目を閉じて聞いて (1)

 最終の二本前の電車に乗りこんで、最寄り駅に帰り着いたらもう深夜だった。
駅のコンコースを抜けて北口へ出ると、タクシーの表示灯の淡い光が、正面のガードレール沿いに延々と、通りの先の方まで伸びている。乗降客の多い駅なので、駅の大きさに似合わず普段からタクシーは多い。
 二人と同様に結婚式帰りらしい中年の夫婦連れが、大きな白い箱型の袋を両手に提げ、がさがさと紙の擦れる音を響かせながらその先頭の一台に乗り込んだ。路面が濡れているせいで妻の方が色留袖の裾を気にして、大声で夫を急かしている。闇夜を悪戯に騒がすその声は、ドアが閉まる音と入れ違いに途切れた。車は滑るように走り出し、赤いランプをぱっと光らせると、ゆっくりと左に折れていった。あたりは急に静かになり、家路に着くわずかな人々の足音がやけに大きく聞こえてきた。
「なんか買ってくか?」
 サンジが駅前のコンビニを指差して、タクシーの去った方をぼうっと見たままのゾロに問いかけた。ゾロは振り返り、べつにねえ、と返す。
二人はどちらからともなく寄り添い、アパートまでの十分ほどの道のりを歩きはじめた。
 朝から降り続いた雨は夕方を過ぎた頃にようやく上がり、空には半欠けの月が出ている。
 濡れたアスファルトの表面はところどころ白く光り、それは月光か街灯か、いずれにしても弱々しい反射で、躊躇いがちにきらきらと時折瞬く。水分を多く含んだ空気は冷えて、肌をしっとりと撫でる。
 サンジが煙草に火をつけた。吐き出した煙は闇空を背景に薄く広がり、後方に流れていく。
 大またでゆったりと歩くゾロと、体重を後ろにかけて少し踵を引きずるようなサンジの歩調はまったく噛み合わない。それでいて、不思議とスピードは同じだった。
 会話は無かった。肩や肘の辺りが、腕を振るたびに擦れ合う音だけがかさかさと淋しげに鳴った。
 
 
 二人の住むアパート付近は、それほど人家が密集してはいない。小学校があり、月極の駐車場がちらほらと点在し、その間を埋めるようにして人家が建ち並ぶ。そして、その周辺に、似たような体裁のアパートやマンションがぽつぽつと建てられている。近くには大きな公園もあり、緑も豊富だ。
 サンジの部屋は二階の、通りに面した一番手前側にあり、ゾロの部屋は一階の一番奥の角部屋だった。ゾロの部屋の隣は、先月末、住んでいた単身赴任の男が越して行ったので、現在空き部屋となっている。そっちに移ろうかな、とサンジが言った事があったが、ゾロは間髪いれず却下した。サンジは不平を鳴らしたが、今でも十分過ぎるくらい近いのにと、サンジが不満に思う理由がわからなかった。
 アパートの中央にある階段を通り過ぎ、ゾロは自室の前に立つ。サンジが一歩遅れてその背後に立った。
「なんだ?」
 ポケットから鍵を取り出しながら肩越しに振り返る。サンジがその肩に額を押し付けてきた。柔らかい髪が首筋にあたる。
「こっち入れて」
「なんでだよ」
「だって」
 明日は月曜だ。ゾロは八時には家を出なければならない。サンジにかまっていては寝そびれてしまう。今日は朝早くからばたばたと慌しかったし、ずっと人の多いところにいたせいだろうか、ゾロは軽い疲労を感じていた。
「そうだ、茶漬け食いてえって言ってただろ」
「いい。なんか今腹へってねえし」
 鍵穴に鍵を差し入れて回す。カチャリ、と小さな音を立ててドアは開いた。薄く開いたドアの中は真っ暗だ。猫が、待ちわびたようににゃあと鳴く声が聞こえた。
「入れてくれねえのかよ」
 いつだって許可など取らないくせに、今日に限ってどうしたことだろう。なにやら呻き声を上げ始めたサンジを無視して、靴を脱いで部屋に上がった。
 カチャン、と、惰性でドアの閉まる音がした。振り返ると、そこにサンジの姿は無かった。ゾロは一瞬考え込むように眉根を寄せたが、いつものことだと流して、襟元に指を差し入れてタイをはずした。居間の入り口横に据えたソファの背に放り投げ、先に風呂場に向かう。
 バスタブの蛇口をひねり、勢いよく溜まりだした湯を確認してから、部屋に戻ってスーツを脱いだ。クリーニングに出すのは、明日思い出したらサンジに頼んでおこうと思う。こういうときには便利でいい。
 猫が足元にじゃれ付いて急かすので、ゾロは脱ぎかけのズボンを腰に引っ掛けてキッチンに戻り、餌皿をのぞきこむ。空だ。缶詰を開けてやると、猫は嬉しそうに高くひと鳴きして、皿の上に顔を伏せた。
 風呂のドアを開けたところで左の薬指のリングに気付いた。
 どきんと胸が鳴った。
 サンジを前にしている時はまったく照れなど感じなかったのに、ひとりになった途端、気恥ずかしさが込み上げてくる。指輪のある方の手で口許をそっと覆い、はあ、と息を吐いて気持ちを落ち着けた。息は熱く、胸の熱さをそのまま伝えるようだった。
 絶対はずすなとサンジは言ったが、風呂に入るときはそうもいかない。そっとはずして、洗面台の脇に置いた。湯は丁度良い高さまで溜まっている。
 湯船につかると、足元からじわじわと疲れが抜けていく感じがする。掌で湯をすくい、顔を洗った。そして上向き、流れ落ちる水に目を閉じて、小さく息を吐く。薄い瞼の向こうに照明の淡い光が透ける。背後のタイル壁に頭を押し付け、ずるずると沈みながら目の下まで湯に潜っていく。湯はたわんで、縁を越えて流れ出た。


 サンジと出会って一年半が過ぎた。友人とは呼べない存在になってからだと、十ヵ月になる。
 いつまでこうしていられるだろうと、思い続けていた。ずっと。
 自分のために周囲の人間を動かすのは昔から苦手だった。自分の気持ちひとつなら、何をしようと何処へ行こうと自由だ。その行動に誰かを巻き込もうなどと考えたことはこれまで一度もなかった。
 自分の気持ちを信じることと、サンジ個人の気持ちの動きは、常に、ゾロにとってはまったく別のものだった。いつか別れが訪れるなら、それはサンジの気持ちが変わることによってだと、どこかで決めてかかっていた。そんな自分に。
 サンジはどうしてあんなに、何もかもくれようとするんだろう。
 考えると泣きたくなった。
 出会いはありきたりだった。いつのまにか側にいるのが自然になった隣人。胸の奥に芽生えた小さな棘の痛みと向き合うために、幾つもの感情を宥め、越えねばならなかった。
 サンジはおそらく、ゾロがそういった感情を抱えていることに、わりと早いうちから気付いていたのだろうと思う。気付いていて、見ないふりをして、似たような痛みを堪えながらどれほどの夜を過ごしたのか。
 自分は最近になってようやく、そんな事に思いを致せるようになったというのに。
 ちゃぽん、と、蛇口からしずくが落ちた。指先でタイルを拭うと、表面の細かな水滴が形になって滑り落ちる。頬が熱い。たちこめる湯気にのぼせそうだ。
 何か忘れている。俺はなぜここで、ひとりで、こんなことを思い出したりしているのだろう。ゾロは水滴のついた天井を見上げた。
 
 ここで、ひとりで何を。
アパートシリーズ継続編その2(2004.3.12)
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