不可視光線 1

 目が覚めて、窓の外を確認すると、一番にシーツを引っ剥がした。カバー類も外し、全部まとめて洗濯機に放り込む。この天気ならば昼までには乾くはずだ。
 一緒に暮らしている祖父が、昨日、サンジの父である息子の所に出掛けていった。海の向うなので、十日は帰って来ない予定だ。この空白の時間を生み出すために、サンジは夏休みに入る前から言葉も労力も惜しまなかった。勝ち取った、と思っている。
 今日、ゾロが、泊りに来る。
 ゾロの家も、今日から家族そろって田舎に出かけている。三年でもう部活も無いし、と、ゾロは最初行くつもりでいたのを、サンジが無理を言って引きとめたのだ。じじいがいないしせめてお前くらい俺の相手に残ってくれと駄々をこねた。
 ゾロは時々こちらが不安になるくらいあっさりしているけれど、根が優しいからどっちでもいい時はたいてい言う事を聞いてくれる。それをいい事につけこんでいるのは褒められたことではないとは思うが、ゾロの自覚のなさというのは、こんな危うい境界線にある友情ひとつでこの先どうやって忘れられずに生きようかと必死で考えているサンジにとっては、途方もなく怖いものなのだった。
 とにかく、それならお前んちに行くよとゾロは約束してくれた。夏休みに入ってから、この日をどれだけ待ち侘びたことだろう。
 洗濯物を干し終わってからキッチンに行き、冷蔵庫の中身を確認する。今日は一緒にスーパーに買い物に行くのだ。ゾロと食材を選んで、ゾロが食べたいと言うものを作って、二人きりで夕飯を食べる。目の前で箸を使うゾロの姿を想像しただけで、頭に血が上って眩暈がしそうだ。
 ゾロは午後早いうちにやってくる予定だ。駅まで迎えに行こうかと言ったら直接行くからと言われた。はしゃぎ過ぎだバカ、とも言われた。自覚はあったけれど、一応念のために不機嫌な表情を作って、お前が来られるか心配してやってんだこのクソ迷子と言い返しておいた。
 気付かれるわけにはいかない。気付かれたら、きっと、それこそ泊りに来てなんかくれない。
 しんとしずまったリビングの真ん中で立ちすくみ、壁にかかった時計を見上げた。心臓がときん、と脈打った。庭の隅の黄色い向日葵が、日にむかって真っ直ぐに伸びている。目の端に映るそれを、サンジはなぜか正面から見ることができなかった。


 スーパーへは徒歩で五分ほど。午後三時を前に、暑さはピークに達している。
 大きな太陽は視界の隅々にまでふりそそぎ、反射し、世界は眩しく煌いている。たった五分の道程は、並んで歩くには短く、サンジは少し物足りない。
 専用駐車場脇の細道を抜ける時、肩が触れた。布越しに肌の温かさが伝わった、変温動物みたいに外気と同化したこの熱は、いったいどちらのものなのだろう。サンジは残存する熱の行方を感覚だけで追い、少し前を歩く背中を見つめながら、数分間の記憶を何度も再生した。
 サンジの家の周辺では一番大きいこのスーパーは、わりと遠くから車でやってくる客も多く、見知った顔に出会うことも珍しくない。それで、少しだけ不安に思っていることがあった。
 もしもクラスメイトと鉢合わせてしまったらなんと言おう。
 絶対に、誰にも会わないようにしないといけない。一緒にいる理由を問われたらゾロはバカ正直に話すだろうし、誰か一人にでも知られたら、この二人きりで一晩過ごすという夢のような計画はおそらく泡と消える。サンジは緊張して、あたりに気を配りながら入店した。
 ゾロにカートを押させて、棚を一つ一つ見て回る。ゾロが、肉が良いと言ったので、今日はステーキにするつもりだ。コックである祖父仕込みのサンジの料理の腕は、およそ一般男子高校生のものでは有得ず、それを知っているものは学校にも数多くいて、そのせいでどこかに集まろうというと、サンジの家になることが多かった。家人がほとんど家にいないということも理由としては大きかったが。


 駅からサンジの家に向かう間、強烈な太陽に炙られながら歩いた。焦げるかと思った。汗がだらだらと流れ、家に着いてサンジに思い切り笑われた。
家の中はひんやりと涼しく、汗はすぐに引いた。とても静かな、少し薄暗い室内で、サンジはゾロに良く冷えた麦茶を差しだし、先に買い物に行こうよ、と言った。
 隣で野菜を吟味する男の顔をぼうっと眺め、ゾロは思う。
 ひとりでサンジの家に来たのははじめてだった。
 いつも複数で、泊る時は雑魚寝で、サンジがわあわあと怒鳴ってああしろこうしろと言うのを笑いながら聞いたりして、そういうのが楽しかったのだ。
 サンジは女関係がわりと派手なので敬遠する者もいるが、基本的に面倒見が良いので男友達も多い。自分もその中のひとりだ。
 そういえば、今日はどうして自分だけだったんだろう。他に誰にも声をかけなかったのだろうか。こんなふうに休日に二人でいることなど、そういえば初めてだ。
「サラダ、なにがいい?」
 不意に声をかけられて答えにつまる。
「なんでも」
「協力しろ。それじゃわかんねえよ」
 憮然とした表情の下に透けてみえる、もうひとつの感情。それは言葉ひとつ、態度ひとつから、肌を通して伝わる。ゾロはなんとなく俯き、頭をかいた。サンジは口許に笑みを張りつかせ、もう一度ゾロを振り返る。その顔を見て、言った。
「俺はなんだって食うんだから、へんな心配すんな」
 サンジは顔をぱあっと赤く染め、慌てて前へ向き直った。その反応に吃驚して、的はずれだったかと、ゾロの方にも羞恥の感情が芽生える。口許をグイ、とぬぐった。乾いているのに、鼻の下に汗をかいているような気がした。
「なに言ってんだてめえ。ちげえよ、なんだそれ」
 どうせなら少しでも良いものを。喜ばれるものを。好きなものを。
 二人きりというのがいけないのかもしれない。けれど、たしかに、そういった感情が伝わっていたのだ。ゾロはサンジの顔を見ると、頬を緩めておかしさに笑った。
「なんでそんな気ィつかってんだ。俺なんかカップラーメンだってかまやしねえぜ?」
「ばか、そんなもん!俺が食わせるか!」
 少しはしゃぎすぎたかもしれない。肝心のところはわかっていないくせに、こうやってあっさりと人の心の底を浚ってみせるゾロは、本当に始末が悪い。
 サンジは手近な野菜を値段も見ずにカゴに放り込むと、ゾロからカートを奪って空いているレジに向かった。半ば怒ったような横顔にゾロは戸惑いつつ、後ろからその姿を追いかける。歩調は変えない。時間が早めだから、店内の混雑はそれほどでもない。
「なあ、酒は?」
 躊躇いがちだが遠慮は無いその声に、サンジはわざとらしく脱力してみせた。苦笑がもれる。
「でかい声だすな、未成年。家にあるから」
「ふーん」
 嬉しそうな声に、サンジは眉を下げて笑った。
 この声を聞くために。喜ぶ顔を見るためになら、きっとゾロの好きなつまみだって、いくらでも拵えてしまう。あいつの女かよ、俺は。口中でひとりごちた。
「ゾロ、こっち」
 振りかえると、ゾロがやや後方の、隣の棚の前あたりをじっと見つめている。視線を追った先に、見知った顔があった。同じクラスの奴だ。サンジはそれほどでもないが、ゾロとはわりと仲がよく、大勢で集まった時に何度か遊びに来たことがあった。
 向うもゾロに気付き、手を上げて近づいてきた。
「なに?お前ら二人?なんかあるのか?」
 期待に満ちたその声に、サンジは振り向いて笑って見せたが、何も言うことができない。さようなら、俺の素晴らしき計画。結局今晩は野郎どもで酒盛りする羽目になるんだ、きっと。そして俺はつまみ作りにせいを出し……いや、そりゃ勘弁だ。まったくやる気がしねえ。
「ああ、いや、別になんも無え」
 頭の中で繰り返す言葉をさえぎって、ゾロの声が耳に飛び込んできた。サンジは目を大きく開いて、ゾロを見つめた。クラスメイトは、サンジとゾロを交互に見比べ、不思議そうな顔をしている。
「偶然会って、ついでだ」
 ゾロは親指をくい、と上向けてサンジを指差す。
「ああ、そうなんだ」
「お前は?」
 会話を背後に聞きながら、サンジは口許に手を当てて俯いた。ほう、と静かに吐き出した息は掌に熱い。
 ゾロが嘘をついた。どんな気持ちから出たものなのかはわからない。けれど、こんなささいな秘密も、たしかに二人の間にだけ存在する小さな萌芽に違いない。
 並んで帰る道すがら、偶然ねえ、と口にすると、ゾロはむっつりと黙り込んで遠くを見るような素振りをした。
 自惚れてしまいそうだ。言葉を探そうにも手がかりさえつかめず、サンジは俯き唇を噛んだ。
 手を繋ぎたかった。   
(2003/9/3)
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