18.俯く

 「卵」
「ん」
 テーブルの上にすき焼きが煮えている。ゾロは渡された卵を器に落とし、箸で軽く溶いた。
サンジは最近、休みの月曜に、帰りは何時になるのか、家に来るのかとゾロに確認の電話を入れる。毎回ではない。サンジに予定がないか、済んで、早めの時間に家にいるときだ。
ゾロはとくに疑問に思う風でもなく、行く、とか、少し遅くなる、とか言う。行かないと言った事は、今のところない。
 すきやきは久しぶりだ。男の一人暮らしで恋人もいなければ、鍋物を囲むことなどなかなかない。サンジはそれをわかっていて、わざとらしく恩着せがましく、特別なふうに、しかしそれとは匂わせずに、ゾロに負担を抱かせずに、こういう事をしてみせる。
 もてるわけだ、とゾロは感心する。
 しかし、この上なくさりげないその様子に、サンジの本当の心情を伺うことは難しい。結果として、ゾロからすると、「何を考えているのかさっぱり分からない」ということになってしまうのだ。
「おめえ…」
「ん?」
 この辺、煮えてるぜ、という声に箸をさまよわせながら、ゾロはぼそりと切り出した。
「他にいねえワケじゃねえよな」
「何が?」
「こういうの食わせるやつ」
 肉を口に運ぶ。もぐもぐと口いっぱいに頬張ると、「お前、一気にいきすぎ」とサンジが苦笑交じりに口を挟む。
「食わせるヤツって?」
 サンジも鍋をつつく。えのきとか白滝とか、肉とか。湯気が立ち上り、あたたかな匂いが充満して、向かいにいる男が自分にとって一体何なのか、ゾロはますます分からなくなってくる。
「女…とか。最近話聞かねえけど、その後どうなってんだ?」
「あー…」
 言いながら肉を口に入れ、そこで話が途切れる。ゾロもひたすら肉を噛んだ。たれの絡まった肉の味が口の中に広がって、涙が出るほど温かく、上手い。
「高い肉なんじゃねえの、これ」
「んなことねえ、タイムサービスで三割引きだ。だからすき焼きしようと思って、ちょうどいいからお前を呼ぼうと…ほら白菜 煮えてるぜ。好きだろ?」
肉を飲み込んで、サンジが白菜に箸を伸ばす。ゾロはなんとなく器を差し出した。サンジはそこへ、当たり前のように白菜を放り込む。
 ゾロは怒ったように眉根をぎゅっとよせ、器を引き戻すと、ざっと白菜を口の中に入れた。熱くて咽る。サンジが又、だから焦るなって、とか、まだいっぱいあるぜ、とか言っている。肝心な事は何も言わずに、そんなことにばかり回る口だ。
 俺が邪魔なら。
 そう言えばいいのだと分かっているけれど、なんとなくもう、タイミングが違う気がする。これ以上は聞けない。
 勢いよく箸を繰り出し、肉を取り出す。口をもぐもぐ動かし、俯いたまま。
「いねえよ、んなの、あれっきり」
 頭の上でそんな声が聞こえた。ぐつぐつと鍋の煮える音に混ざって、やたらぼんやりと間延びした声だった。
「お前にそんなこと気にされたくねえよ。…つか…」
 肉と白菜をまとめて頬張り、わずかに視線を上げると、サンジは何にか困ったような顔をしてゾロがもぐもぐと口を動かすのをじっと見ている。
「…なんだよ」
「お前こそ、どうなの。…誰もいねえの…彼女はともかく、好きなやつとか」
 まあどっちでもいいけど、などともぐもぐ言いながら続けてサンジは黙った。
「いたら、おまえん家ですき焼きなんか食ってねえよ」
「…だよなあ」
 ははは、と乾いた笑い声はひたすら情けなく、空虚に響く。ゾロはぱちぱちと瞬き、舌をぐるりと回して口内をなぞった。なんだか言葉が喉に引っかかって出にくい感じだ。
「てことは俺、お前と同じ立場ってことかよ…やべえやべえ」
 サンジがいつもどおりの皮肉っぽい口調でそう言ったので、ゾロはむしろ安心して、片眉をぴっとあげるいつもの顔をして見せた。
「まあせいぜい頑張ってさっさと新しいの作れよ」
 箸の動きが少し早まる。次々に野菜や肉を口に入れ、もぐもぐと噛みながら切り返す。
「そうだなあ。これからどんどん寒い季節になるっつーのに尚更寒いよなあ、男二人で鍋ってのも…」
「ああ」
 答えながら、ビールを手にしてごくごくと喉に流し込む。
「でもまあ、お前とこういうのも悪くねえんだけどさ、俺としては」
 なんでだろ。気楽だからかなあ。サンジは本気で分からないような顔をして首をひねっている。ゾロはそれに合わせて笑って見せた。笑ってから、また、俯いた。
 そのゾロの様子を見ながら、サンジは言いかけて言い出せなかった言葉について考えた。
 なんで家に来るの。なんで呼ぶと来るの。
 俯いたゾロの表情には、何ひとつ見出すことが出来なかった。