05.秘密

 遅くなるから飯はいらない、と、朝食の最中に告げられたサンジは、目を瞬かせ、わかった、と呟いた。ゾロがそんなことをわざわざ言ってきたのは初めてだ。
 タイミングが悪かったのだ。会話の延長で、思い出ししなのように言うから。なんで?と聞くのは簡単だった。だがその答えまで一瞬のうちに想像してしまったら、もう声はでなかった。
 いつの間にかゾロの食事の面倒を見るのを日課にして居たことやこういった暮らし(たとえば毎朝ゾロの朝食まで言われずとも用意していること)があたりまえになっていることを、遠く霞がかったような意識の中で自覚した。まったく自覚がないわけではなかったが、ゾロにもそういう感覚があるのだということを実感したのは初めてのことだった。
 ゾロがサンジの家に入り浸るようになって半年が過ぎていた。
 荷物はあまり増えない。もともと物の少ない生活をしているし、何か不足があればゾロは勝手にサンジのものをつかっている。それをサンジは咎めもしない。ゾロは最近特に用がなければほとんど寮に戻らなくなっている。そのことをサンジは知っていたが、ゾロが何を思ってそうしているのかまでは、あまり考えたことはなかった。
 ゾロは時々思い出したように、女が出来たら言えよ、などと言って、いつでも去る用意があることをほのめかす。サンジがいねえよと答えると、深く黒い眼でじっと見返して、だらしねえな、などとサンジを揶揄し、笑うのだ。
 笑うと目じりに少し皺がよって、目と眉の間が開く。ゾロは男の目から見てもじゅうぶんに整った顔立ちをしているので、無表情でいると妙な凄みがあるのだが、笑った顔はあまりにあっけらかんとして幼く、サンジはその顔を見るたび砂が入り込んだみたいに体の中がざらざらした。
 昔はどうだったのかなあ、とその顔を思い出しながら、サンジは食器を洗い続けている。
 確かに気楽に付き合える友人ではあったが、再会までほとんど連絡を取り合うこともなかったというのに、今は気付けばゾロほど近くにいる人間は他にいない。
 リビングにかかった時計に視線を送る。遅出なので11時に家を出れば間に合う。職場までは自転車で15分ほどだ。近いから選んだ住まいだったが、思えばそれがすべての発端なのだった。ぱちぱちと瞬き、じっと手許を見る。ざあざあと水が流れていて、洗いおけに食器はもうない。水を止め、手を振って水気を切り、タオルで拭う。右側の窓が白く明るい。外はそこそこのいい天気だが、少し寒い。 リビングに戻り、テーブルを拭くと、寝室に向かった。自分のではない、ゾロが使っている寝室だ。
 布団はたたんで部屋の角に置かれている。コーナーハンガーには替えの背広とシャツ、ズボンがそれぞれかかっていて、足元にブリーフケースと小さめのボストンバッグがある。サンジはぐるりと部屋を見回してみたが、ゾロが来る前のこの部屋の様子を思い出すことは出来なかった。
 どっちか女だったらとっくにあれかもしんねえなあと思い、吐き出した溜息は重く沈んだ。


 鍵を廻す音を耳にして背中にぴくんと痛みに似た感覚が走る。サンジはめくっていた雑誌を足元のラックに戻すと、ソファから立ち上がった。玄関からリビングまでという短い距離の歩数分、ぎしぎしという足音がした。
「遅かったな」
「おう」
 つかつかと入ってきて、どすんとソファに腰をおろす。
「なんか飲むか?」
「いや、買ってきた」
 ゾロはコンビニのビニル袋からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
「冷蔵庫にあんのに」
「ああ、なんとなく…ついでに買った」
 ごくごくと三分の一ほど減ったそれを離して唇を拭い、眠そうな声で答える。かすかに酒の匂いがする。
「結構飲んだみてえだな」
 サンジは湯を沸かそうと思い、キッチンに入りしな、振り返って時計を見た。まだ十一時半、飲んで帰ったといえるほど遅くもない。
「お前今日遅かったんじゃないのか?」
 リビングから少し遠めの声がする。
「ああ、さっき帰ってきたとこだ」
 ゾロよりもほんの二十分ほど早かっただけだ。サンジの働く店は十時閉店なので、遅出ならだいたいこのくらいの時間になる。
 帰ってきて、ゾロがソファに寝そべっているのを見て、そうして、それからまたキッチンに立ったりする。
「それが当たり前ってのはどう考えてもおかしいぜ」
「あ?」
「いや」
 コーヒーを、一応ゾロの分も入れて、リビングに戻る。ゾロはぼんやりと空を見つめている。その目が自分に定まったのをわかって、サンジは意味もなく眉間に力を込め、来たる言葉にそなえた。
「水、落っことすなよ。テーブルに置け。ほら」
 マグカップを渡すと、おう、と答えて受け取った。サンジは床のクッションに腰を下す。ゾロはなんだか普段と様子が違う。何か言いたいようだが、きっかけが掴めないでいることは明白だ。気がすすまなかったが、サンジは軽い調子で水を向けてみる。
「なんだよ。なんか嫌な噂でも聞かされたのかよ?会社の飲み会だったのか?」
「いや…取引先の担当に誘われて」
「へえ…」
 ……女か。
 そう思った瞬間、腹の底がじわりと煮える感じがした。退社してからいままでずっと?ふたりきりで?どんな女?髪は長いか?胸はでかいか?サンジは煙草に火をつける。ライターを持つ手がこころなしか震えている。
「つきあってくれって言われた」
 サンジは俯いたまま煙を吐いて、ふうん、と言った。感情があらわれてはいないだろうかとひどく気になった。
 何で言うんだ。知りたくなんかないのに。秘密にしていたいのに。このままだとどんどん暴かれていく。さらされて、目を逸らせなくなる。
「で?」
 自分で笑っているのを確認してからそっと呟き、顔を上げる。ゾロはサンジを見てはいなかった。相変わらず目は空を捉えたまま、俯いてじっとしている。
「良かったじゃねえかよ。どんなの?いい女か?お前なんだかんだ昔っからモテてたしなあ!」
 わざとらしいくらいに声を高めて、下から覗き込むようにゾロの表情を伺う。ゾロは酔いのせいか少し頬を染めて、唇をやや固くむすび、眉間に皺を寄せている。何かをこらえているようなそんな顔だ。サンジは自分も同じような顔になっていることに気づくと、いてもたってもいられないような気分になって、衝動を振り切るように立ち上がる。
「風呂いってこい」
 上からぱこんとゾロの旋毛のあたりをはたいてやる。うう、と唸るような声をさせて、ゾロはゆったりと立ちあがった。
「で、つきあうのかよ?」
 ゾロはリビングのドアを開けながら振り返った。相変わらず空を捉えるその目は、まるでわざとサンジを避けているかのようだった。
 秘密をもっている目だと、思った。