ノクターン 1

 よろしく頼むわね、と一方的に言われたので、ゾロは当然のごとく反論した。
「勝手に決めんじゃねえよ」
「あら、なんでもひとつだけ言うこときくって言ったじゃない。忘れたの?」
 そう言われて、ゾロは苦い顔で俯く。いつの話だそれは。もうほとんど忘れていた。まだゾロが今よりも二十センチばかり背が低かった頃の話だ。それも、捕まえた蛙を持って帰るかその場で逃がすかの問答の末に交わされたたわいの無い約束事で、ゾロ自身覚えていたことに気づいて嫌な気分になったが、ここまで来て実効を求める相手の方も相当のものだ。ゾロは目の前にいる元家庭教師の黒髪美女を見据えた。
「今更そんなもんを持ち出してくるのか」
「だって、有効期限は無かったわ?」
 ロビンは嬉しそうににっこりと微笑む。馬鹿にしているのでも下に見ているのでもない、無邪気な笑い顔はそれだけで厄介な代物だ。無理強いするわけでは無いのに有無を言わせない押しの強さは昔から変わらない。
「ああ…」
 ゾロは肺が空になるほど大きく息を吐いて肩を落とした。続いて頭に手をやって、額から後方へと草色の短い頭髪を掌で撫で付ける。
「わかったよ。で、いつからだ?」
「今から。もう駅に着いたと連絡があったから、迷わなければそろそろ着く頃でしょう」
 ロビンはそう言って、腕にはめた時計に目をやる。黒い革ベルトのほっそりした腕時計だ。ゾロはそれが誰からのプレゼントだったかを思い出し、もう一度嫌そうに顔をしかめて、横に立つロビンを恨めしい目つきで見やった。この女はマイペースな上にいつも唐突過ぎる、と思う。
「とにかく、これでもうその借りは無いわけだな?」
「そうね」
 ならばさっさと消化して縁を切るに限る。縁といっても、小学校の真ん中あたりから中学に上がるまでの三年ほど、家庭教師として教わっただけの事だ。なのになぜ、未だにこの女は度々家を訪れるのだろう。解せない。ゾロが疑問を浮かべて眉間にしわを寄せていると、ロビンがとん、とそこを突いてきた。
「なにを難しく考えているのかしら?」
「べつに」
 ぷいと横を向くと、くすくすと笑う声が聞こえた。ゾロはますます憮然として、腕組みをし、胸を張ってふんぞり返る。
 ゾロの家で、二人はソファに向き合って座っている。ソファは親の好みで選ばれた国内には数点しかないという著名なデザイナーのものだったが、ゾロはそういった事にはまったく頓着しないのでよくわからない。高い天井と、広く取られた窓のあるリビングは来客用のもので、普段は使われない部屋だった。ゾロが一人で暮らす家には、この部屋を使うほどの客などめったに訪れないからだ。
 窓の外は日が落ちて薄暗い。そろそろ夕食の時刻だ。ゾロは交代でやってくる三人の通いの家政婦のうちのひとりの顔を思い浮かべた。今日は和食だ、と思い、口許を緩める。
 ゾロの家は、家という言葉では軽すぎるような、近在の住居と見比べれば格段に立派なもので、近隣一帯の住人はごく当たり前に「お屋敷」という共通語で呼び合っている。広大な敷地に、石造りの洋館。雑誌にも紹介されるような庭園を持ち、今はいないが、昔は執事なんてものもいた。そういうものに囲まれていることは、ゾロにとっては生まれたときからの日常だ。
 自分の家にはどうやら一般的な「普通」よりも金があるらしい、とわかってきた頃から、ゾロはひとりでこの屋敷に住むようになっていた。ロビンが家庭教師としてやってきたのもその頃だ。
「昼間は働いていて、高校は通信教育で勉強しているらしいの。えらいわね」
「あー」
「それであなたと同じ学校の審査に通るんだから、たいしたものだわ」
「あーあー」
「そういう子を助けてあげられるって素敵なことだわ。ね?」
「俺がやるわけじゃねえよ」
 コンコン、と扉を叩くノックの音に、二人の意識が向く。
「ゾロさん、お客様がお見えです」
「あー…」
 ドアの向こう側から聞こえる家政婦の声におざなりな返事をすると、きい、とドアが開いた。案内してきた家政婦の背後にちらりと明るく光るものがのぞく。
「いらっしゃいコックさん。長旅お疲れ様」
 その声に応えて入ってきたのは、ゾロと同じくらいの背丈の、金髪の外国人だ。ゾロは表情は変えないまま内心げんなりとした。ガイジンはどうも苦手だ。言葉が話せないし、いちいちアクションがオーバーで相手のテンションに付き合っていると疲れる。といっても、めったに付き合うことのないゾロではあったが。
「ロビンちゃん」
 金髪男は日本語でそう言った。イントネーションに弱冠訛りは感じられたが、言いにくそうにはしていない。
 ゾロは黙って男を観察する。嬉しそうにニコニコ笑って、心なしか頬を染めている。ロビンのファンか、とぼんやり思う。
『お久しぶりね、ここはすぐにわかったかしら?』
『うん。ロビンちゃんの説明、完璧だったからね』
 今度は外国語だ。流暢なロビンの言葉にしまりのない顔で近づいてきた金髪男に対し、ゾロは自然と身構える。
「ゾロよ。ここのご主人のご子息で、現在この大きな家に一人暮らしなの。ご主人には許可を取ってありますから、気兼ねなくすごして頂戴。剣士さん、こちら、サンジくん」
「サンジです、よろしく」
 ロビンから紹介され、金髪男はゾロの顔を正面から見ると、なぜか一瞬、眩しいときにするように下瞼をこころもち上げた。そして先から見せていたような人懐こい笑みを浮かべ、右手を差し出した。ゾロは緩慢に右手を持ち上げ、申し訳程度に握り返す。
「ロロノア・ゾロだ」
「二人、同じクラスにしてもらっているので、コックさんは剣士さんにいろいろ訊くといいわね」
 ロビンはそう言ってサンジにいくつかの書類を手渡すと、用は終わったとばかりに手を振って帰っていった。ロビンはこんな風にいつも唐突なのだ。後に残されたゾロは、隣にぼうっと立ったままの金髪男をちらっと見てため息をつく。男は怪訝な顔をした。
「同じクラス…」
 不思議そうに呟く男に、そのことか、と合点がいく。
「ロビンは理事の一人だからな。そんなのワケねえよ」
 ぶっきらぼうに言って男を見ると、じっとゾロを見つめている。
「ゾロ?」
「なんだ」
「俺の部屋、どこ。荷物入れたい」
「ああ…」
 大きめのスーツケースがひとつと、手荷物らしきボストンバッグがひとつ。一応客人扱いしたほうがいいのだろうと思い、ゾロはスーツケースに手をかける。すると、サンジは手を伸ばして遮るようにそれを押しとどめ、自分の方へ引き寄せた。
「自分で持つからいいよ」
「…そうかよ…。部屋はここを出て右にある階段を上がってすぐのとこを使え。風呂とトイレも付いてるし、一通りそろってるはずだから勝手にしてろ。俺はてめえを泊めてやれとは言われたが面倒を見ろとまでは言われてねえからな」
 善意を拒否されたせいでやや不機嫌な口調になる。サンジの視線が少し揺らいだ。ショックを受けたような顔だ。悪いが知ったことじゃない。こんなところにホームステイに来たお前が間違ってんだ。ゾロは胸の中でそう唱えた。だから後ろめたさを感じる必要などまったくないのだ。恨むならお前をここへ連れてきたロビンを恨め。
「…わかった」  サンジはくるりと背を向けてドアの外に荷物を運びだすと、そのままドアを閉じた。向こう側で小さくなっていく足音に耳を澄まし、ふう、と肩から力を抜く。これからしばらくこんな事が続くかと思うと気が滅入ってしまいそうだ。家の中に他人がいることに慣れていないゾロにとっては、長い二週間になりそうだった。
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