07.夜の街

 会社を出る少し前、携帯に入ったメールにOKの返事をした。二週間に一度くらいの割合で会っている取引先の女からだった。
 まだ仕事帰りに食事をする程度の関係だが、並んで夜の街を歩いていれば、恋人同士に見えないこともないだろう。ゾロにとって、彼女はそう思えるくらいにはすでに馴染んだ相手だった。
 仕事上の話もあるし、会えば会話には事欠かない。彼女は話題が豊富で友人も多いらしく、それ以外の話ではゾロは大概聞き役にまわることになった。封切られたばかりの映画やベストセラーの書籍の話すら、あまりよくわからなかった。
「おもしれえの?」
「えっ?」
「その映画」
「らしいわよ。友達が先週行って、すごく良かったって…」
「ふーん」
 彼女はきゅっと唇を結んで、黙った。
 ゾロには何を言えばいいかわかっていた。なら行くか、とひとこと。そうすればあとは彼女が何もかも話を進めてしまうだろう。きっと次の土曜、昼あたりに会って、映画を見て、食事をして。だがそのあとのことまで考えると億劫だ。
 言えば彼女はきっと喜ぶだろう。それくらいしたって罰は当たらない。たいしたことじゃない。そう思いながら、ゾロは彼女の顔を見れないでいる。
「…そろそろ、一度くらい誘ってくれたっていいんじゃない…?」
 沈黙に耐えかねた彼女が先に口を開いた。
「……行きてえか?」
 彼女は、はあ、と大げさに肩を揺らしてため息をついた。
「あなたが行きたくないなら無理にとは言わないわよ。ひとりで行くわ」
 結局、間違った言葉しか紡げない。わざとなのかそうでないのか、自分でも良くわからない。ゾロは多少情けなさを味わいながら、謝れもしないと気付いて、静かに落ち込んだ。あいつなら相手の女にこんな事は言わせないだろうと思いながら、一方で、先日戯れのようにかわしたキスのことを思い出し、ますます気が滅入る。
「よう」
 そこへ本人の声が聞こえてきて、ゾロは椅子から飛び上がりそうなくらい驚いた。反応が大げさだったのを見て取ったサンジが、なんだよびっくりするだろ、と間抜けな声で言った。
「こっちの台詞だ」
「向かいの通り歩いてたら珍しい緑頭が見えたから。お邪魔かなーと思ったんだけどさ」
 窓際の席で向かい合っていたから、外からは丸見えだ。店内の照明は暗いが、ゾロの髪はそれくらいでは見失わないほど鮮やかな色をしている。
「すいません、無粋な真似をしました。この男の友人でサンジと言います」
 サンジは彼女ににこやかに笑いかける。彼女は取り繕った顔で笑い、どうも、と会釈をした。最悪のタイミングだ。だが、角度を変えてみれば絶好といえなくもない。
 そういえば今日は遅くなるとは言わなかった。急に入った予定とはいえ、メールの一本も入れなかったのは初めてだ。
「ああすまねえ、邪魔したな。じゃ、俺はこれで。おめえ、今日は帰ってこねえんだろう?」
 ゾロが黙っていると、サンジはゾロを見てそう言って、揶揄するように眉毛をぴくぴくさせる。
「いいからお前、さっさと行けよ」
「はいはい、邪魔者は退散しますよ。じゃ、マドモアゼル、ごゆっくり。無粋な野郎ですがどうぞよろしく」
「映画だけど、」
 サンジが離れる間際、ゾロは計ったようなタイミングで彼女に向かって口を開いた。
「行くよ。俺も、ちょっと見てみてえし」
 一瞬、足音が途絶えた気がした。だが気のせいかもしれない。かつかつと遠ざかる足音が、ゾロの耳にいつまでも残った。

 その夜、ゾロは戻らなかった。