光なびかす夜の交差 (1)

 結婚、結婚、と何かにつけて最近まわりが煩いので、些か食傷気味だ。
 会社の同僚が婚約したとか、友達の結婚式に出るので帰郷するとか。そういった自分とはかかわりのないところで交わされる話だけならともかく、ゾロ自身も出席を予定している式がひとつあったので尚更だ。
 これまで、結婚などという言葉がゾロの意識に上ってきたことなど皆無といってよく、縁のないものであるという認識は思いがけず深かったのだとなんとなく気付いてしまって、多少の戸惑いも感じている。
 友人のウソップが今月結婚する。カヤという相手の女性は、高校生の頃からつきあっているウソップの最愛の彼女だ。招待状が届いたのが春の初めの頃で、サンジが「ジューンブライドかあ」と呟いてうっとりと微笑んでみせたのが頭の隅にずっと残っている。
 女を幸せに出来るはずの男だ。胸の内に抱いたまま見せない感情のひとつやふたつ持っていて当たり前だけれど、胸の中にちくりと痛む刺の存在を、ゾロは、自覚せざるを得なかった。
 ウソップはサンジとゾロの関係について知る数少ない友人のひとりで、もともとはゾロの友人なのだが、サンジとも妙に馬が合い、時々二人で会うこともあるようだった。だいたい夜には呼び出しがかかって三人で食事をすることになるので自然にそうと知れた。面と向かって言うことなどないが、ウソップは本当にいい友人だ。サンジにとっても。
 いつかウソップが独り言の様に呟いた言葉を、ゾロは時々思い出す。お前、あれは、ダメになるときはお前が傷つくぜ。確かにそうかもしれない。
 そんなことはない、それを考えていたら何も出来やしない。言葉は形にならないまま暗い淵へと沈んでいった。
 はじめてサンジに会わせたすぐあとだから、もう随分前のことだ。とりあえず笑って見せたが、それをウソップがどう受け取ったかまでは、いまさら知るつもりもない。


 六月は雨の季節だ。その中で限られた休日に晴れることなど奇跡といっても大袈裟ではなく、カヤとウソップの結婚式には、どうやら奇跡は起きなかった。
 窓の外を眺めてため息をついていると、背後でドアの開く音がした。
「支度出来たか?お、」
 わざわざ必要ないだろうと言ったのに、こういうときに着飾らないでいつ、と言うサンジに言い含められて、この日の為に買ったスーツに、ゾロははじめて袖を通していた。濃いグレーのスーツだ。淡いパープルのアスコットタイと、胸ポケットに同色のチーフ。全部サンジの見立てだった。サンジは蕩けるような笑みを浮かべて「いいじゃん」とつぶやく。
 サンジはサンジで、最近新調したイタリアのブランドのスーツを、相変わらず軽快な調子で着こなしていた。こういう面では、ゾロはサンジにまったく歯が立たない。
「タイがもうちょっとだな」
 サンジは煙草を銜えなおし、ゾロの胸元に手を伸ばす。平気な顔をしていても、こんな風にやさしく触られるのは、本当はいつだってくすぐったい。
 二人は同じアパートの一階と二階にそれぞれ部屋を借りている。どちらかの家に泊ることもまったく珍しくない昨今、不経済だとサンジは言うが、ゾロは当分このペースを崩すつもりはなかった。今みたいに、たとえ声もかけず自分の家のように上がりこむ暮らしぶりであってもだ。
「せっかくの晴れの日にこの天気じゃあなア…」
 ゾロの横に立って、サンジも同じように窓から空を見上げる。晴れていたなら、六月の生い茂る濃い緑の樹木の下で、カヤの白いベールはさぞかしよく映えたことだろう。
「いい式になるといいな」
 この、細かい霧が流れるような雨と、白と灰の混ざった厚塗りの空の下。ガラスに散る水滴。あいにくの天気だが、それはそれで風情があるように思う。
 サンジが身をよせながら、なるさ、と言った。躊躇いがちな態度の裏でいつも、サンジは確信に満ちている。
 至近で見つめあい、右手の指先はゾロの顎をとらえた。人差し指と中指の間に煙草をはさみ持ち、そのまま左頬へすべらせてそっと覆う。
 唇がしっとりと吸いつく感じはこの湿った空気のせいだ。舌が唇をこじ開けて入り込み、隙間から湿った音が漏れだす。体中が瞬時に熱を帯びた。舌は上顎を擦り、味わうように絡みつく。ゾロは口をあけて柔らかく応えながら薄目を開いた。閉じられた瞼は、雨の朝の真白い光を受けて白磁のように滑らかで薄く、口づけたい、と思わせる丸みをあらわにしていた。
「ちょっと辛いかもしれないけど」
 少し離れて、額を合わせながらサンジがそんなことを言う。低い呟き声はゾロの胸を容易く浚う。目を閉じた。
「俺たちだって負けてねえよ」
 もういちど軽く唇を合わせ、両手の指先を繋いだ。そしてゆっくりと惜しみあいながら離れた。こんな僅かな時間にさえ愛惜はつのる。サンジは背を向け、ゾロの視線は窓の外だ。どんな顔をしろと。サンジの科白は流すしかなかった。
 辛いだと?
 どっちがだ。
 幾つか浮かぶ疑問を呑み込んで、ゆっくりと向き直り、サンジの背中をあらためて見つめる。
 結婚。こうなってみると、まるで未知の言葉だ。


 カヤは思った通り、雨の中でも普段以上に輝いて美しく、ウソップもいっぱしの面構えで、緊張しながらも美しい妻を丁寧にエスコートしていた。
 サンジは式の間中壊れたように「カヤさんかわいいなあ」を繰り返していた。
 こんな風にきちんと友人の式に出たのが初めてだったゾロには、何もかも新鮮で目新しい。喜びの涙を流すカヤを美しいと思ったし、周囲の祝福が空間の隅々にまで広がる感覚には軽い酩酊感すら味わった。幸せという感情はある時にはどこまでも膨らむものなのだ。
 式のあと、披露宴も滞りなくすんで、新郎新婦の友人たちは連れ立って二次会の会場へと移っていく。
 サンジとゾロは、カヤをエスコートして会場に入った。如何なる時も気配りを忘れないウソップが二次会でもしきりと采配を振るっていたせいだったのだが、入った途端集まった視線に、カヤは嬉しそうに、両手に花ね、と頬を染めた。
 二次会が始まると、ゾロはここぞとばかりに酒豪ぶりを発揮し、カヤの女友達から密やかな歓声を浴びていた。サンジは隣で笑いながら、彼女達と適当な会話を楽しんでいる。
 サンジにしろゾロにしろ、普通にしていて目立つ男が二人、そろってドレスアップして、しかもずっと二人で離れずにいるものだから、集めずともよい視線をわざわざ集める羽目になる。こんな場に二人そろって出ることもそうそう無い。最初で最後かもしれなかった。
 それもあってか、サンジはゾロの隣を一度も譲らない。今日のゾロを独占すると決めているのに違いない。ゾロが注目される事が、多少複雑ながらも嬉しいようで、その嬉しがっている様子がゾロの酒をさらにすすませるのだった。
 ウソップとカヤはサンジやゾロが面識のない友人も数多くいて、ずっと人に囲まれており、なかなか近づけない。なんとか、どこかで見計らってゆっくり祝いの言葉を送りたいと、ゾロはその様子を遠目にうかがっていた。
 二次会も半ばを過ぎ、場が落ちつき始めた頃、ようやく二人の周囲から人が離れ始めたのを目敏く見つけたサンジが、ゾロを促した。
「おい、いこうぜ」
 抱えている酒瓶を上から奪い取り、サンジはゾロの肘のあたりを掴んでソファから引き上げる。見ると、ウソップとカヤが笑って手招きしていた。
「今日はおめでとうな。カヤさんも」
「有難う」
 頬を染めてしっとりと笑うカヤは、白とベージュでデザインされたワンピースがとてもよく似合っている。赤い小さなバラを基調にしたブーケは式用に誂えたものよりも簡素だったが、それを手にした彼女からは新妻らしいほのかな色気が漂っていた。それが、ゾロには少し眩しい。
 サンジは一頻り歯の浮くような祝辞とカヤを賛美する言葉を並べ立てたあと、こほん、とわざとらしく咳払いをして、ウソップを正面から見据えた。
「ところで二人に頼みがあるんだけど」
アパートシリーズ継続編(2003/6/19)
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