あなたに捧げるいくつかのこと 1

 エースの部屋はいつも寒かった。日当たりが悪く、暖房器具は2DKの広さにエアコンがひとつあるだけだ。古びて角ばった厳つい形のエアコンは大きく唸るばかりでろくに動かない。ゾロはいつも、耐えかねて勝手にベッドにもぐりこむ。
 部屋に鍵がかかっていることは滅多になく、日々たくさんの人間が好き勝手に出入りしている。エースを知っているものも知らないものもいるが、エースはそのすべてを把握しているらしい。会話はあったり無かったりで、顔見知りになるかどうかはそのときの気分と相手次第だ。部屋はいつもそこにただあって、来るものは一切拒まない。
 物が多く雑然として、いつもわりあい散らかっていたが、ひどく汚れていることはない。出入りしている者の中には掃除や洗濯や料理が好きな人間がそれぞれいて、好きなように手を入れているらしい。
 部屋の中は、いつも不思議なにおいがした。いろいろなものが混ざり合った複雑な色彩を意識させるそれを、ゾロはとても気にいっていた。夏が過ぎ、秋が深まり、ついに冬がやって来て、寒くて寒くて居心地が良いとはとても言えないのに毎日のように入り浸っているのは、だからだ。
「そりゃあ、いつきても誰かいるし、知らない人がいることも全然珍しくないし、そのせいよきっと」
「何がだ」
「人の体臭がたくさん混ざったにおいでしょう。あと、お酒と煙草と、食べ物の」
 別に気にならないわよと首を傾げて、ナミはふわりとあくびをした。
「一番はあんたのにおいだわ、きっと」
 ぽちゃん、と蛇口から水の漏れる音がした。薄いガラスの引き戸越し、台所の窓から昼間の明かりが薄く差し込み、室内をぼんやりと照らしている。
 とても静かだった。
「あんたいつか、すっかり住み着いちゃいそうね」
いつ来てもかならずいる、と人差し指をぐいと突き出し、ナミはゾロの鼻の頭を軽く押した。
「やめろ」
「あんた、エースの何?」
 ナミはエースの弟と付き合っている。その弟、ルフィは反対に、ここにはほとんど寄り付かない。恋人は兄の部屋にひとりでふらりとやって来ているというのに。
 そういう女こそいったいなんと呼ぶのだか。言ってやろうかと、ゾロはナミの瞳を覗き込んだ。ナミの瞳は真冬の月のように冴え冴えとしていた。ゾロの持つ怠惰な危うさを知って、それを指ですくってどこかになすりつけてやるために、ゾロの内側からこぼれるなにかを見張っているような目だ。ゾロは瞼を薄く開き、隙間からそのさまを見やって、乾いた唇をひとなめする。
「ルフィとなんかあったか」
 ナミはち、と舌打ちし、体を斜めに傾け、左肩をゾロのわき腹にぶつけながら体重をかけてくる。
「よくねえぞ、それ」
「うっさいわね。黙ってて」
 言われて、ゾロは仕方なく黙る。ため息をつき、テーブルの上の缶ビールに手を伸ばした。缶は軽く、もうほとんど残っていない。飲み干すように、ぐいと呷る。
 エースが自分の何を気に入ったのか、ゾロは知らない。
「好きに出入りして良いよ」と鍵をくれた。夏前にルフィに初めてこの部屋につれて来られて、一時間も一緒に居ないうちにだ。ゾロは特に疑問も持たずに受け取った。ルフィが、良かったな、と笑ったので、ああ良かったのか、と思っただけだ。
 以来、ゾロはこの部屋を自分の部屋のように使っている。自分の部屋もあるけれど、ここにいる時間のほうが長くなりつつある。
自分がエースの何であるかなど、考えたこともないし、知りたいとも思わない。エースの思惑にも興味はない。
 ナミの押し付けてくる女らしい肩の丸みや、伝わってくる熱に、呼吸がゆったりと穏やかになる。眠気を誘われる。なんとなく右手をさまよわせ、その頭に手を触れ、髪を撫ぜてやる。
「ちくしょう」
「どうした」
「あいつ、ほんとわかってないの。私がここであんたとこんな風にしてたって、きっと、なんとも思いやしないのよ」
「そんなことねえよ」
 あるかもしれないが。
「あるわよ」
「あるとしたら、俺だからだろ」
「……そうかしら。たとえばエースとふたりでも?」
「同じだな」
「つまり私を信じてるからじゃなくてあんたやエースを信じてるからじゃない。なによそれ」
 馬鹿にしてる、とほとんど聞こえない声で呟き、ナミはゾロの腿の内側の柔らかなあたりを指先でするすると撫ぜた。
「よせ」
「なんでよ」
 ゾロは答えない。お前を信じているからだなんて台詞は、相手の信頼の底知れない深さに映し出された自分に慄いている人間には、あまりに無意味だ。
「……そろそろ離れろ」
「いやよ、寒いもん。なによなに、ちょっと気分出てきた?」
 似合わないからよせ、と言いたい所だったが、そう言えばナミは兄貴ぶるなと怒るだろうか。ゾロはわからなくなった。そもそもナミのこんな愚痴を聞くために、今日ここにいるわけじゃない。
 頃合よく、コンコン、とノックが聞こえた。引き戸の向こう、台所からすぐの玄関のドア。この家に来る連中で、わざわざノックをする人間など、限られている。
「サンジくんだ」
 ナミはさらに重く寄りかかって、ゾロの右手を引っ張って胸に抱きこんだ。
「おい」
 ゾロの咎める声と同時にドアが開いた。ゾロー、と間の抜けた声がする。
「ゾロ?いるんだろ?」
 上がり口にビニル袋を置いて、ごそごそとスニーカーを脱ぐ音がしている。
「まさか、待ってた、とか」
 ナミが驚いた目でゾロを見上げる。
「あっ!ナミさん!」
 聞こえたのか、常より半音分くらい高いうわずった声がしたあと、玄関でうごめく音はかさかさとスピードを増した。どたどたと三歩ほど進んで、引き戸をガラッと勢いよく開ける。
 笑顔はわかりやすく固まっている。
「おお、お、お前……」
 その目に映るものや頭の中が見えるようだ。ナミは面白がって、ゾロの腕をさらにぎゅっと抱きしめ、柔らかく豊かな胸を押しあててくる。目を合わせてにやりと笑ってやると、明らかにその顔は色を変えた。
[TOP/NEXT]