12.割れたグラス
「何しに来てんの」
サンジは言った。
午前3時を回って、あかりを落としたままの室内は暗く、ゾロの目の白い部分が月明かりに青く光って見える。
ゾロは黙ったまま、玄関で靴を脱いで上がると、後ろを向いて靴の端を揃える。その動作がやけに悠長に思われ、サンジは小さく舌打ちし、部屋の中へ戻る。
ひょっとして鍵を返しに来たんだろうか。なんとなく思いついて、昼間の疲れがふいに身のうちに充満したように体が重くなり、サンジはどさりとソファに身を沈めた。
彼女は甘え上手なのか束縛がきついタイプなのか、ゾロはいいように丸め込まれているようだった。
女にまくし立てられると黙ってしまうタイプだ。
よほど嫌なことでなければ、かまわない、と頷いてしまえるタイプだ。
頭ごなしに命令されるのでないかぎり、鷹揚なゾロはたいてい、問題ない、で済ませてしまう。
約束は、守る。たとえ彼女が自分を優先させるように仕向けても、先にした約束を、友情を言い訳にするかのように反故にされたことは無かった。
初めてだった。簡単なメールひとつで、ゾロはサンジを置き去りにした。
たいした約束でもなかった。普段なら彼女優先は当然だろうと、笑えるくらいのことのはずだったのに、今サンジは、うまく笑えないでいる。
「悪かった」
かすれた声が肩先をを掠め、暗闇に淡く溶けた。
「何が」
「彼女、取引先の相手に誘われて断りきれなかったらしくて、酔って、帰れねえとか言うから」
「……で、大丈夫だったのか?置いてきて平気なのかよ」
ゾロの言い訳じみた言葉に、サンジは失笑しながら答える。
「心配すんのは当たり前だろ。俺のことなんか気にする必要ないし、泊まってくればよかったのに」
言葉にしただけ、いらだちは増した。ゾロが傷つく顔を想像したせいか、それには針のような鋭さがあった。ゾロは黙り、細く長い、静かな溜息が聞こえた。
サンジもひとつ、やわらかく息を吐き出した。
ゾロは黙っている。沈黙が語るのは肯定だ。同時に、許しを請うような狡さもあわせもつ。サンジはひくりと喉を突き上げる笑いに合わせて唇をゆがめた。
自分とゾロの間に、確かに存在するものがある。それは目に見える形のない、しいて言えば空気としか呼べないものだ。
それが、とても怖かった。その、空気が、固形化してしまうような瞬間が訪れることのないように、細心の注意をはらってここまできた。
その空気が生む感情と、感情が呼ぶ言葉や行為を、こんなに恐れるようになったのは、それをなんと呼ぶか知っているからだ。
ゾロも同じように恐れている。なのに、こうして自分に向かって言い訳なんかしている。
サンジは前髪を無造作にかきあげ、ソファの背もたれに頭を預けた。両手で顔をひと撫でし、近づいてくる黒い影に目をやった。
「そのへん、あぶねえよ」
ゾロの足が止まる。静かに問いかける視線を、斜めにじっと見返した。
ぱき、と小さな、悲鳴のような音が鳴り、ゾロが息を呑むのがわかった。足をずらして体をかがめ、玄関のわずかな明りに光るかけらをつまみあげる。
グラスのかけら。それは、サンジの苛立ちのかたちだった。サンジは目元を引きつらせ、瞼をぎゅっと閉じ、そこに拳を押し付ける。
「言ったじゃねえかよ……」
動かないゾロが、心底憎いと思った。
サンジは言った。
午前3時を回って、あかりを落としたままの室内は暗く、ゾロの目の白い部分が月明かりに青く光って見える。
ゾロは黙ったまま、玄関で靴を脱いで上がると、後ろを向いて靴の端を揃える。その動作がやけに悠長に思われ、サンジは小さく舌打ちし、部屋の中へ戻る。
ひょっとして鍵を返しに来たんだろうか。なんとなく思いついて、昼間の疲れがふいに身のうちに充満したように体が重くなり、サンジはどさりとソファに身を沈めた。
彼女は甘え上手なのか束縛がきついタイプなのか、ゾロはいいように丸め込まれているようだった。
女にまくし立てられると黙ってしまうタイプだ。
よほど嫌なことでなければ、かまわない、と頷いてしまえるタイプだ。
頭ごなしに命令されるのでないかぎり、鷹揚なゾロはたいてい、問題ない、で済ませてしまう。
約束は、守る。たとえ彼女が自分を優先させるように仕向けても、先にした約束を、友情を言い訳にするかのように反故にされたことは無かった。
初めてだった。簡単なメールひとつで、ゾロはサンジを置き去りにした。
たいした約束でもなかった。普段なら彼女優先は当然だろうと、笑えるくらいのことのはずだったのに、今サンジは、うまく笑えないでいる。
「悪かった」
かすれた声が肩先をを掠め、暗闇に淡く溶けた。
「何が」
「彼女、取引先の相手に誘われて断りきれなかったらしくて、酔って、帰れねえとか言うから」
「……で、大丈夫だったのか?置いてきて平気なのかよ」
ゾロの言い訳じみた言葉に、サンジは失笑しながら答える。
「心配すんのは当たり前だろ。俺のことなんか気にする必要ないし、泊まってくればよかったのに」
言葉にしただけ、いらだちは増した。ゾロが傷つく顔を想像したせいか、それには針のような鋭さがあった。ゾロは黙り、細く長い、静かな溜息が聞こえた。
サンジもひとつ、やわらかく息を吐き出した。
ゾロは黙っている。沈黙が語るのは肯定だ。同時に、許しを請うような狡さもあわせもつ。サンジはひくりと喉を突き上げる笑いに合わせて唇をゆがめた。
自分とゾロの間に、確かに存在するものがある。それは目に見える形のない、しいて言えば空気としか呼べないものだ。
それが、とても怖かった。その、空気が、固形化してしまうような瞬間が訪れることのないように、細心の注意をはらってここまできた。
その空気が生む感情と、感情が呼ぶ言葉や行為を、こんなに恐れるようになったのは、それをなんと呼ぶか知っているからだ。
ゾロも同じように恐れている。なのに、こうして自分に向かって言い訳なんかしている。
サンジは前髪を無造作にかきあげ、ソファの背もたれに頭を預けた。両手で顔をひと撫でし、近づいてくる黒い影に目をやった。
「そのへん、あぶねえよ」
ゾロの足が止まる。静かに問いかける視線を、斜めにじっと見返した。
ぱき、と小さな、悲鳴のような音が鳴り、ゾロが息を呑むのがわかった。足をずらして体をかがめ、玄関のわずかな明りに光るかけらをつまみあげる。
グラスのかけら。それは、サンジの苛立ちのかたちだった。サンジは目元を引きつらせ、瞼をぎゅっと閉じ、そこに拳を押し付ける。
「言ったじゃねえかよ……」
動かないゾロが、心底憎いと思った。