は夏だ。海に行こうぜ」
「海か…」
 ゾロが少し嫌そうに顔を顰めた。胸の傷の事を思いながらも行かないとは言わないゾロに、サンジは愛しさで胸を痛ませる。
「行くんだよ。お前きっと、サイコー綺麗だ。ああ楽しみだ」
 ゾロがあっけにとられた顔をしているのをサンジは見逃さず、素早く周囲に目を走らせて唇を軽く奪った。
「忘れたの?俺がお前にこういうことしたいってコト」
 ゾロが目を見開いて顔を真っ赤にしているのを見て、サンジは愉快でたまらないといったふうに笑った。嬉しくて、どうしようもなく幸せだった。
「でも会いに来ちゃうんだ。なんだよお前、俺困っちゃうよ」
「……帰る…っ!」
 必死で縋りついてひきとめて、エサでつって、二人が駅から徒歩五分の道程を家に帰りついたのは、それから四十分後のことだった。お互い、すっかりへとへとで、サンジの部屋に入るなりゾロはベッドに転がって目を瞑った。サンジは夕食の支度をしないといけないと思いながら冷蔵庫の中身を思い浮かべ、手早く出来るメニューを頭の中に拵えてから、眠るゾロの傍らに腰を下した。
「これじゃ話すどころじゃねえ。しかもこんな無防備で…俺にどうしろっていうのよ。何しに来たんだよ、お前」
 会いに来てくれたのだ。気軽に会いに行くには少し間が開いてお互い言い出せず、サンジでさえ尻ごみしていた。気を抜けばこのまま会えなくなってもおかしくなかった。なのに、ゾロは会いに来てくれたのだ。泣きたくなった。
 サンジは上から覆い被さる様にゾロを抱きしめた。ゾロは少し身じろぎしただけで、目を瞑ったままだ。
「すきだよゾロ」
「…ばぁか。本当に物好きだな、てめえは」
 そう言って腕を上げて、サンジの背中をぽんぽんとニ、三度軽く叩く。
「お前…気軽にそういうことするな。いいのかと思っちまう」
「思ってなきゃ、ここに来るのに三月もかかりゃしねえんだよ」
「え?」
 驚いて体を起こしたサンジの目に、笑うゾロの顔が映る。柔らかな痛みに耐えるような顔をして、それでも笑っている。
「ゾロ…あの」
「お前が俺のこと好きだって言ってうるせえから、俺もおかしくなっちまった。信じられねえよ」
 そんな科白を聞いてしまったサンジは感極まって何も言えず、あとは力いっぱい抱きしめるしかない。腕の中のゾロを、強く強く。ゾロもおずおずとサンジの背中に手を回し、包み込むようにしてふわりと抱きかえした。サンジはゾロの額から頬、瞳へと、やわらかく唇を落としてゆく。ゾロは少しくすぐったそうに首を捩ったりしながらも、口元は笑っていた。
 唇を合わせて、柔らかくからめた。ためらいがちに応えるゾロの舌をサンジはゆっくりと丹念に味わって、キスはやがてゾロが根を上げて「腹減った」と呟くまで、続いた。
 次に待つ季節はきっと早足で過ぎ去ったりせずに、ひとつづついろいろな表情を見せてくれるはずだ。その時々の、鮮やかな色彩を。ただその期待感に胸を膨らませる、春はそんな季節であればいいのだと、サンジは思った。忙しない人の流れや移ろいの早いものを置いて、次の季節を追いかけながら、早足の春は。
 それを、これからゾロと二人で追いかけよう。すごく楽しいはずだ。振り向けば、ゾロは笑って「メシ」と言った。
「待ってろ、すぐ出来っから」  煙草に火をつけて部屋を後にした。そのまま眠ってしまうかもしれないゾロを思って、サンジはくっくっと笑った。
Holy&Brightその後。サンジ視点。
(2002年12月発行「Holy&Bright」書き下ろし)