アクアマリン 1

 日曜日は忙しい。住宅地と密接した街には地元の家族連れ客のほか、近隣の大学に通う学生も多く、ゾロとサンジのアルバイト先であるそのディスカウントショップは、不況のさなかでもそれなりに賑わっていた。
「あ〜、疲れた。煙草がうめえ」
 午後七時になってようやく二度目の休憩に入り、半分眠りながらテレビを眺めていたゾロの隣には、いつのまにか、やはり休憩にやってきたサンジがそ知らぬ顔で座っていた。
「お前、いたのか」
「…じゃねえだろ。気配でわかれよ、アホ」
「いや、今日。初めて見た」
 ゾロとサンジは配置されている売り場が微妙に離れていて、一日に何度も会うこともあればまったく会わないこともある。そういえば今日会うのは初めてか、とサンジもそれを聞いて思った。
「朝からなーんか忙しかったんだよなあ。全然人が切れねえ」
 そう言って思いきり伸びをしたサンジの背中で、ぎし、とパイプ椅子が音を立てた。休憩室には、今は二人だけだ。
「日曜だしな。ヒマよりいい」
 ゾロは冷めかけたコーヒーを一息に飲みほして紙コップをくしゃりとつぶすと、自販機の横の屑篭めがけて放った。
「待て、寝るなよ」
 そのまま机に突っ伏す体勢をとっていたゾロを、サンジは見ぬいて止める。
「なんだ?」
 ゾロはたいてい休憩時間を寝て過ごす。サンジが学校帰りにバイトに入るときなどは、おやつがわりのものなどを作って持って来たりするのだが、今日はあいにく用意がなかった。
「あ、やっぱいい。なんでもない」
 ゾロの訝るような視線が気になったが、サンジは無視した。言ったところできっと、求めているような反応が返ってくることなはない。何度か試みては返り討ちにあって、今だってきっとそうだろうと、サンジはなかば諦めの境地で言葉を濁す。
 やがて隣から聞こえてきた寝息に誘われてそっと手を伸ばし、ゾロの頭をするりと撫ぜた。ゾロの左手が上がって、その手をはたく。サンジは息だけの笑い声で答えた。まだ起きていたらしい。
(ま、いいや)
 こうして、隣に当たり前の様にいられるだけで、良しとするべきだ。まったく、顔も見られないようになる可能性だって、大いにあったのだ。


 ゾロの誕生日にまつわる行き違いがきっかけで、どさくさにまぎれて関係を持って三ヶ月がたった。
 サンジの方はずっとゾロのことを好きで好きでたまらなかったのだが、ゾロはといえば実際のところ、それまでは自分に対して恋愛感情など抱いてはいなかっただろうと、サンジは推測する。自覚がないだけではなく、サンジという人間について具体的に考えたことすら一度もなかったに違いない。サンジはそれが気にかかって、ゾロを自分のものだと思うことが、簡単には出来ないでいる。
 自分を受け入れてくれたことに関しては筆舌につくしがたいほど、ゾロに対して愛と感謝を感じるが、一方で満たされない部分があることも事実だ。
(そっけないんだよ、お前)
 相思相愛なのだから、もっともっと、充足感と幸福感で目も眩むような瞬間があってもいいはずだと思うサンジであったが、実際はそううまくはいかないようで、やはり時折すれ違う寂しさにやりきれない思いを抱いたりしている。それもこれも、ゾロに情緒というものが壊滅的に欠けているからだと、サンジは思っている。
 隣の寝顔はサンジのそんな思いなど知らぬ風情で、憎らしいほど穏やかだ。
(聞いてくれたっていいじゃんか。お前、覚えてる?俺の誕生日)
 ゾロの誕生日が終わって、最初のイベントはクリスマスだったが、バイト先がバイト先なのでクリスマスなどあって無きがごとしだった。十二月は一年で一番の書きいれ時だ。二人して、年末年始まで休み無しで働いていた。クリスマスは店のみんなとバカ騒ぎをして終わってしまった。大晦日も同様だ。
 その後、初詣は正月の七日になってようやく、ゾロの家の近くの神社に行った。それだって、面倒くさがるゾロを「こういうのは気持ちの問題だから」と無理やりにサンジが連れ出したのだ。
 連れ出してしまいさえすれば、ゾロは状況を楽しむことができる男だった。平日の人気のない神社で二人並んで両手を合わせ、サンジが「ゾロが俺のことをもっと好きになってくれますように」と声に出して言うと、ゾロは「このアホの浮気グセをどうにかしてくれ」などと平然と言ってみせ、サンジの嬉しさでにやつく表情を盗み見て笑ったりしていた。
 実感したのは二月だ。バレンタインデーに、サンジはゾロの為にチョコレートケーキを焼いた。クリスマスが無かったこともあって、サンジはほんの少しでいいから恋人らしく過ごしたい、などと甘いことを考えていたのだ。
 部屋に招き、ケーキを一緒に食べた。ゾロは喜んで礼を言ったし、ゾロの嬉しそうな顔を見られてサンジ自身嬉しくもあったのだが、それだけだった。
 ゾロからサンジへのチョコレートはやはり無かった。
 普通あるだろう!とサンジが声を荒げると、ゾロは興ざめといった感じの表情で、
「ありゃ、女が男に渡すもんだろ」
 と、当然の様に言った。そう言われてしまってはゾロのために嬉々としてケーキなぞを焼いたサンジとしては立つ瀬がないのだが、おかまいなしだ。
 ゾロにしてみれば、一緒にこうしているんだから良いじゃないかということだと、サンジだってそこは一応納得出来る。だが、納得したということとそれに感情を従わせるということは別だ。当然喧嘩になった。一週間はぎくしゃくしながら過ごして、ゾロはゾロで、サンジが何に対して怒っているかという事も十分理解していながら妥協する気はないようだった。
 結局、サンジが折れた。普通に話せばゾロの方にも変化はなく、ただ、面倒なこと、ゾロの意にあまりにも反することを要求したりすれば簡単に離れられるのだと、サンジは思い知らされた気がした。
(こんなしんどい恋愛、初めて)
 好きでしょうがないから、離れるなんて考えられない。けれど、自分が我慢してそれでいいという事はないはずだ。そのあたりをゾロがどう考えているのかが、サンジにはまだはっきりとわからない。だが、突き詰めていくと、「ゾロは本当に自分の事を好きなのだろうか?」というところまで行ってしまうので、ある程度のところで思考停止しておいた方が良いのだ。
 隣で眠るゾロにそっと手を伸ばし、もう一度髪を撫でた。短くて、でも猫の毛みたいに柔らかくて触りごこちがいい。ずっとずっと、触れていたかった。


「うわやだ、バカップルがいるわ」
「うお!」
 サンジは驚いて咥えていた煙草を落とし、掌で受け止めようとして気付いて引っ込めた。するとそのまま膝に落ちそうだったので慌てて立ち上がり、その拍子にパイプ椅子が倒れてガタンと大きな音を立てた。サンジは呆然としながらナミに向かって無理やりに笑顔を作る。
「やあナミさん。今休憩?」
 ナミはやや頬を歪めながら顎を上げて、細めた瞼の隙間からサンジに見下げるような視線を送る。サンジはサンジで、そんなナミの様子を見て「冷たい視線のナミさんも素敵だ」などと笑顔で囁いたりするので、ナミはイラつく気持ちを押さえて溜息をついた。二人が休憩室にいることに気付き、足音をしのばせて近づいてみればこれだ。
「うん。今日は忙しいわね」
 言いながら、サンジの斜め向かいに腰掛ける。サンジは気を取りなおして、懐から煙草を取り出し、火をつけた。
「今日はおやつは無いの?」
「ないんだ、ゴメンね」
「だからゾロは寝ちゃってるのね」
 ナミはテーブルに上体を伏せて柔らかく背中を上下させている男を呆れたような目で見て言った。
「あったって寝るときゃ寝るぜ?こいつは」
「そんなことないわよ」
 ナミは目の前の隠れていない右眼を疑る様にゆがめる男の顔を見て、揶揄するように笑った。
「ほんとムカつくわ。あんた達、そうやって並んでるの見ると」
 サンジがナミに対して表情に困るのはこんな時だ。ナミの、ゾロに対する感情は微妙でよくわからない。サンジとゾロがこうなる前から、とても微妙なものだった。
 殴られるのを覚悟で、好きだったの?と聞いたことが一度だけある。ナミは驚いたような顔をして、声をあげてからりと笑った。そして、そんな簡単なものじゃないわ、と困ったような笑顔を見せて、言った。本心だったとサンジは思っている。さらに、彼女はこう言ったのだ。
「泣かせたら承知しないわよ」
 どちらかといえば泣かされているのは俺の方だよ、とサンジの方こそナミに慰めてもらいたいような気分になったが、そんな事を言えば自業自得よ、と返されるのがオチだろう。結局、彼女はゾロの方が大切なのだろうし、それでいいとも思う。心中は穏やかでない時もあるけれど。
 そう、大切なのだ。これほどぴたりと当てはまる言葉は他には無いような気がする。何がどうと具体的にあらわす事は難しいが、その大切だと思う部分が、サンジとナミはおそらく共通しているのだ。
 俯いて何事か考えこんでいるサンジの様子を見ながら、ナミは考える。いろいろと思い悩むのはこの男の習い性なのだろうが、あまり良い状態ではないよう。
 他人の気持ちをあれこれと想像するのは、その相手に嫌な思いをさせることを恐れるからだ。肯定的に取れば常に相手を喜ばせたいと考えているからだろうが、この境目はとても微妙なものだと思う。しかも、この男のそれは無意識のものだ。
「そういえば」
「何?」
「ウソップが、日曜夜、あけといてって」
「日曜…」
「一日遅れだけど、誕生日。…にかこつけてまた飲み会だわ」
 ナミがにっこりと笑って言った。
 店の営業時間は午後八時までで、その後仕入れの車が入るため、男性アルバイトの仕事が終るのは八時半くらいになる。だが日曜は仕入れがなく普段より早く上がれるため、従業員同士で飲みに行くとなるとどうしても日曜日が多くなるのだった。
「俺の?マジやってくれんの?嬉しい」
「ゾロとは土曜日にすませちゃってね」
 サンジはそれに苦笑いで答えた。まったくそんな予定など無いのだから他にどんな顔のしようもない。聡いナミにはその顔であらかた想像がついてしまったようで、悪戯を思いついた子供のような目をして、胸の前で腕を組んでテーブルに身を乗り出してきた。
「何よ。またケンカでもしてるの?」
「ナミさあん、ちょっと相談のってくんねえかな?」
 サンジもナミと同じ姿勢でテーブルに身を乗り出す。
「……高いわよ」
「まかして」
 ゾロは変わらずサンジの隣で健やかな寝息をたてていた。サンジは時計を見て、ゾロの肩を揺さぶる。
「ゾロ、そろそろ休憩終わりじゃねえか?」
 ん〜、と、かすれ気味の声で生返事をし、ゾロはゆっくりと上半身を起こした。そして目の前にナミを見つけて「いつのまに来たんだ」ととぼけた声で言った。
「ついさっきよ。サンジくんからおのろけ聞かされてたとこ」
「あ?」
「言ってねえよなんも。おら、ボケてねえでもう下りろ」
「サンジが何言ってるか知らねえけど、こいつの方が陰で何やってるかわかんねえ奴だぞ」
「あ?どういう意味だコラ」
 ナミは顔を顰めて苦笑している。立ちあがってエレベーターの方に向かうゾロの背中にサンジが問うと、ゾロは振り向いて軽く顔を顰め、幼い子供がやるように舌を出した。そしてそのまま大股に歩いて行ってしまった。
 サンジはそんなゾロに脱力して机に突っ伏しており、ナミがそれを見てけらけらと笑う。
「まいった…これだからあいつ…ったく」
「重傷ね」
「も、すげえよ。撃たれっぱなし」
「しょうがないな、聞いてあげるわ。今?」
「できれば、今晩あたり、どこかで飲みつつ…」
「今日は予定がないから、いいわよ」  仕事が終ってからナミの家の近くの居酒屋で落ち合う約束をして、サンジも休憩室を後にした。 
[TOP/NEXT]