Holy&Bright 1

 冬の山について知っていることなどいくつもない。
 雪に関しても、白いとか冷たいとか、滑れるとか、その程度の認識しか持っていない。
 サンジが、スキー場やゴルフ場を近隣に備えたとあるリゾート地でペンションを営む祖父を冬の間手伝うことになったのは、前年まで冬の間手伝いに来ていたコックが急遽来れなくなったと、急に連絡が入ったためだ。それまでというもの、何度手伝うと言っても祖父はかたくなに拒んで「俺の楽しみを邪魔するな」の一点張りだったのだから、どういった心境の変化があったのだろうか。 
 都内でも指折りの高級レストランを営んでいたサンジの祖父、ゼフが引退してペンションを開いたのは3年前のことだ。前歴については全く触れないまま人知れずオープンさせたはずが、料理の質の高さとそのわりにカジュアルな雰囲気の良さがいつの間にか口コミで広まり、リゾート地としてはたいした知名度もない土地ながら都心からの交通の便が良い事も手伝って、ゼフのペンションは年中繁盛していた。サンジも客として遊びに来た事はあったのだが、働いているゼフを見ながらのんびりと出来るはずもなく、自然と足は遠のいた。



「3年ぶりかあ……」
 感慨深い様子で呟きながら窓外を眺めるサンジであったが、見覚えのある景色があるわけではない。灰色の山々も、舞うように降りつづける白い雪も、さしてサンジの興味を引くものではなかった。だが、浮き立つ心はごまかしようがない。ゼフの手伝いをするのも、3年ぶりの事なのだ。
「なあ、俺を呼ぶって事は、相当人手がないって事なのか?」
 運転席にちらりと視線を送る。サンジを麓の駅まで迎えに来た大学生のアルバイトは、無言で頷いた。
「クソジジイめ…」
 煙草を取り出し、火をつけてから気付いて、目で「OKか?」と隣に訊いた。相手が軽くうなずいたので、サンジはそのまま、煙を勢い良く吐き出す。
「あんた名前なんての?」
「ゾロ」
「俺、サンジ。ゼフの孫。いまさらだけど」
 ゾロと名乗る雑用全般を引き受けているらしい青年は、冬休みの間だけのアルバイトだと、サンジはゼフから聞いていた。他に冬の間居候のようにして働くものが2名、通いのアルバイトが2名。それがペンションのスタッフのすべてだった。
 ゼフの引退後、サンジの両親はレストランを経営する傍らカフェやデリなども手掛けるようになり、店の内部もゼフがいた頃とは多少、事情が変わってきていた。サンジは学生ながら、ゼフが引退したあとを引き継いだ両親を手伝い、レストランの中ではオーナー代理のような地位を確立していた。
 コックとしては一流半だったサンジの父は、しかし経営者としての才覚を有していたらしく、不況が叫ばれる中、業績は毎年右肩上がりだ。レストランのシェフはゼフが認めた人物が問題なくつとめており、サンジの父がコックを辞めたからといって店の運営に支障が出ることは無かった。
 サンジは基本的にはアルバイト扱いであり、常に非常勤なのだったが、子供の頃から厨房でにいてゼフの仕事を見ながら育ち、その味を自然と受け継いでいた。いずれ料理人としてゼフのあとを継ぐのは間違いないと周囲の誰もが認めているし、サンジ自身もそのことを疑っていなかった。たとえゼフがどう思っていようとも。
「うちのペンション、長エのか?」
「いや、去年初めて来た。暇な時間はかなり自由にさせてもらえるし、メシは美味いし。で、今年も」
 車内のしんとした空気に少しばかり気まずさを覚えてサンジが話しかけると、ゾロも別段話嫌いではないらしく、淡々と応じた。ペンションまではつづら折りの峠を車で30分ほど上らなければならない。
「滑りに来てるのか?」
「ああ。でなきゃ雪山でバイトなんかやる意味あるかよ」
「ナンパとか。うち、女の子の客多い?」
「ほとんどそう」
「いいねえ。楽しくなりそうだなー」
「カップルのがもっと多いけどな」
「げ」
「はは。どっちにしてもそんなヒマねえって。なんだかんだけっこう忙しいし。空いた時間は滑りてえし」
 ゾロの駆る4WDは右に大きくうねるカーブを折れ、ゆっくりと登ってゆく。視界の開けた方角の山稜の霞みには、白と黒の淡い影がちらちらと透けて見えた。山頂あたりは霧が濃いようだ。降りつづける雪は墨絵のような風景に奥行きを与え、空間を際立たせた。どこまでも手応えのない空は、だらしなく広がる零れた牛乳のような白一色だ。サンジは急に肌寒さを感じて、ぶるっと身を震わせた。ゾロはそれを横目で見て、エアコンの強度を少しだけ上げた。
「今、上どうかな。滑れるか?」
「吹雪いてるみたいだけどな。やるのか?」
「ここは一回しか来た事ねえけど」
「だったらあっちの山は止めたほうがいい。ゲレンデが狭いから霧が出ると危ない。狭いわりに長くてトリッキーだから上級者には人気だけどな」
「初心者扱いかよ?」
「いや、そうじゃなくて。地元のうまいヤツはあんまり行かねえコースなんだよ。面白えから俺は好きだけど」
「お前、ここ地元?」
「ちょっと離れてるけどな。この辺の山で滑るのを覚えたから」
「ふーん。大学は東京?」
「ああ」
「そっか」
 車はちょうどつづら折りの天辺にさしかかり、民宿やペンションがちらほらと周囲に見え始めた。リゾートとしての規模はあまり大きなものではないが、付近の集落に暮らす人々の大多数はこの場所に依存している。
 ゼフのペンションはこの集落からもう少し上った所にある、ペンション村の中ほどに位置している。スキー場への入り口が近く、立地条件としては申し分なかった。
 ゾロはスキー場の入り口を通りすぎてすぐの角を左に折れ、突き当りの駐車場に車を止めた。サンジはドアを開けて車を降り、真っ白な新雪を踏みしめ、掲げられた看板をじっと見上げる。
「『ペンション・バラティエ』…」
「そうだ、お前、運転できるよな?」
 車から降りたゾロが、背後からそう声をかけた。サンジは振り向かずに答える。
「ああ、出来るけど?」
「客の送迎は手の空いてる者がやることになってるから。お前も頭数に入ってる、多分」
「マジ!?俺、コックだぜ?」
「オーナーがそう言ってた」
「ジジイが?どういうつもりだよ」
「さあ、とにかくあと2時間したら迎えに行かなきゃならねえ客がいる。その時間手が空いてんの多分お前だけだ」
 目の前にぶら下げられたキーにサンジは目を眇める。キーは左右にゆれて、ちゃりちゃりと細かな音を立てる。その向こうの顔は、心なしか笑っているように見える。
「……」
 ため息混じりに受け取ると、ゾロは横をすり抜けながら荷物はてめえで降ろせよと言い残して階段を上り、ペンションの中に入って行った。
 キーはわずかに残ったぬるい温度を手のひらに伝えてくる。
「くそ…なんか嫌な予感してきた」
 サンジは後部座席から荷物を取り出し、肩に引っ掛けるように持ち上げると、「よっ」とドア前のテラスを蹴って続く低い階段を1歩で上りきり、勢い良くドアを開けた。
 奥の方から、懐かしいゼフの怒鳴り声が聞こえてくる。サンジははっとして顔をあげ、にこりと笑った。丁度振り返った時にそんなサンジの表情を目にしたゾロは、つられるように片頬だけで笑って、サンジを促し奥へと入っていった。  
[TOP/NEXT]